月の夜/フォーゼ



 ラビットハッチにいると、時間の感覚が希薄になる。ここは月面、夜の世界。
「根を詰め過ぎじゃないのか」
 だから、隼に声をかけられるまで、賢吾は時間を見失っていた。
 はっと我に返る。見上げれば、隼はわずかに苦笑をにじませていた。差しだされたスポーツドリンクを、軽く頭を下げて受け取る。こういうものはあまり好きではなかったが、今の自分の体に必要なことくらいはわかった。
 口をつければ全身に染み渡る。くたびれ果てた指先にまで、力が戻る気がした。
 空腹にも喉の渇きにも気がつかなかった。目が重い。全身が凝り固まっている。軽く背伸びすれば、関節がばきばきと音を立てた。身動きするたびに、潤滑油の切れた機械のように体がきしむ。
 いつの間にか、弦太朗やユウキたちもいなくなっている。ラビットハッチを出る際に声をかけられたはずだが、全然覚えていない。
 ゆっくりとこめかみをもみほぐす。鈍い痛みがじわじわと生まれつつあった。
 時計を見やれば、すでに夜の9時だ。
「もうこんな時間か……門が閉まる。早く帰った方がいい」
 隼はきざな仕草で肩をすくめる。かつての高慢で威圧的な態度が信じられないほど、今の隼は穏やかだ。王者の風格とまでは言えないものの、包容力に似た気配すら感じられることがある。
 鋼の巨人を駆る戦士にふさわしい、かも知れない。
「君はまだここにいるのか?」
「もうすぐ調整が終わる。ゾディアーツの襲撃も頻繁になっている……少しでも戦力は多い方がいい」
 もう少し、あと数時間もあれば、スイッチの調整が終わる。今が佳境だ、ここで中断したくはない。
「だが、ここで君が無理をして倒れたりしたら、誰がその調整をするんだ?」
「今俺が帰って……明日俺が倒れたら、このスイッチは完成しない」
 細心の注意を払い、出力を少しずつ上げていく。繊細なバランスが要求される作業だ。
 ふむ、と隼はうなずいた。
「確かにな。だが、考えてもみてほしい。なんで俺が残っているか」
 そうだ。
 言われてみれば、隼だけが残っているという状況は初めてだ。最後までラビットハッチに居座るのは、たいてい弦太朗かユウキだったのに。昨日はJKが鬱陶しいくらいまとわりついてきて、結局は7時頃にラビットハッチを出ることになった。
 なんだか妙だ。隼を見上げると、意を得たりとばかりに微笑まれた。そんな、気合いの入った笑みを向けられても全力で困るが。
「持ち回りでね、君が無理をしないように、帰れコールをすることになった」
「……それは、普通は電話でするものじゃないのか」
「電話やメールでは、君は聞かないだろう」
 直接言われたところで聞く気もないが――そうとも言い切れないのが情けないところだ。JKにも前日のユウキにも、賢吾は結局負けたのだから。
 だが、今日だけは負ける気はない。本当に、あとほんのちょっとなのだ。
「数日暮らせるくらいの設備ならある。あなたは気にせず帰るといい」
「そうはいかないな。今日は俺の担当だ。君がおとなしく帰ってくれないと、俺も帰れない」
 無視して作業を続ける。淡い放電がスイッチを包みこんだ。まだ、弱い。
 隼が身を乗り出した。
「困ったな。今から美羽たちを呼ぶしかないか。いや……」
 言葉を切った隼は、すたすたと扉から出て行った。
 嫌な予感とともに視線を向けた賢吾は、隼が鉄アレイをひょいを持ち上げる瞬間を目の当たりにした。何キロあるのかはわからないが、賢吾ではどんなに頑張っても両手で持ち上げるのがやっとだろう。
「俺が、君を抱えて帰った方がはやいかな」
 これが脅しでなくてなんだろう。背筋を汗が伝う。
「……あと10分だけ待ってくれ」
 俵のように抱え上げられるなんて、そんな屈辱は絶対に御免だ。
 隼も安堵したように微笑む。
「そうか、聞き分けがよくて助かるな。明日は美羽だそうだ。お手柔らかに頼むよ」
 お手柔らかにお願いしたいのは、むしろこちらだ。仮面ライダー部なんてものはそもそも存在しないし、賢吾は部員ですらない。なのに、弦太朗たちは我が物顔でラビットハッチに入り浸るわ、いつの間にか活動を知る人間が増えるわ、帰れコールなどはじめるわ――夏休みが明けて以来、ろくなことがない。
 それなのに、彼らをはじくようセキュリティに命じないのはなぜなのか。自分でもよくわからない。
 だが、ひとりきりの暗い部屋に帰る憂鬱さが、こうして誰かといることでわずかでも和らぐのは事実だ。それだけは認める。
 やがてすべてを飲みこむだろう暗がりも、今は怖くはない。