いつか帰る場所/FF零式



 これが最後の戦いだから、と。
 そう言い出したのは誰だっただろう。トレイが発案者ではないことだけは確かだ。四方八方からのおねだりに根負けして、持ち歩いている裁縫道具を提供したのは事実。
 糸のほとんどは朱と黒、そしてベージュ。必要最低限だ。覗きこんだ面々は、口々に好き勝手なことをしゃべり出した。
「持ち歩いてるなんてさすが〜」
「ていうか、なんで糸満タンなの。足したばっか?」
「……これでマントに入れたら、いくら何でも目立つんじゃないか」
「誰も黒で入れろとは言ってないだろ」
「マントじゃなくても、ハンカチでもいいんじゃないでしょうか」
「んなもん持ってねえ!」
「いばるな! 持ち歩け!」
「もっと早く思いついてれば、もっともっといろいろ考えられたね」
「おそろいで銀細工を作って、名前を入れてもよかったかも」
「全員分入れたらつぶれて読めないだろ」
「読めなくたっていいんじゃないか。重要なのはみんなの名前があるってことだ」
「どうせなら読めた方がいいと思います。刺繍がいいでしょう」
「刺繍にしても、全員分は読めないんじゃないかな〜」
「サインが暗号レベルの人は難しいでしょうね」
「下書きをなぞれば、なんとかいけるんじゃないか」
「縫い針は3本か……順番待ちだな」
 帝都攻略作戦を控えた重苦しい空気が、ほんのわずかに軽くなる。
 沈鬱な候補生たち、どこか浮き足だった上層部、非難、不安――様々な感情が入りまじり、入り乱れ、入り組んだ魔導院は、どこかおかしい。深刻なゆがみがあるはずなのに、覆い隠されてしまっているように感じる。罪悪感めいたものが、冷たくくすぶっていた。時折、呼吸がひどく苦しい。
 緊張感とさえ呼べない息苦しさも、心の内に吹きすさぶ氷混じりの冷たい嵐も、この一瞬だけは忘れられた。
 エイトのお守り代わりのバンデージに針を刺し、トレイは淡く笑んだ。春の陽差しにも似た、幸福なぬくもりを感じていた。
「どうした?」
 目ざとく気がついたのは、トレイのハンカチと格闘しているエースだった。
「いえ、なんでも」
「めずらしく口数が少ないな」
「これでも集中しているんですよ。まだ7枚も残ってますから」
「……シンクちゃん、まだ1枚目なんだけど〜」
 デュースのハンカチが少々悲惨なことになっているのは、見なかったふりをする。
 トレイが選ぶのはベージュの糸がほとんどだったが、ナインは2本取りの朱色を使いたがったし、キングは黒い糸と針の穴を凝視している。
 笑いあいながら仕上がっていくアルファベットの群れは、個性にあふれていた。少し丸みを帯びた丁寧なクイーン、針目がきれいにそろったレム、躍動感のあるリーン、もはや文字とすら認識できないナイン――お手本そのもので味気ないトレイ。
 マザーの刺繍がないのは残念だけれど、全員無事に戻ってきたら入れてもらおうと、みんなで約束した。
 そのとき持っていた糸はすっからかんになった。不器用な馬鹿力のおかげで、2本の針が折れた。針が代わりに折れたから、自分たちは折れない――そう言ったのはマキナだったか。
 戦争から帰ったら、みんなで針と糸をプレゼントするよと、きょうだいたちは笑った。約束がふたつになりましたねと、微笑んだのを覚えている。


 約束したのだ、確かに。


 突き上げられるような、強く揺さぶられる感覚。
 真っ暗な闇に、突然意識が浮上した。
 目を開ければ、視界は朱い。
(私は……)
「気を失っていたのですか……?」
 かすれた声がひどく耳につく。ゆっくりとまばたき、トレイは身を起こした。体を支える腕が震える。指先が掻いた土はひどくぬかるんでいた。触りたくもなかったが、体に力が入らない。何度も地面にたたきつけられたかのようだ。
 立ち上がれず、膝をつく。
 一体なにが起きたのだろう。思い出せない。戦っていたのは確かだが、状況がまったくわからなかった。
 目がよく見えない。音もひどく遠かった。血霞がかかったような朱い視界と、耳鳴りのうなる不明瞭な聴覚が胸の内を騒がせた。
 風が強く吹きつけた。焼け焦げた戦場の悪臭と、ぶちまけられた内臓にも似た腐臭に満ちている。肺が腐り落ちる気がした。喘鳴が背筋を震わせる。
 見下ろした爪が赤く染まっていた。掌を汚す泥は、血液を重たく含んでいる。
 心臓が早鐘を打つ。喉元に氷の塊が凝った。
(これは……)
 曇る視野がようやく晴れた。
 いや、これは晴れたのか。悪夢ではないのか。
 見渡す限りが死者の海だった。蒼龍の兵士も、白虎の兵士も、朱雀の兵士も――魔導院の候補生たちも、関係ない。ありとあらゆる国の戦士たちが、朱くうねる雲の下で無残な最期を晒していた。
 だが、トレイの周囲にだけは遺体がなかった。あえかな光を強く跳ね返す透明なかけらが、周囲に散乱しているばかりだ。
「これは、一体なにが……」
 応える声はない。
 遙か遠方に動く人影は、おそらく皇国兵士のものだろう。確証があるわけではないが、方角を考えても間違いないように思う。幸いなことに、気づかれてはいないようだ。動き回ることなくじっとしていたのもいい方向に働いたのか。射手の目を持つからこそ、先に悟ることができたのかも知れない。
 兵士たちも、途方に暮れているように見えた。うろうろと歩き回っている。
 戦況の判断ができない以上、この場にとどまるのは危険だ。嫌ではあったが、マントの裾で汚れをぬぐう。
「魔導院、聞こえますか? トレイです。状況をお願いします」
 誰も、なにも答えない。悪寒が背筋を貫いた。心臓が耳元で騒ぎ出す。
「誰かいないのですか。答えてください……」
 名を呼びかけようとして――重たい塊を飲み下した。
 思い出せない。名前はもちろん、顔も、魔導院にいたはずの人も、なにもかも。
 誰と一緒に戦っていたのかさえ、たどることができない。
「私は……忘れたのですか」
 戦友の名も、顔も、存在を構成するすべてを。
 大切だったはずなのに。
(ひとりで戦っていたはずがない……私には、きっと、たくさんの仲間がいた)
 それを思い出したのはなぜだろう。制服のポケットを探り、滲みた血に汚れたハンカチを引っ張り出す。
 目の前に広げる。
 右下の角には、落ち着いた山吹色がトレイの名を形作っている。血を吸い、yの色は濁っていた。Tに絡むように、朱い糸が踊っている。
「これは……ケイト?」
 友の――きょうだいの名だ。失われた戦友の、魂の印だ。
 風になぶられ翻る薄っぺらな布が、これほど頼もしく思えたことはない。個性のあふれる名のひとつひとつを指先でなぞる。顔も性格もわからないのに、胸の中に小さな明かりが灯るのを感じた。
 声が聞こえる、気がする。トレイ、と呼ぶ、いくつもの声が。
 胸の奥につららが砕けた。いくつものとがった破片が、繊細なひだを鋭く穿つ。
 周囲に散らばるかけらは――乙型ルシとなったリーンだ。ぶつかり合う甲型ルシの最後の攻撃の余波からトレイを守り、昇華と同時に散ったリーンだ。甲型ルシとなり、天空にひしめく龍と魔導アーマーをなぎ倒したのはナイン。
 クリスタルは見えないが、彼も生きてはいないだろう。その確信はあった。
 取り残されたのだ。
 くらくらと頭が揺れる。目の前がゆがみ、溶け落ちた。


 どれほどの間、自失していたのだろう。トレイが我に返ったときも、空は病的な赤に埋め尽くされたままだった。
 腐臭を感じないのは、鼻が慣れたからだろう。
 ゆっくりと立ち上がった。
 視界の端に、異常な光景が引っかかる。心臓が嫌な音を立てて揺れた。
(あれは……何者でしょう……?)
 先ほど白虎の兵士が歩き回っていたあたりに、細長いものがいくつか見える。幽鬼のごとく半透明の、禍々しい異形の人間だった。
 いいものであるはずがない。事実、その異形のひとつが手に持ったなにか――おそらく、巨大な剣だ――を振り下ろした瞬間、兵士らしき人影がくずおれるのが見えた。倒れたのが何者だったのかは思い出せないが、命を絶たれたのは確実だ。
 なおのこと、この場から離脱しなければ。
 だが、どこに?
 魔導院は連絡がつかない。戻ったところで、体勢を立て直せるのかどうかもわからない。そもそも、戦える人間がどれほど残っているのかも不明だ。帰還するまでに異形に追いつかれる可能性も高い。あの巨体、不可思議な武器、あやふやな存在感――たやすく抜ける相手とも思えない。
 そもそも、正面からの戦いは苦手なのだ、追いつかれれば死ぬと考えた方がいい。
 ハンカチを握りしめ、トレイは一歩を踏み出す。認めたくはないが、考えても無駄なことというのは、意外と少なくはないのだ。
(とにかく、魔導院に……もしかしたら、対抗できる手段があるかも知れません)
 最たる可能性はルシ化だ。シュユ卿は破れ、セツナ卿は昇華した。ナインとリーンもいない。今、朱雀を守るルシは不在だ。朱雀クリスタルに接触できれば、トレイがルシとなる可能性はある。正解とは思えないが、不正解でもないだろう。
 朱雀を、守らなければ。
 なんのために守るのかすらもわからないが、他にはなにもないのだ。立ち上がらなければならない理由も、弓を取らねばならない理由も、絶望の静寂をただひとり生き抜いて戦い続ける理由も、何一つとして。
「そう、あなたが残ったの」
 だから、その声を聞いたときにあふれ出した感情は、トレイにはどうしても理解しかねるものだった。
 おそるおそる振り返る。
 風に引きちぎられる紫煙が、切れ切れに空へと昇っていく。鎮魂にさえ見えなかったのはなぜだろう。
「マザー……」
 そうだ、なぜ、彼女の存在を思い出せなかったのだろう。アレシアなら蘇生ができる。きっと、トレイが忘れてしまった、ハンカチに名を刺繍した仲間たちのことも生き返らせることができる。
「ひどい格好ね。まあ、戦うのに支障はないかしら」
 言われてみれば、大きな傷こそないが、制服のところどころにかぎ裂きが走り、誰のものとも知れぬ血で汚れ、髪には血泥がこびりついている。平時なら絶対に他者の前にさらせない姿だ。
「ひとりで戦っても意味はないでしょうけど」
 胸中で強烈な吹雪が荒れ狂う。
 声を紡ごうとして、唇が震えた。
「蘇生は……できないのですか……?」
 アレシアが唇の両端を持ち上げる。それは笑顔だった。
 普段ならば、その笑みを見れば心があたたかくなる。微笑のためになんでもやり遂げることができたし、声を掛けられればふわふわした。包まれるような幸せを感じたし、喜ぶ姿を見れば心が躍った。なんでもできると思った。
 ただの思い違いだったと、ほころぶ唇の角度が告げる。
 くゆる煙が、人々を灼く戦火に見えた。
「よく聞きなさい」
「…………」
「朱雀で戦える人間は、あなたひとりきりよ」
 胸の中央で、灼熱の氷がはじけた。息が詰まり、うまく声が出せない。
「魔導院は……みんなはどうなったのですか!?」
「すべてを忘れたのに、まるで知っているような口を利くのね」
 はねつけるような冷たい声音が、じわじわとつま先を凍えさせる。
 このひとはだれだろう。
 聡明で、穏やかで、慈愛に満ちた、マザー・アレシアではないのか。トレイたちの母ではないのか。
「母ではない……の、ですね。あなたは誰なのですか」
「あなたこそ誰なのかしら。これで何回目だと思ってるの。あなたがテイルである限り、物語はねじれたままよ」
「テイル……?」
「はやくトレイに戻りなさい」
 自分が否定される冷ややかな激痛に目がくらむ。
「私はトレイです、マザー!」
「いいえ、私の望んだトレイではないわ。あの子は、無駄な理由などわざわざ探すこともない、優秀な戦士、忠実な兵士よ」
 言葉を尽くす愚を悟った。
 この人はもう、マザーではないのだ。冷徹なドクター・アレシア――いや、底知れぬ何者かだ。
 胸の奥で、誰かが扉を叩いている。ここを開けろと叫びながら、錆の浮いた鎖で固く閉ざされた内側を力一杯叩いている。鍵穴に刺さったままの鍵が、きしみながら動きはじめた。飛び散る錆は澄んだ泉の水面を泡立て、清水を濁らせる。
 意識して深く息をつき、努めて穏やかに言葉を紡ぐ。
「私は魔導院に戻ります。クリスタルに接触すれば、もしかしたら……」
「もう、ないわ」
 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。じわじわと衝撃が這い上がってくる。
「ペリシティリウムに落とされた、ルシの爆弾のせいでね」
「朱雀クリスタルが破壊されたのですか!? そんなことが……」
 冷ややかなまなざしに息を呑む。
「なにを驚くことがあるの。この間は、あなたがクリスタルを破壊したじゃない」
「なんの……話です? 私が朱雀クリスタルを?」
 ひとつひとつの言葉の意味はわかるのに、つなげ合わせて噛み砕くのにひどく時間がかかった。もちろん、心当たりなどない。実物を見たことすらないのだ。
 万が一、破壊が事実だとしたら、朱雀クリスタルは複数個が存在することになる。そんな話は聞いたことがない。
「困った子ね。世界中の知識を焼き付けても耐えられる魂なんて、あなたくらいなものなのに。次は……探すだけ無駄でしょうね。手間を掛けさせないでちょうだい」
「無駄……」
 トレイはつぶやく。言葉の意味を、その真意を、隠された裏を考えることすら億劫だった。
「なぜ、あの怪物はここには来ないのでしょう」
 問いかけたのは、好奇心でもなんでもなかった。なにも考えないままこぼれた言葉だった。アレシアの眉尻が剣呑に跳ね上がる。
「知ってどうするの?」
「名はなんと言うのです? ご存じなのでしょう」
「知りたいの?」
「忘れる名前ですが、私は知りたい」
 アレシアは紫煙を吐き出した。その目はすでに、トレイを見てはいない。関心のない人間を見やる、無神経で酷薄な眼光だった。
「必要ないわ。行くなら行きなさい。止めないわ」
 張りつめていた糸が切れる音がした。鍵が折れる。扉は2度と開かない。
「朱雀クリスタルが失われた以上、あなたはルシにもなれない。無力な人間のまま、一人きりでどこまで戦えるかしら」
 がらんどうの胸の中に落ちた言葉は、高い音を立てて震えている。寒くてたまらない。吹き抜ける風の冷たさでもなく、孤独のうそ寒さでもなく。
 ましてや、突き放された心細さでもない。
 ぬるんだ空気に包まれていた泉の水が、氷結し、ひび割れたのだ。
 終わりなのだと確信した。


 トレイは一心不乱に土をかき集める。可能な限り血に汚れていない部分を掻き、叩いてひとつに固めていく。観察するようなアレシアの視線を感じるが、無視した。
 母ではないのだ。司令官ですらないのだ。捧げた愛情も敬愛もなにもかもが否定された。涙すらこぼれない。ショックを受けているはずなのに、胸の中は凍えて震えるばかりで、感情を放つことがなかった。
 どうしたらいいのかわからないが、どうしたいのかは知っていた。
 盛り上げた塚の頂点に一矢を突き立てる。
「なにをしているの」
 それまで黙って見ていたアレシアが、ようやく口を開いた。
「覚悟です」
 ハンカチを広げる。風をはらみ、16の名前が踊った。
 小さめだがバランスのとれたエースの黒――激しく自己主張することはなくても、いつもみんなの中心にいて、さりげなく場を仕切っていたような気がする。
「忘れてしまっても……」
 かわいらしくやわらかなデュースの朱――この刺繍と同じ、穏やかな優しい心で、みんなを和ませてくれただろう。
「なくしてしまっても……」
 跳ねるように大きさの違うケイトの朱――明るくて気が強くて、きょうだいのことが大好きで、元気にあちらこちらを走り回っていたように思う。
「一緒に過ごした時間が、消えるわけではないのですね」
 全色を使ったのびのびと大きなシンクの糸――鋭い観察眼を持つ自由奔放な少女は、きょだいにも可愛がられていた印象がある。
「きっと、あなたたちは覚えている」
 荒々しいが幅のそろったサイスの黒――飾ることをせず、口も悪くて気も強いけれど、誰よりもきょうだいを想ってくれていた。
「忘れてしまった私のことも」
 糸が切れたのか途中からベージュに変わったセブンの黒――気遣い屋で視野が広くて、常に仲間を気にかけていたに違いない。
「だから……私も」
 端整で跳ねの大きなエイトのベージュ――淡々として冷静で、常にきょうだいにも周囲にも気を配っていた心の強い青年だ。
「2度と忘れません」
 文字と認識するのが難しいナインの朱――粗野で乱暴だが、誰よりも純粋で翳りのない男。最後はルシとなって朱雀劣勢を覆し、散った。
「忘れず、このまま……いきます」
 頭文字以外がとても小さなティスのベージュ――どちらかと言えば気弱で悲観的だったが、誰よりも達観した心できょうだいを支えてくれていた。
「立ち止まったりしたら、合わせる顔がありませんからね」
 背比べをしている幅広なジャックの朱――レポート再提出者常連で、のんきで明るくて、誰よりも研ぎ澄まされた感性の持ち主だった。
「そんな情けないことをしたら、どんなに馬鹿にされるか」
 少し丸みを帯びた丁寧な印象のクイーンの黒――少し神経質でいつも冷静、テストでは一度もかなわなかった仲間思いの才女だ。
「考えたくもありませんから」
 荒削りで力強いキングの黒――口数少なく視線でこちらに悟らせようとするきらいはあったが、彼に背後を守られているという安心感が常にあった。
「だから、見ていてください」
 きまじめだが払いに遊び心のあるマキナの黒――クラスの中心にいてきょうだいたちに目を配りながら、いつでも全力で駆け抜けていた。
「最後まで戦い抜きます」
 針目のきれいなレムの朱――心優しく凛として、きょうだいを心から愛し、戦場ではその魔法の才をもって守り続けてくれた。
「みなさんを、これ以上忘れないために」
 楽しげな躍動感に満ちたリーンの朱――感情的ですぐに拗ねたり笑ったり、それでいてひどく辛抱強くもあった。最後はそばにいたトレイを守り、昇華した。
「私が私を忘れないために」
 そして、味気ないトレイ自身の山吹――すでに覚えてはいないけれど、ここには16人がいた確かな証拠がある。冗談をかわし、くだらないことで笑い転げ、ときにはぶつかり合い、それでも、手を取り合って戦乱に荒れ、混沌に荒ぶ時代を生き抜こうとしてきた。
「私は、必ず……」
 続く言葉は飲みこんだ。
 記憶はなくても、思いは抜け落ちても、魂はここにある。
 矢羽根の下にハンカチを結ぶ。駆け抜ける強風に、音を立てて翻った。軍旗のひとつもない戦場に、誇り高くはためいた。
「ここが、私たち16人の墓地です」
 きっと、2度と帰ることはない。
 手を払い、トレイは立ち上がった。不思議と心は穏やかだった。傷だらけの体も軽い。大規模な魔法を紡げる魔力は残されていないが、周囲のファントマを吸い取る気にもなれなかった。戦場に散らばる無数の遺骸の中には、確実にきょうだいがいるのだ。
 最低限の汚れを落とし、トレイは空を仰いだ。どこへ向かえばいいのかはわからない。だが、異形の戦士が来る方向へと向かえば、いずれは根源にたどり着く。この空の下のどこかに、異形の来る大地があるのだ。
 討つ。
「あなたは、もう、私たちを迎えには来ないのでしょう?」
 背後のアレシアは答えない。トレイも期待しなかった。
「先ほどのお言葉ですが……私は、無力だから戦えるのです。そもそも、はじめから力があるのなら、戦う必要などありません」
 弓を手に歩み出す。遙か遠方で異形の戦士がぎこちなく振り返るのが見えた。明らかな戦意がぎらつく。弓を構え、矢を紡ぎ、トレイもそれに応えた。
 前へ。
 愚かしいほどひたすらに、ひたむきにただ進むだけ。


 トレイの背は地平線の向こうへと消えていった。ルルサスの戦士を殺戮する後ろ姿は非情で、冷徹で、失意に満たされてがらんどうだった。殺し方など知らないはずなのに、的確に一体ずつを射貫き、ピンポイントでファントマを奪い去っていく。
 記憶は忘れても、魂には深く刻まれたまま。幾度となく戦ってきた相手だ。烙印のごとく、知識はついて回る。
 アレシアは紫煙をたなびかせ、身を返した。
「次はもう少し手を加えるべきね。7度の輪廻でも完全に上書きできないなら、根本を変えるしかない……」
 感性を削るか、感情を抑えるか、知識欲をいじるか。
「知らないことを知ることが楽しいのは、自分がなにもかもを知っていることが怖いからでしょう? 知らないことがあると知って、安心したいだけでしょう」
 ひとつ、またひとつ――ルルサスの戦士が消されていく。トレイのあとには、どれほどの異形の屍が残されるのか。散らばる異形の痕跡が、彼の足跡となる。屍の海の始まりに、トレイは伏すことになるのだろう。
 ルルサスの命が再びはじけた。もしかしたら、トレイは世界に残る唯一の兵士なのかも知れない。
「戦いなさい。魂を高めるために。扉を開くために……戦い続けなさい」
 今回の世界も、つつがなく終わるだろう。
「蜜を舐めるアリのように、主の命令に従っていればよかったのよ。そうすれば、いくらでも知識をあげたのに」
 死の羽音は孤独な背中に迫っている。彼が壊れたそのとき、この世界はゼロから始まるのだ。

*  *  *

 テイル=「終末の鳥が降りるとき」でルシとなって昇華した、初期の螺旋のトレイ。現在のトレイより口数も少なく、あんまり面倒くさくない人。異なる螺旋のおはなしは、どうにも終末に傾きがちなのが悩みもの。
 朱雀クリスタルを破壊したのは、白虎ルシのトレイ。白虎ルシの話も書きたいなと思いつつ……殺し合いになるだろうし、あまり需要もない気がするorz