賭けかもしれない/剣



 たった今聞いた言葉が信じられなかった。目の前の橘は平然としている。当然のことを口にしたと言わんばかりだ。
 もちろん、相川がその詳細を知らないだけで、その結論に至るまで、橘はさまざまなシミュレーションをしてきたのだろう。相川には、シミュレーションというものが何か、いまいちよくわかっていなかったが――使い方は間違ってないと思う。
 橘が手折ってきたという桜の枝が、はらりと花びらをこぼす。
 さっきの言葉はおそらく聞き間違いではない。だから、問い返してみることにした。
「今何と言った?」
「ギャレンバックルがようやく直ったと言ったんだ。直すのにこんなにかかると思わなかったがな」
「本当に直していたのか」
「どういうことだ?」
「下手な冗談だと思っていた」
 橘はわずかに苦笑した。そこにあるのが本当に苦笑なのか、サングラスの下の瞳からは読み取れない。
 ただでさえ、感情を読むことは苦手なのに。
 相川は、ベッドに座らせた橘をじっと見下ろした。サングラスに映る自分の姿が落ち着かない。無造作に伸ばした手でサングラスを外すと、橘は今度こそ本当に苦笑した。
 サングラスを自分のポケットにしまい、相川はテーブルに寄りかかる。
 戦いが終わって2ヶ月が経とうとしている。移ろう日々はあまりにせわしなかった。少しも落ち着かない日常は、離れていったものの不在を何より強く浮き立たせた。
 剣崎が姿をくらませてから1週間も経たぬうちに、今度は橘が姿を消した。相川が持つスピリット以外のすべてのカードと、ブレイド・レンゲル・壊れたギャレンのバックルを回収して。
 白井や広瀬栞は剣崎を探しに行ったものと思いこんでいたようだが、相川はそうは思わなかった。
 あれは脆くて情に流されやすいが――それは優しさというものの一部らしい――後先構わず追いかけていくほど浅くはないだろうという確信があった。さんざんだまされて利用されて、それでも常に最善を模索しているような男だ。さまざまな危険性を、誰より理解してもいるはず。
 本当に剣崎を連れ戻したいと思っているのなら、そのための準備をしているに違いない。
 相川の予測は当たる。
 年度も切り替わろうかという頃、橘は戻ってきた。烏丸とともに新生Boardを立ち上げたという知らせを携えて。
 ハカランダに現れた橘は、空白の時間などなかったかのように振る舞っていた。
 空白は誰の目にも明らかなのに。
 今の橘は、どこか危うい。以前から黒味の強い衣服を好んで着用している節はあったが、もはやそれを通り越している。
 スーツは黒、シャツもネクタイも靴も黒。それぞれ少しずつ色味は違うが、黒であることに変わりはない。ハカランダで一緒に出迎えた白井は、葬式があったのかと心配していた。
 喪服。
 最近の橘の服装は、そういうものに似ているらしい。誰に向けたものかはわからないが。
 あまりにも全身が黒かったために、ひょっとしたら下着まで黒いのではないかと、相川は邪推していた。
 天音たちには聞かせられない話がある。そう言われて部屋に通したとき、相川は真偽を問いただしてみることにした。天音たちの前でできる質問ではないことだけはわかっていたつもりだ。
 遠慮なく訊ねたら、そういうことは口にしないのがマナーだとたしなめられた。じゃあ行動に移せばいいのかと訊いたら、ギャレンラウザーで撃たれたいのかとすごまれた。
 バックルを直しているという言葉は、本当だったらしい。
 直後に言われたのだ。ようやく直った、と。
「材料があれば直すのは簡単なんだが……その材料がなかなかそろわなくてな。仕方ないから、谷川連峰まで取りに行ったんだ」
「ひとりで?」
「ああ。念のためにブレイバックルを持って。幸い、使うような状況にはならなかったが」
「なぜ直した? もうアンデッドは現れない。それとも……」
「勘違いするな」
 言葉は容赦がないのに、その口調があまりにも優しくて混乱する。見下ろした先の眼光は、ごく穏やかだった。
「お前たちが戦いを始めるとは思ってない」
「ではなぜだ」
「あとになって慌てたくないからな。できることはしておく。それだけだ」
 穏やかすぎて、逆に不安になってきた。
 もっとも、これは橘からすれば自然な対応だった。今まで、相川とは敵対関係以外のものがなかったのだ。不器用である自覚はあるし、言葉が足りないこともわかっている。信じ切れなかった償いもあるかもしれない。
 子供に接するように、親しい人間に話しかけるように。そう心がけている。
 そうとは知らない相川は、ただ混乱するばかりだ。サングラスをいじり回しながら、つぶやくように問いかける。
「何を慌てると言うんだ」
「話しただろう? 俺が今、どんな研究をしているか」
「アンデッドを人間にするとお前は言った」
「そうだ。剣崎を人間に戻し、お前を人間にする」
「わからない。なぜ、バックルを直すことがそれにつながる? それに、信じてるのか、そんなことが可能だと」
「信じることからすべては始まるんだ」
 こともなげに橘は言う。あれほどだまされ、裏切られ、傷つけられたというのに。
 人間からアンデッド――ジョーカーになれるのならば、逆も可能なはずだ。相川たちの前に戻ってきたあの日、橘は淡々と告げた。
 言ったのが橘でなければ、誰もが冗談だと判断しただろう。相川も同じだ。その衝撃は、バーニングディバイトで橋の下に蹴り落とされたときよりも、遙かに大きかった。
 人間になりたいかと訊かれて、わからないと答えた。人間になれば永遠の命も底なしの生命力も失うが、怖くないかと聞かれて、やはりわからないと答えた。現実感などなかったし、真っ正面から考えたこともなかった。
 相川が望んでいるのは、可能な限り天音たちの側で暮らしていくこと。そして、ジョーカーの姿には、二度と戻りたくないということだけだ。
 そう答えると、橘は笑った。かつて剣崎に向けたように、睦月に向けたように。
 ならば、人間になればいい。それからのことは、なってから考えろ、と。
 橘は簡単に言うが、相川は信じ切れなかった。信じられない対象は橘ではなく、アンデッドを人間にする技術のことだ。人間がアンデッドになる、アンデッドが人間になる――両者のメカニズムは似通ってはいるが、実際にはまったく別物のはずだ。
「まあ、研究が成功しないことには、何も始まらないんだがな。まだ立ち上げ段階を過ぎたばかりだが、少しずつ近づいている自信はあるよ」
「バックルと研究がどうつながる?」
 橘にはいつも見下ろされていたから、見下ろす姿勢は新鮮だ。アンデッドの視力は、暗闇にも阻害されない。橘が穏やかな表情をしていることが、また新鮮だった。
「俺はブレイドよりもギャレンとの融合係数が高い。少しでも安定している方がいいだろう」
「なぜそうなる?」
「アンデッドを人間にするとき……おそらく、薬物の注射か投与か点滴か……そういうものになると思うが、どんな副作用が出るかわからない。もちろん、危険性は潰していくが、万全と言い切れるわけじゃない」
 言いたいことがよくわからない。ギャレンの姿で注射を打ったり、薬剤を調合するとでも言うのだろうか。
「どういうことだ? わからない」
 ため息をついたとも微笑を浮かべたとも取れる表情で、橘は小さく首を傾けた。
「何かあったとき……副作用で暴れ出したり、端的に言えば闘争本能が抑えられなくなったときだな。力ずくで押さえつける人間が必要だろう?」
「それがお前だと?」
「俺のスペックでは確かに心許ないが……睦月を巻きこみたくない。キングフォームにでもなれば、まあ、何とかなるだろう」
「俺や剣崎が暴走したとき、お前が止めると言っているのか?」
「そのつもりだ」
 あっさりと橘は言う。それがどれほどの困難か、わかっていないはずもないのに。
 橘の融合係数は、元々高い方ではないという。今までの戦いぶりや彼の口ぶりから察するに、橘やギャレンのスペック自体もさほど高くはないだろう。また、ラウザーが醒銃という性質上、得意とするのは中〜遠距離戦だ。2体のジョーカーが共闘することなどあり得ないが――三つ巴となったとき、距離を取れなければ、追いつめられるのはギャレン。
「だから、少しは加減しろよ」
「加減?」
「ふたりに全力で来られたら、あっという間に変身解除だからな。お前だけでも、剣崎を押さえるか逃げ回るかしてくれ」
 そんな困難を、こともなげにあっさりと言い放つ。ギャレンがひとりでジョーカーふたりを押さえこむよりも、ジョーカーが闘争本能を抑えて――ましてや逃げ回る方が難しいに決まっている。
 本気で言っているのかと見下ろすが、冗談を言っているようすはなかった。
 とりあえず言ってみる。
「剣崎に言え。俺は知らない」
「安心しろ、両方に頼む」
 にっこり笑って告げられた言葉に、ため息をつくしかなかった。

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 口調がわからなすぎる。
 そして、不調期に書いたために文章がいろいろ楽しいことに。