ハーフボイルド/ダブル



 風都は今日も泣いている。殺人事件、連続凍結事件、交通事故。涙の数は数え切れない。
 社会面を広げ、翔太郎はカップに手を伸ばした。飲み下したコーヒーの苦みが、胸郭全体に広がる。
 子供たちの歓声が窓の下を駆け抜けていく。太陽の明るさとは裏腹に事務所の影は濃い。風車の羽根が陽光を斬り、物憂いため息をつく翔太郎の視界をひどくちらつかせる。
 はじまりの夜から、もうすぐ1年が経つ。朝一番におやっさんの姿を探すこともなくなった。代わりに探すのは相棒の姿だ。毎朝、ガレージのソファに丸まるように眠っているフィリップを見て、初めて生きた心地がする。
 時間とは無情な悪魔か、慈悲深き女神か。未だ癒えきらぬ傷を、触れれば破れそうな薄い皮膚がかろうじて覆っている。その下には、無惨なほど赤い血流を透かして。
 新聞の隅々まで目を通す。生活面には育児に悩むシングルファーザーの相談が載っていた。他人事とは思えない。
 小さく蝶番のきしむ音に顔を上げると、フィリップが後ろ手に扉を閉めたところだった。
「どうした、フィリップ?」
 表情は明るいが、検索結果をまくし立てに来たにしては、妙に身のこなしが穏やかだ。膝の周囲でパーカーの裾を踊らせ、歩み寄ってくる。小脇に抱えたいつもの本には、なぜか封筒が挟まっていた。
 フィリップが持って行った古新聞に、翔太郎宛の手紙でも混じっていたのだろうか。
「初めての手紙だよ」
 フィリップは、優しい草色をした淡い風合いの封筒を指先にはさみ、ひらひらさせた。しっかり封がされたままなのを確認して、ほっとする。明らかに個人的な手紙だ。
 ネクタイのゴミを取りながら抗議する。
「あのなあ……人聞き悪いこと言うなよ、相棒。俺だってな、手紙くらい……」
「なぜだい? 僕は、君に手紙を送ったことがあったかな」
「なんだって……?」
 指先からネクタイがするりと逃げる。聞き間違いでなければ、なんだ。
「だから、手紙さ。僕から君への。はじめてだろう?」
 至極当然のように言われて、頭がついていかない。誰が誰に、何を書いたって?
 翔太郎の混乱もどこ吹く風。中途半端に持ち上がったままの手に、フィリップが手紙を押しこんだ。妙に晴れ晴れとした様子でガレージへと戻っていく。
 翔太郎は、相棒の後ろ姿を、口を開きっぱなしにしたまま見送るしかなかった。
「……暑さでやられちまったか?」
 翔太郎がやられたのか、フィリップがやられたのか、それはわからないが。
 疑り深く開封した手紙は、何かの図面の裏紙だった。記されていたのはたった一文。
『君のハーフボイルドは嫌いじゃない』
 よーし、相棒。今夜はシーザーサラダだ。たっぷりのハーフボイルドをお見舞いしてやるぜ。