通りすがりの「クウガ」の世界/DCD



 日曜日のお昼過ぎ。稼ぎ時だというのに、何とも悲しいことに、ポレポレは開店休業、閑古鳥が鳴きまくっていた。
 大変ありがたくない事態だ。
 カウンターの中にひとりぽつんと座っているおやっさんは、ごくごく平和な日常を語りかけてくるラジオを聞きながら、これでもかと食欲をかきたててくる――おやっさんをかき立ててもどうしようもないのだが――カレーの匂いに包まれていた。
 実に平和だ。
 雄介は歩いてどこかに出かけていったし、奈々は稽古に出て行った。みのりは来ない、桜子も訪れない。
 あまりにも暇すぎた。掃除でもしようかと思ったが、開店前にすべてすませてしまっている。店を開けているというのに、暇を理由に掃除をするのも何だか癪だった。
「暇だねえ、暇。困っちゃうねえ」
 寸胴鍋に話しかけながら、少しだけ窓を開ける。このかぐわしい匂いにつられて、誰かやってこないものだろうか。近所の人でもいいから。
 しばらくは何事も起きなかった。お客は来ないし、することもない。株券がどうのという電話が1度かかってきたきりだ。
 だが、寒さを我慢した甲斐があった。
 コーヒーをいれようとサイフォンのアルコールランプに火を付けたとき、ドアのガラスに人影が映ったのだ。
「あら、お客さん?」
 扉が開かれ、ドアベルがにぎやかに歌う。
 入ってきたのは、茶色い髪をした、どこか不遜な印象の青年だった。ポケットに手を入れ、胸をそらさんばかりにして店に入ってくる。
 背が高い。ついでに足が長い。羨ましいかぎりだ。
「いらっしゃい」
 声をかけると、青年はわずかに首を傾けた。うなずいたのか、それとも頭を下げたのか、なんだかよくわからない仕草だ。
 すたすたと歩いてきて、カウンターに席を取る。
 無駄に斜めに座り、彼は堂々と言った。
「カレーひとつ」
「ポレポレオススメカレーおひとつ。加えて、オリエンタルな味と香りのポレポレスペシャルコーヒーはいかが?」
「いや。外で飲むとうちのじーさんがうるさくてな」
「そうなのー、大変だねえ。じゃあ、カレーひとつね」
「ああ。……いや、やはりふたつだ」
 青年は偉そうに言い直し、鼻先にびしっと指を突きつけてくる。ちょうどお冷やを出したところだったおやっさんは、ぶつかりそうになって目をしばたたかせた。
 なに言ってんのこの子。
「うちのカレー、確かにおいしいけど、ふたつも食べてお腹壊さない? お腹壊して『ポレポレオススメカレー食べたからですー』って言わない?」
「安心しろ。それは小姑のぶんだ」
「そうなの? その歳で小姑いるの? 大変だねえ」
 青年はふんと笑っただけで答えなかった。あまり折り合いがよくないのだろうか。なんだかやけに素っ気ない。
 この態度のでかさが原因になっているのでは、とちょっと邪推する。
 ふっくらつやつやなご飯を形よく盛りつけ、特製秘伝のレシピから作り上げたカレーをかける。青年の目が、注がれるルーに釘付けになった。
(勝った……)
 この瞬間がたまらない。
 お待たせしました、と思わせぶりにカウンターに出した直後、ドアベルがからからんと音をたてた。やや乱暴に扉が閉まる。
 足音荒く入ってきたのは、つややかな長い黒髪が印象的な女性だった。青年の姿を見つけるなり目をつりあげ、ずかずかと歩み寄る。
 彼女が噂の小姑だろうか。
 青年は振り返りもせず、目の前のカレーに集中している。
 おやっさんは、ふたりをはらはらと見守った。修羅場でカレー皿が吹っ飛ばされたりしたら悲劇だ。
 女性はさっと手を伸ばし、青年が今まさに口に運ぼうとしたスプーンを取り上げる。
「こんなところで何してるんですか、士君」
「見てわからないか? 優雅にランチだ」
「なにが優雅なんですか! ユウスケが寝こんでるのに! 気にならないんですか!? 看病してあげたって……」
「俺が看病して喜ぶわけないだろ。お前の方がまだましなんじゃないか?」
「士君、ひどいです」
「ひどいものか。下手すると俺よりよっぽど頑丈だぜ、あいつは。いいからスプーン返せ、夏みかん」
 奪い返したスプーンを口に運んだ士は、満足そうにうなずいた。
「こういうこじゃれた味も、たまには悪くない」
 夏みかんなる女性は、呆れたようにため息をついた。疲れたのか、椅子を引き、士の隣に座りこむ。
 どうやら修羅場にはならないらしい。
 ほっとしたおやっさんは、さっそく新しいお皿を手に取った。
「はい、ポレポレオススメカレー、もういっちょ」
 彼女は驚いたように目を丸くした。
「え? わたし、頼んでませんけど」
「そっちの彼から注文もらってるの。おいしいよ、食べてみて、夏みかんちゃん」
「……夏海です」
「あ、そう? 夏みかんちゃんも可愛いと思うけど」
 夏海は射殺しそうな視線を士に向けたが、彼が涼しい顔でせっせとカレーを食べているのを見て、馬鹿馬鹿しくなったらしい。これ見よがしにため息をついてから、少しだけカレーに顔を近づける。
 厳しかった表情が、ふっとほころんだ。
(……勝った!)
 この瞬間も、とても嬉しい。
 夏海はきちんと手を合わせてから食べ始めた。もふもふとカレーを咀嚼する唇がわずかにひらき、おいしい、とつぶやきがもれ聞こえる。
 おやっさんはにんまりした。
「お褒めにあずかり光栄の至り。さて、ここに登場しますはオリエンタルな味と香りのポレポレスペシャルコーヒー」
 びしっとサイフォンを指さす。
「おひとついかが?」
 夏海は少し顔を曇らせた。言葉を探すように視線を下向け、士を見てから、申し訳なさそうにぺこんと頭を下げた。
「飲みたいですけど……外でコーヒー飲むと、おじいちゃん、すねるから……」
「あらそう? 残念」
 まさか連続で振られるとは。ちょっとがっかりだ。
 そのおじいさんに会うことがあったら、説教してやった方がいいかも知れない。ポレポレに来て、この飾玉三郎のコーヒーを飲まないなんて、入念な準備をして登った富士山山頂の初日の出を見逃すようなものだ、と。
 自分の分だけコーヒーを入れ――今日はグァテマラだ――立ち上る馥郁たる香りを楽しむ。
 そういえば。
「うちの雄介はどこ行ったかな……」
 朝方「行ってくるね」の軽いひとことを残して、足取り軽くどこかに出かけていった年若いの友人からは、まったく連絡がない。いつものことといえばそれまでだが――。
 頭上で何かがきしみをあげ、わずかに天井が揺れた。掃除しきれていなかったらしいほこりが、のんびりと落ちてくる。
 何か重いものが落ちたような。
 カウンターのふたりはそろって動きをとめ、頭上を見上げた。半ば持ち上げられたスプーンがふらふらしている。
「上に誰かいるのか?」
「いやあ、いないよ、誰も」
「え、じゃあまさか泥棒!?」
「あんな騒がしい泥棒が、いったいどの世界にいる?」
 妙に実感のこもった言い方だった。
「じゃあ、なんだって言うんですか?」
「さあな。通りすがりのクワガタ、ってところか」
「クワガタ?」
 おやっさんと夏海の声がハモる。
 興味をなくしたのか、士はカレーに戻る。
 どれだけ巨大なクワガタムシが入りこんで来たというのか。成人男性が椅子から落っこちたくらいの音のように思えたが。
 とりあえず、見に行くべきだろうか。
 そこまで考えて、はっと気づく。通りすがりのクワガタなんぞという意味不明な珍回答より、もっとありきたりで可能性の高い答えがある。探さなくても、目の前に転がっている。
 聞こえてきた上機嫌な鼻歌が、おやっさんの考えを裏づけた。
 ご機嫌で階段を下りてきた雄介は、我関せずとばかりにカレーをぱくつく士と、スプーンをふらふらさせたまま不審な目を向ける夏海を見て、目を丸くした。
「あれ、お客さん」
「あれじゃないよ、雄介。また2階の窓から入ってきたりして」
「いやあ、こう、少しだけ窓が開いてて。なんか呼ばれたっていうか」
「またこれだよ。あ、これ、うちの居候の五代雄介」
「え、居候かなあ。ちゃんと手伝いもしてるけど」
「ちゃんとお手伝いしてるなんて偉いですね。士君なんか借金踏み倒すばっかりで、うちのこと、何にもやらないんです。ユウスケはちゃんと手伝いするのに」
「適材適所だ。俺にはモップや雑巾は似合わない」
「意外に似合うんじゃないんですか? 両手にバケツぶら下げてるのがお似合いです」
「へー、なんか面白いお客さんだね」
 しみじみと雄介が言う。2階の窓から出入りする男というのも、それなりに面白いと思うのだが。
 カレーを食べ終えた士が、何かを探るような目で雄介を眺める。誰かと比べているようにも見えるが――先ほど名前の挙がった、ユウスケなる人物のことだろうか。
 不意に、雄介が名刺を取り出した。にっこりと士に差し出す。
「こういうものです」
 最近、雄介がお気に入りの「クウガ」のエンブレムに、お決まりの「2000の特技を持つ男・五代雄介」の文字。この名刺を差し出された人の反応は、ほぼふたつに分かれる。
 受け取った士は盛大に顔をしかめた。わあ、と可愛い歓声を上げた夏海とは正反対だ。
「……はぁ? 2000の特技を持つ男?」
「そう、2000」
「すごいですね、2000なんて!」
「最初と最後と真ん中は?」
「最初は笑顔、最後はクウガ、真ん中は内緒。まだまだ増えるよ」
 雄介はいつものほんわか笑顔で、間髪いれずに答えた。士が椅子からずり落ちそうになる。目を見開いた夏海は、座り直す士の姿に小さく噴きだした。
「……天然か? 天然だな?」
「やだなあ、養殖なんかしてないですよ。ほんと」
「…………」
 ものすごく疑り深い目で雄介を見上げた士は、不意に席を立った。雄介が渡した名刺を弁当箱――おやっさんにはそう見えた――にしまいこみ、さっさとドアへと歩き出す。
 その背中へ、おやっさんは慌てて声をかけた。
「ちょっと、お勘定!」
「夏みかんに任せる。これを見せてやりたい奴がいるんでね」
「ちょっと、士君!?」
「……まさか食い逃げ?」
「い、いえそんな……」
「無銭飲食?」
 おやっさんが詰め寄ると、夏海は口の中で何やら物騒なことをつぶやき、右手の親指をびしっと立てた。
 あれで目つぶしでもする気だろうか。

*  *  *

 というわけで、クウガの世界。クウガ自体、書くのが初めて。考えてみればDCDも初めて。
 五代がどうにも難しくて困ります。書いているうちに、ヒビキさんとごっちゃになってきて……。次第に津上まで混ざってきて、もうどうしたものかと。