君は月を見たか/ゴーカイ



 ハカセがゴーカイガレオンの整備を終えたのは、真夜中もだいぶ過ぎた頃だった。
「よい……しょっと」
 グローブを外した左手で腰の後ろを叩く。右手のグローブも同じように工具箱の方へ放り投げると、首筋をもみほぐした。
 ずっとしゃがみこんでいたせいで、体中が硬く凝り固まっている気がする。
 ふう、とため息をひとつ。つなぎの袖口で額の汗を無造作にぬぐった。吐息は真っ白に曇りのぼっていく。仰いだ空には満天の星、胡乱なまなざしの月はだいぶ傾いていた。風がほとんどないのは助かった。冷たいにおいの空気が、ゆるやかに渦巻きながら流れていく。ガレオンの高度を下げて碇を下ろしたのは正解だったようだ。
 ガレオンは頑丈だが、戦闘が続けばわずかな瑕疵も致命傷になりかねない。合間を縫っては、こうして点検調整に精を出している。メカニックらしいメカニックが他にいないのだから、ハカセに選択肢はない。もともと機械いじりが身近だったこともあって、睡眠を削ってメカのために時間を費やすのは苦痛ではなかった。
 彼らもそのぶん応えてくれる。
「お前も頑張ってるね」
 帆柱を軽く叩く。押し返す感触は冷たい。頼もしい頑強さだ。
 彼らがあるからこそ、こうして地球まで渡ることができたし、ザンギャックの襲撃もかわすことができた。ゴーカイジャー航海の最大の功労者と言ってもいいくらいだろう。
 いつもありがとう、と手を合わせる。
 急に寒さを感じたのは、少し風が出てきたからか。雲が月に目隠しする。結んでいた袖をほどき、ジッパーを首元まであげた。ジャケットを持ってこなかったのは失敗だ。昼間の暖かさに油断した。
 思ったより熱が入ってしまったのも要因だろう。隅から隅まで余すところなく整備できた満足感が、夜の風に少しずつ冷やされていく。
 大急ぎで片付け始める。このままでは風邪を引きかねないし、お宝探しの最中に居眠りでもしようものなら、今度こそ地面に沈められかねない。グローブもろとも手早くまとめ、巨大な工具箱にぎゅうぎゅうに押しこんだ。ふたを閉めるとどこかの指先が少しのぞいたが、気にしないことにする。
「なにしてんだ、ハカセ」
 不機嫌そうな声に飛び上がる。扉が開いたことに気づかなかった。
 振り返ると、妙にぎらついた眼光のマーベラスが歩み寄ってくるところだった。真っ赤な袖が風にはためいている。左手になにか持っているようだが、暗くてよく見えない。
 あまりに鬼気迫った表情に気圧され、一歩下がる。耐えきれずにもう一歩。
「それはこっちの台詞だよ。どうしたの、こんなとこまで上がってきて。おもしろいものなんて、なにもないよ」
 淡い雲が切れ、月光がさした。マーベラスの左手にあるのが大きなボトルであることにようやく気づく。
「地球には月見ってのがあるらしいな」
「月見? なにそれ」
「くそ、細いな……雲も出てやがる」
 妙に会話がかみ合わない。足音が常になく荒いのも気になった。帆柱を背に座り、ここに来い、と自分の隣を示す。
 それだけで死にそうな心地がした。嫌な予感しかしない。
 もう一度、今度は力強く隣を指し示され、しぶしぶ従った。工具箱はその場に置いていく。左側を選んだのは反抗心からではなく、武器を扱う手をふさぎたくないからだ。
 隣に腰を下ろした途端、ハカセは盛大に顔をしかめた。
「うわあ……マーベラス、すっごく酒臭いよ。どれだけ呑んだの」
「んー? ああ……」
 どこか遠くを見つめたまま、マーベラスは答えない。たぶん、ハカセの声は、鼓膜の数センチ手前でどことも知れぬ遠くへ旅立っている。
 まさか、と左手からボトルをもぎ取る。明らかにお酒だった。封が切られ、申し訳程度に押しこまれたコルクが今にも外れそうになっている。ボトルを飾る見たこともないラベルに、意識が飛びそうになった。
「うそだろ……これ、地球のお酒じゃないか。どこで手に入れたの!?」
 すぐに取り返された。
「地球に決まってるだろ。ワインとかいったな、こいつ。結構うまい」
「……まさか、またルカのお宝売ったの?」
「いや」
 マーベラスは妙にふわふわと視線をさまよわせながら、びしっと指さした。
 ハカセを。
 時が止まる。誰のお宝を売ったって?
 マーベラスはコルクを抜き、ボトルに直接口をつけた。思い切りあおる。喉仏が幾度か大きく上下した。楽しそうに目を細め、唇の端を伝うワインを袖口でぬぐう。うまい、と、心底満たされたようなつぶやき。
 全身の血が急速に冷えていく感覚に、くらくらした。急いでマーベラスの視線の先に移動する。
「売ったの、僕のお宝……なの?」
「ああ。なんかの工具、しまってただろ」
「うそだろ……まさか、ペンライト型のじゃないよね!?」
「さすがにそれは売らねえ。あっただろ、あの……なんだ……」
 右手の指先が、空中に頼りないラインを描く。軌跡を追ってもなんだか少しもわからない。いいとこスゴーミンの頭だ。
 要するに。
「どんなのか……忘れた?」
「そんなとこだ」
 がっくりと肩を落とし、元の位置に戻る。あれを売られなかっただけよしとしよう。そう言い聞かせなければ、際限なく落ちこんでいきそうだった。
 普段の不敵な気配はどこへやら、今は傲岸不遜な酔っ払いだ。これだけ酔っているのだから、空けたのは1本や2本ではないだろう。今、サロンに降りれば、酒瓶がごろごろしているわけだ。
 誰が片付けると思っているのか。
 膝を抱えてそっぽを向いていると、不穏な気配を感じた。おそるおそる振り返ってみると、やや足下の危ういマーベラスがゆらりと立ち上がったところだった。もちろん、酒瓶も一緒だ。
 左手が持ち上がっていくのを見て、慌てて立ち上がる。
「マーベラス!?」
 コルクを踏んで転びそうになる。酔っ払いのようなステップを披露しながら、ハカセはマーベラスの腕をつかんだ。思い切りぶつかる形になったのに、彼は小揺るぎもしない。嫌な予感にボトルをもぎ取ろうとするが、指は少しも動かなかった。
 悪役にしか見えない笑顔がハカセを振り返る。
「こいつらも頑張ってるからな」
「……うん」
 ゴーカイガレオンは、確かに頑張っている。住居としても、船としても、戦力としても。
「ちったあうまいもん呑ませてやんねーと可哀想だろ」
「もー……意味わかんないよ」
 酔っ払いの腕力にあっさり振り払われる。その場にひっくり返って、勢い余ってもうひと回転。帆柱に腰をぶつける。
 ハカセの悲鳴には眉ひとつ動かさず、マーベラスはボトルを軽く捧げた。
「ゴーカイガレオンに、献杯!」
「ちょちょちょっとちょっとやめてよやめて……うわあああ!? ガレオンが、ゴーカイガレオンがーっ!?」
 ボトルの中身をすべて甲板にぶちまけ、マーベラスはその場に倒れた。しっかりボトルを枕代わりにしている。酔いつぶれたらしい。ハカセはそんな船長を飛び越え、慌ててタオルを引っ張り出した。お酒でどうにかなるほどやわではないが、悪影響が全くないとも言い切れない。
 ともかく掃除だ。あらかたタオルに吸わせたが、完璧かどうか自信はない。
「掃除道具とってきて、それから……」
 すべきことを指折り数えながら背後を振り返り――絶句した。
 今まさにマーベラスが寝返りを打った瞬間だった。長い足が工具箱を思い切り蹴り飛ばし、壁に当たって跳ね返る。けたたましい音を立て、工具箱の中身がぶちまけられた。
 ハカセの手からタオルが落ちる。べしゃり、ともの悲しい音。
 さらに翻ったブーツが工具箱に追い打ちをかけ、整備用オイルのボトルがつぶれて黒い液体が広がり、グリースのふたが開いて中身が盛大に飛び散り――さらにはビスやらワッシャーやらが奔放に散乱する。
 フェライトコアがぽん、と跳ね、船の暗がりへと消えていった。
「……もー、すぐこれだ!」
 いっそ泣きたい。
 寝苦しいのか、しきりに寝返りを打とうとするマーベラス。慌てて駆け寄り、なんとか寝返りは死守した。自分より大きな酔っ払いの体を一生懸命押し、腕を引っ張り、なんとか帆柱まで持って行く。いっそ柱に縛りつけてやろうかとも思ったが、目を覚まされたときが怖い。
 外にくくりつけたまま航海されそうだ。
 すっからかんの工具箱を隅に寄せ、念のためタオルもその脇に避難させた。なるべくマーベラスを視界の隅から外さないようにする。
「これから……片付けかあ……」
 掃除を始める前に、マーベラスに毛布をとってきた方がいいだろう。目を離すのは心配だが。
 豪快ないびきと毛布のはためく音をBGMに、ハカセ大奮闘の夜は過ぎていく。


 翌朝、ふたりは熱を出した。