明日へ/ダブル



 階上の足音に気づいたフィリップが事務所に登っていくと、小さな冷蔵庫の前に陣取った翔太郎が、力業で野菜を押しこんでいるところだった。
 そばには帆布のエコバッグが転がっている。空調の止まっていた部屋の空気はじっとりと重い。太陽の熱は、壁にも床にも天井にも、余すところなく蓄えられていた。
「翔太郎、おかえり」
「おう」
 翔太郎は振り返りもしなかったが、フィリップには不満はなかった。あーくそ入らねえ、とつぶやいた翔太郎は、諦めたように野菜のいくつかと缶をカフェテーブルに置いた。
 傍らには細い持ち手のついた紙袋が置かれていて、ぱんぱんにふくれている。
 ウインドスケールの新作を買いこんできたようだ。見覚えのない帽子がはみ出している。
 赤みを帯びた陽光が、室内を熱の名残の金色に染める。物悲しいヒグラシの歌にまぎれて、誰かの口笛が聞こえる。震えるような低い響きを曳いて風車が回った。
「もうすぐ1年だな……」
 翔太郎が、ぽつんと声を落とす。立ち上がったその手には、いつの間にか、開けられたビールの缶がある。デスクの上には、お行儀よく3本の缶が整列していた。フィリップに投げてよこしたのは、ミネラルウォーターのペットボトルだった。
 キャップをあけ、唇を押し当てる。冷たい感触が喉をすべり落ちた。来た当初、ペットボトルひとつに大騒ぎをして、さんざん呆れられたのを覚えている。
「覚えているかい、翔太郎?」
 はしごに寄りかかる翔太郎に歩み寄る。かすかに混じる、汗のにおい。
「ここに来た日が僕の誕生日だと言っていたよね」
「あー、んなことも言ったっけなあ」
 少しビール臭い息でつぶやく。1本をあっという間に飲み干すと、眉間にしわを寄せて嫌そうに言った。
「やっぱ缶くせえな」
 カフェテーブルの上のすっかり温まったカップを引き寄せ、2本目の中身を注ぐ。縁からこぼれた一筋に唇を寄せたかと思うと、泡をかき分けるようにカップを勢いよく傾ける。喉仏が大きく上下した。さもうまそうに、喉の奥でうなる。
 古びた空調がようやく重い腰を上げ、ぬるんだ空気を落とし始めた。
 2本目を完全に空にして、ようやく翔太郎は口を開く。
「なんかやるか。ふたりじゃ締まらねえし、サンタちゃんとか呼んで」
 わずかに酔いの回った体温の高い腕に引き寄せられて、悪い気はしない。
「これは前祝いかい?」
「おやっさんも……しみったれたのなんか見たくねえだろうしな。本番は派手にやろうぜ」
 翌日、翔太郎はこの言葉を後悔することになる。
 事務所にやってきたのは、隙あらばスリッパを振りかざす、とんでもない誕生日プレゼント――?――だった。