命を糧に/FF零式



 今にも泣き出しそうな笑顔で、手が振られる。
「クリスタルの加護あれ」
「……クリスタルの、加護あれ」
 マントを翻し、背を向ける。級友の顔を見ていたら、泣いてしまうと思った。記憶に残らないとしても、別れ際に見せるのが泣き顔なんて、そんな情けないことはしたくなかった。
 飛空艇乗り場に残された彼らの顔を見ることは、二度とない。
 これが最後の出撃だ。
 部屋の荷物はまとめた。制服もひとつ残らずクリーニングに出して、カバーを掛けた状態でクローゼットにつるしてある。両親への手紙と、友への感謝を書き綴った書き置きも残しておいた。忘れられてしまうとわかっていても、書かずにはいられなかった。
 感傷だ。
 舞い上がる飛空艇から見下ろした魔導院は、海へと舞い降りた勇壮なる朱雀に見えた。

 要塞の壁は地獄のように高々とそびえ立つ。あふれ出す魔導アーマーは非道な悪魔、歩兵たちが乱射する銃は飢えた悪鬼の叫び――朱雀の命がなぎ倒されていく。
「バハムート隊」
 そろいのマントを硝煙と血臭の混じる風になびかせ、彼らは立ち上がる。
 いよいよ来たのだ。命を糧に、異界の扉を開くときが。
 足を軽く開き、両腕を肩の高さまで持ち上げる。指先に神経を集中する。神経の1本1本が灼熱し、光を走らせるイメージ。目を閉じて深呼吸、息を整え、ゆっくりと目を開けた。
 遙か遠くの丘に、激しい戦いを繰り広げる姿が微かに見える。激しく揺らぐ煙と、立ち上る炎と、吹き散らされる土埃、はじけ飛ぶ命の光――あそこに、友がいる。最前線で、死を間近に戦っている。
「……軍神、召喚を」
 心臓が、強く脈打った。
 一斉に詠唱が始まる。生命の炎をしるべに、奥底に眠る秘められた扉を叩く。固く戒める鎖を取り払い、絡みつく魔力を振り払い、隠された鍵穴を探す。鍵を回して扉を開け放てば、大いなる軍神は顕現する。
 命と、引き替えに。
(私は、死ぬ)
 なにか大きなかたまりを飲みこんだように喉が詰まった。
 ようやく、足が震えていることに気づいた。立っていられるのも不思議なくらいだ。ひく、と喉が鳴った。寒い。がらんどうの胸の中で、縮む心臓に凍る風が吹きつけている。
 目の奥がちくちくと痛んだ。まばたきをすれば視界がにじむ。胸が押しつぶされているかのように、声が出ない。
(死にたく、ない……)
 右隣の少年は毅然と前を見つめ、揺らぐことなく詠唱している。かと思えば、左隣の少女は詠唱の体勢さえ崩し、その場に座りこみ、身を折って激しく慟哭していた。その向こうの少女は、涙をいっぱいにため、切れ切れながらも詠唱を続けている。
 かちかちと歯の鳴る音が聞こえた。
 自分のもので、泣きじゃくる少女のもので、途切れがちに詠う少女のものでもある。あるいは、他の誰かの。肉薄する死が、重い。
 とっくに決めたはずの覚悟など、なんの役にも立たないと思い知らされた。
「代われるものなら……代わりたい」
 部隊長がつぶやいた。血を吐くような声に胸を突かれる。彼が見つめているのはバハムート隊ではなかった。見はるかす丘、魔導アーマーに蹂躙される朱雀軍を見据えている。
 あえてこちらを見ていないのだとわかってしまった。
 怒号、悲鳴、砲声、銃声――命の価値は、戦場に在ってはゼロに等しい。
 大地は絶え間なく揺れる。砲撃が揺らし、震える膝が足下を危うくする。爆音が炎を吹き上げ、朱雀軍の一角がなすすべもなく吹き飛ばされるのが見えた。
 自身より若い候補生たちが、軍神召喚のためだけに命を散らす――彼は苛まれているのだ。バハムート隊を任されたがゆえに戦線へ出ることもできず、遙かな後方から同胞の死を見つめるしかない。バハムートを召喚できるだけの魔力も残されてはおらず、捧げることもできない。死を、見届けるしかない。
 魔導アーマーの群れに、朱色が翻る。
(零組……)
 彼らの勇姿は頼もしい。だが、今まさに吹き散らされる命のなんと多いことか。数え切れないほどの言葉が頭の中を渦巻くのに、誰が言った言葉なのか、本当に誰かが言った言葉なのかも、もうわからない。
 最前線に、友がいる。一緒に授業を受け、日常を過ごし、戦争の衝撃に苦しみ、共に戦い抜こうと笑顔をかわした、友がいる。
 でも、それが誰かも思い出せない。
(なんで覚えていられないんだろう……忘れたくなんか、ないのに)
 喉が鳴る。空気のかたまりを、必死に飲み下す。下がった腕を、再び持ち上げた。指を広げ、背を伸ばす。
 なにかふわふわとした得体の知れないものが、頭の中を埋め尽くそうとする。がちがちと震えるあごは、満足な声を紡ごうとしない。息が、できない。寒くて寒くてたまらない。
(立ち止まらないために忘れる、そんなのはわかってる。でも)
 壊滅する戦線が映る。駆け抜ける雷光は、最後の抵抗だろうか。魔導アーマーが一気に攻勢に出る。
 知っている顔が、また減った。
 見えなければいいのに。目を閉じて、耳をふさいで、体中の感覚がなくなって。なにも感じられなくなれば、こんなに震えることなんてないのに。
 でも、そしたら戦えない。守れない。
(どんなにつらくても、胸が壊れそうでも、毎日が狂いそうなほど苦しくても……)
 私の名前も、すぐに消える。今、覚えてくれている人はどれくらい残っているのだろう。
 死にたくない。忘れられたくない。
 でも、戦うと決めたのは自分だ。他の誰かを犠牲になんてしたくなかった。立候補の理由なんて、たいしたものじゃない。顔も忘れた級友の死の上に立つことが怖かっただけだ。ひとつの命の重たさすら忘れて、生きていく勇気がなかっただけだ。
(私は、忘れたくない)
 眼前に魔法陣が展開される。力強い輝きを放つ光輝の契約。
 部隊長が耳に手を当てた。通信が入ったようだ。
「こちら、バハムート隊」
 その顔が向けられる。頬を伝う一筋の涙が見えた。その涙の理由も、彼はすぐに忘れてしまう。
 構わない。私は忘れない。この命を偉大なる竜王に捧げ、光炎のひとしずくとなろう。
 隣の少女が立ち上がる。詠唱は再び紡がれ、いくつかの魔法陣が空中に描き出された。部隊長へ、必死に笑顔を作ってうなずいた。全員が、力強く首肯した。
 軍神バハムートは間もなく顕現する。
「バハムート、間もなく出現します」
 詠唱の声は高鳴る。すべての魔法陣の完成を確認し、部隊長が最後の指示をだした。
「クリスタルの、加護あれ」
 全員の声が重なる。最後の一文は読み上げられた。生きた証のすべてを注ぎ、異世界の扉を開け放つ。解放される、大いなる魔力。
 全身の力が抜けた。息が詰まり、涙があふれた。
 力を失った体が大地の腕に抱かれた瞬間、確かに見た。黒ずんだ視界を引き裂く、力強い羽ばたきを。
「クリスタルの、加護、あれ……」
 末期の声は風に乗り、バハムートの鱗をなでる。咆哮が戦場を揺らし、大いなるつばさは戦場へと降り立った。

*  *  *

 第6章「ビッグブリッジ突入作戦」中。
 バハムート隊という名を、ただ単に隊の名前だと思っていた私は、ヒイラギの言葉に愕然としました。