遠い星/タイム



 真夜中のTR。竜也は喉の渇きに目を覚ました。吐息は白くはなかったが、ベッドを出ると思いの外肌寒い。
 サイドボードのペットボトルに手を伸ばした。そばのコップに水を注ぐ。
(暖かい格好してるんだろうな、シオン)
 ふと、心配になった。今日は壊れたパソコンを預かって帰ってきた。仕事に没頭するあまり、冷えこんだことにも気づいていないかも知れない。スリープモードのタックが、室温が下がったことを知らせるためだけに起動するとも思えないし。
 竜也は音を立てぬよう扉に向かった。
「おーい、シオン」
 後ろ手に扉を閉め、声をひそめて呼びかける。
 だが、事務所にはシオンの姿はなかった。きっちり組みあげられた預かりもののパソコンが、デスクに大切そうに置かれている。いつもの定位置には、TRの青い上着が掛けられているだけだった。
 取り上げた上着にぬくもりはない。手洗いでもないようだ。そのポケットからクロノチェンジャーが転がり落ちて瞠目する。
 シオンになにかあっても、ロンダーズが現れたとしても、これでは連絡が取れない。
 心臓が嫌な音を立てた。背に冷たい汗が浮く。
「どこ行ったんだ、シオン……」
 シオンのクロノチェンジャーを自分のポケットにしまい、タックの元へ急いだ。
「タック、シオンがどこに行ったか、知らないか?」
 軽く揺さぶると、彼はまん丸な目を開いた。戸惑うようにつばさを広げ、ゆっくりと首を振る。
「シオンがいないのか?」
「事務所にはいないんだ。ロンダーズは出てないだろ?」
「ああ、反応はない。クロノチェンジャーで呼びかけてみたのか?」
「いや……」
 ポケットからクロノチェンジャーを取り出し、見せる。タックはいぶかしげに目を細めたが、竜也の手首にはまるクロノチェンジャーにすぐに気づいた。信じられないと言いたげに首を振り、慌てたように羽ばたく。
「まさか、おいていったのか……?」
「遠くに行ってはないと思うんだ。少し探してくるよ。ユウリたちには内緒な」
「しかし……」
「ちょっと探してみて見つからなかったら、また連絡するから。案外、すぐに見つかるかも知れないだろ」
 ドモンに知れたら大事だ。
 それに、シオンは本当に、小さな気まぐれを起こしただけかも知れないのだ。地球の人間には理解しがたく想像もつかない優秀な頭脳の発想は、竜也たちにはよくわからないことも多い。歳不相応な無邪気さと、時折見せる痛々しいまでの頑固さと。
 彼の夜は長いのだ。事務所に閉じこもっていることに飽いただけかも知れない。
 なるべく静かに廊下へ歩み出ると、きしませぬよう注意を払って扉を閉める。こちらを振り返るタックの姿は、夜にひとり取り残された子どものように寄る辺ない風情だった。
 夜を通常モードで過ごすことは少ないのかも知れない。シオンの不在は、どこか保護者めいた感覚さえ持っている様子の彼には、心配で仕方ないことなのだろう。
 TRの駐車場にも、シオンはいなかった。
 時はすでに真夜中、丑三つ時だ。大声で呼ぶこともはばかられる。等間隔の距離を置いてたたずむ街路灯など見慣れているはずなのに、今にも身をくねらせて飛び立ちそうに見えるのは、どうにも消えようとしない不安だろうか。
 誘拐、あるいは襲撃――その可能性をどうしても考えてしまう。
 コンビニのある大通りまで歩いてみたが、求める少年の姿はなかった。念のためにコンビニの中ものぞくが、暇そうなアルバイトの青年があくびをかみつぶしているだけだった。
 自動ドアを抜けた竜也の前を、青く目をきらめかせた猫が横切っていく。
「お前が知ってたり……しないよな」
 猫が答えるはずもない。鯖色の足で音もなく歩みを進める。竜也も歩き出した。自然、猫を追うような格好になる。形のよいしっぽがテンポよく左右に揺れる。その耳がちらりと後方を気にした。
 ふいと脇道にそれる。竜也はそのあとについて行った。
 追ってくる人間が気になったのか、猫は足を止めて振り返った。胡乱な一瞥をくれると、木立の中に駆けこんでいく。
「あ」
 柵をすり抜け、猫は植えこみに姿を消した。
 きぃ、と金属のきしむ音がする。頭蓋を貫く直感に、竜也は駆けだした。木立が切れ、U字の車止めを飛び越える。
「ほんとに知ってた……」
 細い月が淡い光を落とす公園。所在なげな街灯が心細く立ちすくむ。
 影が長く伸びている。他に誰もいない公園の隅で、シオンを載せたブランコがゆるやかに揺れていた。
「シオン」
 呼びかけると、空を仰ぐ横顔がぱっと振り返った。ブランコを止めるシオンの元へ、竜也は小走りで向かう。
「どうしたんです?」
 目をまん丸くし、心底不思議そうに見上げてくる。その額を軽くこづいた。
「どうしたもなにも。起きたらいなくて、心配したんだぞ」
「あ、そっか……すみませんでした」
 シオンはしゅんと肩を落とした。力なくうなだれ、唇をかみしめるような仕草までする。
 隣のブランコに座り、竜也は苦笑を向けた。
「せめて、これはつけてけよ」
 クロノチェンジャーを手渡す。
「はい。あの、ありがとうございます」
「なにが?」
「その……ずっと、探してくださったんですよね。みなさんは、夜は寝なきゃいけないのに。ごめんなさい」
「悪いことなんてないよ。次からはタックに言うとか、メモ残すとかしてくれるといいけどな」
「はい」
 素直にうなずく様子は、いつものシオンだ。
「それで? なんで黙って出かけたりしたんだ? 今までなかったろ、こういうの」
 シオンは恥ずかしそうに笑った。地面を一蹴り、ブランコが動き出す。
「夜遊びをしてみたかったんです」
 テレビで見たのだろうか。
「こういうのは夜遊びって言わないだろ」
「えっ、夜に遊ぶから夜遊びって言うんじゃないんですか?」
「うーん、まあ、言うかも……」
 深く突っこまれると困る。変なことを覚えさせると、あとでユウリたちに怒られそうだ。
 シオンを載せたブランコは、次第に大きな弧を描きはじめる。竜也も地を蹴った。子どもにはあり得ない重量に抗議するように鎖が震え、しぶしぶといった体で動き出す。
 竜也がひときわ大きくこぐと、シオンもならうように精一杯の反動をつけた。子どものようにむきになりながら、竜也は言葉を紡ぐ。
 頬の周囲に渦巻く風が冷たい。
「楽しいか、夜遊び」
「はい、楽しいです。今度は、みんなで一緒に夜遊びしたいです」
「ドモンを乗せたらブランコが可哀想だな……」
 シオンの後ろ姿が夜空へと跳ね上がる。
「僕、空を見たかったんです」
「空?」
 背後に遠ざかっていくシオンを振り返る。すれ違う一瞬、シオンの横顔には笑みがあった。透明で、哀しい笑顔。
「30世紀と違って、夜もよく星が見えるでしょう?」
「ああ、明るそうだもんなあ」
「ハバード星も見えると思ったんです」
 喉が鋭い音を立てた。空気のかたまりをむりやり嚥下する。
 追って、追われて、昇って、降りて――ブランコの音だけが夜のしじまに響く。
 見上げた夜空は恐ろしく澄み切っていた。黒と深い青の深淵で、無数の星がひっそりと瞬いている。改めて空を見上げて、あまりの星の多さに息苦しささえ感じた。あのどこかに、本来の時間にはない故郷がある――。
 続くシオンの声は明るい。
「僕、馬鹿ですよね。見えるはずないんです。地球からうんと離れてますから」
「そっか……」
「でも……あるんですよね。この空の、どこかに」
 少しずつシオンのブランコが低くなっていく。竜也もそれにあわせた。追いつ追われつ、悲鳴のように鎖をきしませてブランコは止まった。
 見やったシオンの表情は穏やかだった。なんと声をかけたらいいかわからなくて、ただ見つめる。
「きっと、みんな幸せに暮らしてます。僕みたいに」
 言って、心底幸せそうに笑う。
 本当の知らない母星が、ここにはある。手が届く場所ではないし、あれは彼のものではないけれども、でも、彼の故郷でもあったはずの星。見えない祖国がある、それだけで十分だと微笑む。
「21世紀に来られて、よかったです」
「今度は、みんなも連れてこような。夜桜見たりさ」
「はい。僕、楽しみです」
「じゃあ、帰るか」
「はい」
 ブランコを降りて歩き出す。
 公園に、ふたりの長い影が伸びた。寒がってしがみつくシオンを笑いながらジャケットでくるみ、じゃれ合うように事務所へと戻る。
 タック以下、全員が事務所に勢揃いしているとは、もちろん、ふたりは知らない。