音楽を捧げる/奏組



 時刻は真夜中。音子が練習室の前を通りがかったのはたまたまだった。お手洗いまで行って、青い光に誘われてサロンまで行ったその帰りだった。
(あれ、誰かいる)
 小窓から練習室を覗きこんでみる。予想よりかなり低い位置に、小さな後ろ姿が見えた。小さく見えるのは、体を丸めるようにして床に座りこんでいるからだ。青白い月光の中、まろやかに輝きを灯すホルンが、不吉なほど白く浮かび上がっている。眠っているのか、楽団服の肩が安らかに上下していた。
 行きに気がつかなかったのは、彼がずっと床に座っていたからだろう。床で寝たからといって風邪を引くような季節ではないが、このままでは可哀相だ。
(体も固まっちゃうし)
 扉を押し開け、わざと足音を立てて歩み寄る。
 だが、彼――ブラス隊のクロード・ウェッソンは、まったく目を覚ます様子がなかった。ぴくりともせずにうなだれている。片あぐらの腿にホルンを乗せ、膝に左手と頬を乗せていた。
「クロードさーん?」
 声をかけても反応はない。もう一度声をかけてから、軽く腕をつついてみる。
 微かに肩が動いた。長く息を吐き、クロードがゆっくりと若草色の目を開く。ゆるゆると顔を上げ、音子を振り返った。焦点はぼんやりとしている、気がする。音子を通り越しているようにも見えた。
 眠りの気配の色濃い瞳をゆったりとまばたかせ、微笑んだ。
「Monsieur le professeur?」
「えっ?」
 聞き慣れない言葉に首をかしげると、クロードも同じ方向へ首を傾けた。
 緑の瞳が大きく見開かれる。あたふたと周囲を見回したクロードは、なにかを把握したらしい。ホルンを抱えたまま、ものすごい勢いで後ずさった。
「た、たた、隊長!?」
 椅子を引っかけ、そのままひっくり返る。転がってもホルンを手放さないのはさすがだ。
「クロードさん!? 大丈夫ですか!?」
「Je vais tres bien! ああ、違った、大丈夫、大丈夫です!」
 いくら何でも動揺しすぎだろう。いつものしゃっきり伸びた背筋がうそのように、土下座せんばかりに頭を下げはじめた。普段なら源三郎と同じくらいの高さにある視線が、今や、音子の膝と変わらない。
「大変お見苦しいところを……失礼いたしました」
 その体制のまま、ずるずると後ずさっていく。
 音子と距離を置こうとしているのだと気がついたのは、彼がおしりを譜面台にぶつけたときだった。さっと手を伸ばして倒れることを防ぎながら、器用にも身をひねって、数センチ下がる。
 どうやら、互いが腕を伸ばしても届かないくらいの距離を保ちたいらしい。彼なりの配慮なのか、混乱しまくっているのかはいまいちよくわからなかった。
(嫌われてはない、よね)
 普段はこんなに距離を開けようとはしないし、挙措は穏やかで、常に友好的だ。
 紳士的かつ控えめな平時がかすむほど動揺しきりなクロードが、少し可哀相になった。ホルンを落とさずにいられることが奇跡としか思えない。
「顔を上げて下さい。顔を見られないのは寂しいです」
 距離を保ったまま言うと、落ち着かない様子ながらも、クロードは素直に顔を上げた。
「こんな時間ですけど、少しお話ししませんか?」
「扉、しまってます」
「防音室ですし、扉閉めないと意味ないですよね?」
「……ですよね」
 彼はなにを気にしたのだろう。
 音子は壁を背に座りこんだ。距離はキープしながらも、クロードも壁にもたれかかる。
「こんな時間まで練習ですか?」
「練習と言えますかどうか」
「もしかして、霊音、でなくなっちゃったんですか?」
 喉仏が大きく上下する。膝ごと楽器を抱きかかえ、うなだれるようにうなずいた。
(ああっどうしよう、へこませちゃった!)
 責めるような口調ではなかったと思う。だが、気にしているクロードにはざっくり刺さってしまったらしい。高い霊力を持つクロードが戦線に立てないのは、霊音が不安定すぎて戦いを任せられないからだと聞いている。
「で、でも!」
 両手の拳を握りしめる音子を、クロードは不思議そうに見やった。
「私、クロードさんの音も好きですよ」
 クロードは目をしばたたかせた。氷が緩むように微笑する。
「もったいないです。僕も、隊長の指揮が好きですよ。一生懸命で、優しくて」
「えへへ、ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらです。ありがとうございます、隊長」
「ええっ。お礼を言われるようなことなんて……」
「太一に見つかる前に、と考えていましたが、焦っても仕方ないと思えました」
 穏やかな弧を描く唇が、マウスピースに触れる。
 紡ぎ出される音色には霊音はなかった。悲しげにくゆる音色、身を切り裂かれるような哀切の調べ、涙を誘うような旋律。
 死者を思うような、胸を締めつけるほどに切ない音楽。
(レクイエムだ……)
 きっと、音子と間違えた人のための演奏だ。
 クロードの頬には、涙の筋がわずかに残っている。こんなにも暗いのだ、このまま音子が気がつかなくても、少しも不自然じゃない。
 悲しい旋律に目を閉じる。

 翌朝。
 壁にもたれて眠るふたりを見つけたルイスは、さてどうしたものかと首をひねったという。