事務所の扉が開く。最後の一矢を投げ終えて振り返った翔太郎は、そこに亜樹子の姿を認めた。なぜかうつむき加減で、左手の指輪に触れている。髪や肩は湿っているようだった。
「おお、亜樹子か。ちょうど良かった、今な……」
「聞いて、ふたりとも」
「どうしたんだい、亜樹ちゃん。元気ないみたいだね」
　フィリップと顔を見合わせる。翔太郎には心当たりはなかったし、フィリップもそれは同じらしい。検索しようか、と問いかけてくるまなざしを、一瞥で抑える。
　亜樹子の声はしおれていた。いつもの有り余るような元気も生命力も感じられない。戸惑い、あるいは悩み――目元が潤んでいるように見えてぎょっとする。
　おまけに、キッチンから顔をのぞかせたリリィが視界に入っていない様子だった。手を止めたリリィは、眉根を寄せ、少し唇をとがらせて首をかしげた。つややかな黒髪がさらさらと肩を滑りおちる。
　雨音が風車を回す。雨脚は強くなっているようだ。
　妙に静かな足音を連れ、亜樹子は歩み寄ってきた。腰でも打ったのか、歩き方がぎこちない。
「あー……コーヒー、飲むか？」
「コーヒー……」
　亜樹子はゆっくりとしばたたいた。首を振る。
「リリィが入れてくれたんだ。かなりうまいぜ？」
「カフェインは、しばらくだめなの」
　リリィがはじかれたように顔を上げた。ヤカンをコンロに戻す横顔に、複雑な感情が揺れている。
　なにかを感じ取ったらしいが、なにかはわからない。女の勘というやつなのだろうか。翔太郎にはさっぱりわからないが。
「あのね、翔太郎君、フィリップ君……」
「お、おう」
「なんだい？」
「十字架がね、出たの」
　すぐそばで悲鳴じみた声が上がった。ぎょっと振り返ると、リリィが両手を胸の前で組み合わせ、大きく息を吸ったところだった。
「本当？　本当に、出たの！？」
「あ、リリィ白銀」
「って、気づいたの今か！」
　翔太郎のツッコミはもちろん届かなかった。亜樹子の顔に警戒心めいたものが浮かぶ。照井をめぐって火花が散っていたことは、もちろん翔太郎も覚えている。
　もっとも、照井の目に映っていたのは亜樹子だったわけだが。
　リリィが素早く動いた。封を切ったばかりのタオルをひっつかみ、亜樹子の頭にかぶせた。優しい手つきで髪を拭く。
「え、え、ちょっと、なに！？」
「なにじゃないわよ！　十字架が出たんでしょ？　風邪引いたら大変じゃない」
　亜樹子は呆然とリリィを見つめた。なんでこんな行動に出るのかわからない、と顔中にでかでかと書いてある。
　翔太郎もまた、唖然とするしかなかった。亜樹子の十字架発言で度肝を抜かれた上、リリィの反応が思ったものと違いすぎて、一瞬、頭がついていかなかった。拗ねたっておかしくない状況なのに。
　カップを持っていなくて良かった――しみじみとそんなことを思った。むしろ、コーヒーを飲んでいなかった幸運を感謝すべきだろうか。派手にむせる程度じゃすまなかったに違いない。
　亜樹子の発言でコーヒーを噴射し、リリィの行動でカップを落とした気がした。
「そうか……出たのか……」
　翔太郎は胸に手を当てた。目の奥にじわじわと生まれる熱を遮り、まぶたを閉ざした面を天井に向ける。
「そうか……」
　一言ずつをかみしめる。まずい、本当に泣きそうだ。つばを飲み下せば喉が痛んだ。感無量とはまた違う。言葉では言い表しにくい歓喜。
　だが、ひとりだけ事態をまったく飲みこめない人間がいた。
「え、なんだい、十字架ってなんのことだい、翔太郎？」
　翔太郎と亜樹子の間に割りこみ、フィリップが興味津々といった体で見上げてくる。どうやら不満もあるようだ。自分だけわかっていないのが嫌なのだろう。のけ者にされたような気分なのか。
　リリィが亜樹子のお腹にそっと触れた。壊れ物に触れる手つきだ。
「何カ月なの？」
　亜樹子は難しい顔で、あごに指先を当てた。
「たぶん……３カ月、かな。病院はまだだけど」
「そっかあ。じゃあ、生まれるのは３月くらい？」
「え」
　フィリップが目をまん丸くする。
　さすがにわかったらしい。翔太郎、リリィ、亜樹子と顔を順繰りに見つめ、勢いよくこちらに背を向けた。パーカーが空気をはらんで大きく広がる。
「ええ！？」
　今にもガレージに駆けこみそうな背中に、翔太郎は苦笑いで声をかけた。
「その前に、言うことあるだろ」
　フィリップははっと振り返った。リリィが笑う。
「よかったじゃない。頑張って。ね？」
「おめでとうな、亜樹子」
「亜紀ちゃんが……お母さん……」
　さて、照井はどんな顔で聞くのだろうか。この様子だと、まだ亜樹子は言っていないだろう。パニックになって、傘も差さずに事務所まですっ飛んできたに違いない。
（待てよ。そしたら俺は……おじさんか？）
　とりあえず、おじさんと呼ばれることだけは阻止しようと心に決めた。