複雑/W



 鳴海探偵事務所の扉がぶち破るように開かれたのは、聞き覚えのある重低音が階下で止まったほんの数秒後だった。翔太郎の心臓は破れんばかりの勢いで飛び上がった。手が跳ね、キーをめちゃくちゃに叩く。
 飛びこんできたのは、不死身の男――もとい、照井竜。
 ごっちゃごちゃにからまったタイプキーを前に固まっていた翔太郎は、足音荒く詰め寄ってくる照井を見てはっと我に返った。ばん、と天板を叩き、立ち上がる。
「おい照井! 扉くらい閉めろ! つか、ちったあ丁寧に扱え!」
「それどころじゃない」
 目元は青ざめているのに、頬骨のあたりはわずかに赤い。手も震えているようだ。
 翔太郎は一歩引いた。なんだか果てしなく嫌な予感がする。フィリップが出かけて不在なのが不幸中の幸いか。むしろ、多少なりとも緩衝材の役割を果たせる――可能性のある――人間がいないことが、不幸のはじまりとなるのか。
「左……」
 かすれた声で照井は言う。決闘を申しこまれそうな気がした。
「俺はどうすればいい」
「……なんの話かわかんねえよ」
「亜樹……所長が……」
(今こいつ、亜樹子って言いかけたな)
 呼び方は、少し改善しているらしい。生暖かく見守りたい気分になる。
 翔太郎のつくしんぼを見守るようなまなざしにはまったく気づかない様子で、照井は言葉を続けた。眉間のしわが恐ろしく深い。
「所長が、所長の……いや、所長に?」
「授かった、ってか?」
 あからさまに動揺した様子で飛び退る。
「なぜわかる!?」
「こないだ亜樹子が来たんだよ。十字架が出たーってな」
 照井は青ざめた。その手が腰に回されたのは、まさか、アクセルドライバーを探してのことか。
 翔太郎はひらひらと指を振って見せた。
「ああ、勘違いすんな。パニックになって駆けこんできたってだけだ。一番に知らせたかったのはお前のはずだぜ」
「……そうか」
 納得したのかどうかはよくわからなかったが、照井はがっくりと肩を落としてテーブルに向かった。よけておいた資料をなぎ倒しそうな勢いでスツールに腰を下ろす。
 ここでなにか気の利いたカクテルでも出せれば完璧だな、と胸中でつぶやきながら、翔太郎は出がらしの緑茶を湯飲みに注いで持って行ってやった。新しいのを供したいのは山々だが、ちょうど茶葉が切れたところだ。
 割と文句を言う照井にしてはめずらしく、なにも言わずに飲み干した。
「お、お前……熱くねえのか……?」
「熱かったのか……」
「いや、まあ、熱々ってほどじゃねえけど。あっつあつよりは……あつってくらいか?」
 言っていて、自分でも意味がわからなくなってきた。一生懸命フォローしているつもりだったが、照井はテーブルに突っ伏したきり動かなくなる。
 照井がここまでショックを受けている理由も、翔太郎にはよく理解できない。少なくとも、亜樹子が照井を大好きで仕方ないことは、身内なら誰でも知っている。逆もまたしかり。照井は亜樹子をとても大切にしている――表に出すことはめずらしいが、注がれるまなざしの熱さを見ればわかる。まさに情熱そのものだ。
 それが、亜樹子の懐妊でこんなにへろへろになるなんて。亜樹子を子どもに取られることが悔しいというわけでもないだろうし。
 ものすごく子煩悩になる確信がある。そして、死ぬまで――いや、死んだあとも永遠に嫁と子どもを愛し続けるだろう。むしろ、嫁と子どものためにも死ねん、とか言い出して、不死身にさらなる磨きがかかる可能性もある。
「おい、どうした照井。嬉しくねえのか?」
「……嬉しくないはずないだろう!」
 がばっと顔を上げた勢いに気圧され、翔太郎は反射的に両手を挙げる。
「なんでキレんだよ」
「俺にもわからん! もう少し先の予定だったんだ……」
「予定なんて狂うもんだろ。亜樹子も喜んでたし、別にいいじゃねえか。5人くらいざくざく産んでもらえよ」
「ざくざく……」
 気が遠のいたような顔をする。
 本当に、なにがしたくてここまで来たのかわからなくなってきた。ここまで使い物にならない照井というのも初めてだ。
 ため息ひとつ、隣のスツールに浅く腰かけ、翔太郎は苦笑を向けた。
「で? なんでここに来たんだ? まさか、亜樹子おいてきた……」
「リリィと一緒だ!」
「ああー……なんか、いきなり仲良くなったよな、あいつら」
 もしかして、嫁をかっさらわれたようで不安なのだろうか。今まで不仲だったふたりが、突然仲良しになったことは、翔太郎にとっても確かに謎だが。
 照井の手の甲に筋が浮いた。拳に力がこもる。
「俺は……まだ先が良かったんだ……」
「まーだ言ってんのか。あのな……」
「まだ名前を決めていない!」
 照井が絶叫する。
 硬直から立ち直るのに数秒を要した翔太郎は、問答無用で照井を事務所から放り出した。
「そんなもん、これからふたりで考えりゃいいだろ!」
 照井が開けたのと同じくらいの強さで扉を閉める。
 見上げた窓辺には夕暮れの気配が濃い。蝉時雨は遠ざかり、ヒグラシの声が遠くで鳴り響いていた。