水鳥の鳴く空に/FF零式



 エースがその光景を見たのは偶然だった。
 墓地の門の向こう側で、トレイが2組の生徒ふたりと言い争いをしていた。
 いや、これは正確な表現ではない。候補生ふたりが一方的になにかをまくし立てていて、トレイは完全に無言だった――少なくとも、エースが裏庭のベンチを去るまでは一度も口を開かなかった。
 少し離れていて表情は見えなかったが、どう好意的に解釈しても、友好を深めているようには見えなかった。
(なにしてるんだ……?)
 トレイと他クラスの候補生との相性は、決して悪くはないはずだ。話しかけられれば丁寧に礼儀正しく接しているし、零組メンバーで固まっているときほど饒舌でもなくなる。嫌味めいたこともほとんど口にしない。あれは、長年一緒に育ってきた仲間への甘えのようなものなのだろう。
 ともかく、あんな罵声を浴びせられるようなことなどしていないはずだ。
(僕が口を出すことじゃないか……)
 話している内容は聞き取れないが、盗み聞きしているようで気分もよくない。さっさと昼寝を切り上げ、エースは教室に戻ることにした。


 ケイトのため息を聞きつけたデュースは顔を上げた。
 日直の仕事を終え、これからリフレにでも行こうかと話していたところだった。窓の外を見やるケイトの横顔がゆがんでいる。
「ケイトさん? どうしました?」
「ああー、うん。リフレ行こうって話で思い出しちゃって」
 勢いよく跳ねた髪をかき混ぜながら、ケイトは教壇に腰を下ろした。スカートが汚れてしまいそうで、デュースははらはらする。
「白虎から帰ってきてからさ、なんかいろいろ面倒じゃない。うちら射手でしょ、なんかぼろくそに言われるし、嫌んなっちゃってさ」
「蒼龍女王暗殺の件ですか?」
「そうそう。『射手なら気づかれずにルシも殺せるだろう』って。ばっかじゃないの」
「それは……ちょっと、考えすぎですよね」
 そんな簡単にルシをどうにかできたら苦労はない。
 クラサメや上層部がかばってくれることはなかった。事態は悪化していく一方だ。他の候補生から向けられる視線も、極端に分かれつつある。
 戦って、殺して、倒れるまで戦い抜いて罪をすすげと――そう、言われている気がした。零組は、背負う理由もない咎をむりやり負わされている。きっと、誰かに責任を押しつけて憎まなければ、多くの人たちは均衡を保つことはできないのだろう。
 候補生も、兵士も、人間だ。心が弱くなるときだってある。
 いい意味でも悪い意味でも異端なのだ、零組は。それを引け目に感じることなど、もちろんあり得ないが。
 でも、異端を言い訳に糾弾するのは間違ってる。弱さから目をそらしているだけだ。
「ってゆーか、あたしの銃で気づかれずに倒すってかなり難しいんですけどー」
「大変でしたね」
 まあね、とケイトは視線を落とした。迷っているように見える。顔を上げたときには、逡巡は消えていた。燃えるような眼光が天井を睨みつける。
「あたしさ、ちょっと前にリフレで絡まれたの。やったのは誰だってさ。そんなのこっちだって知りたいじゃない? そう言ったんだけど聞かなくて……殴ってやろうかって思った」
 止めに入ったのが、キングとトレイだったのだという。タイミングがいいのか悪いのか、事情も知らないまま、ふたりは拳を固めたケイトを制したのだ。
 零組の射手が、その場にそろってしまった。
 一瞬で空気が変わった。ぎらつく殺気が見えると錯覚するほどに。
「4000メートル射撃のこと、ばれてたのね。誰がもらしたのか知らないけどさ。そっからつるし上げよ、つるし上げ。よくキレなかったわ。まあ、キングも頑張って盾になったんだけどさ……ああいうところは男前よね」
 普段はオッサンだけど、とつけ加えられたのが可哀想だ。
「あたしもまたキレそうになっちゃってさ。もー、かーっと血が上って。ぶっ殺してやろうかと思った!」
 でも、そのことを覚えているのだから手を下してはいないのだろう――妙に冷めた思考でデュースは考える。零組の中では穏健派に属するだろうが、戦いをためらうことはないし、これまでに手を下してきたことを後悔することもない。
 なにより、仲間たちへの愛情がある。理不尽な扱いを前に黙ってなどいられない。
「そんなことがあったんですね……知りませんでした」
「他のみんなは知らなくたっていいの! こんなつまんないこと……あんま話したくないし。てゆーか、今更言うようなこと!? あいつら、自分が4000メートル出せないからってひがんでんじゃないの!?」
 教壇を思い切り殴りつける。ものすごい音がしたが、ケイトは特に痛がる様子もなかった。ぎり、と歯をかみしめる。
「指、折られそうになった」
「えっ」
 とっさに駆け寄り、ケイトの手を取る。ケイトは目を丸くし、それから慌てて首を振った。するりと手を抜かれる。
「ああ、大丈夫、折られてないから」
 デュースはケイトの左隣に腰を下ろした。
「ってかさ、あたしじゃないんだ」
 プリーツを直す手が止まる。
「トレイさん?」
「すごいよね、ヒステリーっていうの? トレイも貝みたいにだんまりでさ、言い訳もしないし……くだらなすぎてなにも言う気になんなかったんだろうけど」
 ケイトが睨みつける床に、火花が散った気がした。
「『とにかく、私たちではありません。無実です』って。それだけ言ってさ、一緒にリフレ出ようとしたんだけど……そしたらさ……」
 ケイトの声が震えた。
 胸が痛い。熱を発するようにじくじくとうずく。こみ上げようとする涙をこらえ、決壊しようとする怒りをなだめ、ケイトが必死に自制心を保とうとしているのがわかる。
「壁に、押さえつけて。柄で、折ろうとした……右手、の……っ!」
「ケイトさん」
 両腕を伸ばし、ケイトの頭を抱き寄せる。すがりついてきた指先が腕に食いこむ。滲みる熱に胸が震えた。嫌と言うほど伝わってくる。
 心がきしんだ。
「リィドが来なかったら……たぶん、アウトだった」
 苦しげにケイトが言い終えたとき、裏庭へと続く扉が開いた。不意打ちにふたりは飛び上がる。
 そこにいたのはエースだった。背後を気にする様子を見せながら入ってくる。
「なんだ、エースか。びっくりさせないでよ」
「驚かせたつもりはない。なにかあったのか? リィド来なかったらアウトとか……なんの話だ?」
 ケイトを振り返る。
「……ケイト? 泣いてるのか?」
「うっさいわね! あんただって、あんなの見たら……さんざん人殺しやってるのに、肝心なときに動けなかったら……きっとおんなじよ、馬鹿!」
 ケイトは勢いよく立ち上がった。エントランスへ続く扉まで一気に駆け上がると、一度だけ振り返ってエースを睨みつけた。焼け付くような眼光に、不可解そうにエースが首を傾ける。
 ケイトは教室を飛び出していった。
「……どうしたんだ?」
 話して、いいのだろうか。
 エースをまっすぐに見上げる。彼は目をそらさなかった。青い瞳が、戸惑いのかけらも見せずに見つめ返してくる。
「どうしたんだ」
「思ったよりも……危ないのかも知れません」
「……なんの話だ?」
 ケイトはできれば秘めておきたかったようだが、話すことを決めた。
 仲間をおびやかされたのだ。同じようなことがこの先ないとは言い切れない。ゆっくりと言葉を紡ぐ。あくまで伝聞であることを前置きして。
 本当は、みんな知っておくべきことだったと思う。ケイトを責める気はない。その場にいて、なにもできなかったことを悔い、そんな自分に怒りを抱えている。話せないのは当然だ。ケイトは悪くない。
 エースの顔がみるみる青ざめていく。その反応をいぶかしく思いながらも、デュースは知る情報のすべてを話しきった。
「もしかして、まずいんじゃないか……」
「エースさん?」
「間に合え!」
 エースが身を翻した。乱暴に扉を開き、裏庭へと飛び出していく。
 デュースもあとを追った。とてつもなく嫌な予感がした。
 門扉を蹴破るように押し開け、エースが墓地へと突進する。だが、すぐに足を止めた。デュースは門扉を閉めてからエースの元に向かう。いらついたように頭をかき混ぜながら、エースは吐き捨てるように言った。
「まずいかも知れない……」
「もしかして、ここにいたんですか?」
「2組の奴らだった」
 しきりと周囲を見回すが、墓地には他に人影はない。無機質な墓石が淡々と並び、沈むように黙している。
「口出しすることじゃないと思ったが……」
「探しましょう」
「……僕は2組の教室に行ってみる。デュースは外を頼んでいいか」
「わかりました」
 エースなりの気遣いなのだろうとわかったから、デュースは反駁しなかった。
 2組の教室が本命だった場合、下手したら殴り合いになるだろう。エースは零組の男子を何人か集めて向かうつもりだ。おそらく、エイトやジャックだろう。
 デュースはエースの背を見送ることなく墓地を歩き出した。争いのあとはないが、なにか手がかりがあるかも知れない。
 何となくだが、空の見える場所にひとりでいるような気がした。

 トレイは程なくして見つかった。なんとなく、というのも案外当たるものだ。
 墓地の隅、デュースすら訪れたことのなかった一角に、海に突き出した見晴台がある。敷きつめられた白い石畳、中央には小さな東屋、1本の大木が物憂げに枝を広げている。
 トレイはそこにいた。手すりに両腕を乗せ、海の彼方へ思いを馳せている風情だ。
 周囲にはくつろいだ様子の鳥たちの姿があった。ウミネコ、カモメ、カイツブリ――手すりで休むもの、東屋の屋根に並ぶもの、石畳を歩くもの――様々だ。そこにトレイがいるのに、警戒する様子もない。肘のすぐそばに陣取っているものさえいる。
「トレイさん」
 呼びかけた瞬間、鳥たちが振り向いた。いっせいにつばさを広げ、空へと飛び立つ。巻き起こる風の向こうで、トレイが振り返った。羽毛が、雨のごとく舞い散る。
 離れていても、目元が青ざめているのがわかった。冴えた色の虹彩が、やや緑を帯びている――かなり不安定なようだ。
「隣、いいですか?」
「……どうぞ」
 声も、ほんの少し素っ気ない。それでも、すぐに目をそらしたりはしなかった。デュースがそばに行くまでじっと待ってくれている。
 デュースはすぐ隣に陣取った。トレイが身じろぎしたが、気がつかない振りをした。
 抜けるように青い空、穏やかに波打つ瑠璃の海。水鳥の声がこだまする。背後に死者が眠るとは信じられないほど穏やかだ。手すりに両手を乗せ、めいっぱい息を吸いこむ。肺を満たす潮の香りは、血のにおいに少し似ていた。
「エースですか?」
 デュースが顔を向けると、トレイは口角に苦笑じみた影を刻んでいた。
「どうしてわかったんですか?」
「いたのはわかっていましたから。口を出さずにいてくれて、助かりました」
「でも、それだけじゃないです。聞きましたよ、ケイトさんから」
 ああ、とため息じみた声が返る。
 静寂が落ちた。デュースはなんと声をかけたらいいかわからなかったし、トレイもなにも言わなかった。
 1羽のウミネコが、人なつこく鳴きながら目の前を横切る。えさがもらえないとわかると、興味をなくしたように上空へと舞い上がる。
「遠距離からルシを狙って射殺せると本当に思っているのか……不思議で仕方ありませんよ。身に覚えのない糾弾を受けた上に、指まで折られそうになったのですから。いい迷惑です」
「でも、それだけじゃないでしょう?」
 トレイは答えなかった。まっすぐに見返してくる瞳の異常なまでの静けさに、胃のあたりが冷たくなる。
 饒舌だったり何でもかんでも話そうとする部分もあるが、基本的には、常に落ち着いた理知的な青年だ。だがそれは、感情を見せないというわけでは決してない。悔しがってテストの答案を小さく折りたたんでいたり、ジャックにレポート要員にかり出されて頭を抱えていたり、シンクにからかわれてがっくりと肩を落としていたり――そういうところは、他の仲間たちと同じだ。候補生たちとも何ら変わりはない。
 目の色が変わるほどに昂ぶっているのは確かなのに、声にも態度にもあまり変化がないことが、痛ましくて仕方なかった。必死で押さえこもうとしているのが感じ取れる。
 どうやって2組の候補生と離れたかはわからない。なにかされたのかも知れないし、なにもされなかったのかも知れない。訊いては傷つけるだろう確信はあった。
 どこまで踏みこんでいいのかわからなくなる。
「2組の人たち、なにか、言っていたんですか?」
「私は暗殺者に向いていると思われているようですよ」
「え、トレイさんが? いくらなんでも、目立ちすぎませんか?」
 トレイはわずかに目を見はった。虚を突かれた様子だ。
「私……目立ちます?」
「目立ちますよ。自覚なかったんですか?」
「ナインよりはましだと思っています」
「それは事実だと思います」
 小さな笑い声がもれた。お互いくすくすと笑いながら、海へと視線を向ける。
 空はこんなにきれいで、海もこんなに美しいのに、なぜ戦争など起きるのだろう。先陣切って戦いに行っている人間が大声で言えるようなことでもないが、戦争は本当に愚かだ。
「……寝返ろうとする人間は、決して少なくはないようですよ」
 デュースはため息をこぼした。
「それが、先ほどエースさんが見た光景の原因なんですね?」
「ええ。昨日、国境近くで小競り合いがあったでしょう? あのときに、2組の候補生のひとりが、背後から狙撃されたのだそうです」
 トレイを責め立てていたのは、負傷した候補生の友人たちだった。
 狙撃された候補生は着弾の衝撃で左腕を失い、頭部も負傷した。一命は取り留めたものの、生きているのは奇跡と言われるほどの大けがだった。だが、戦場への恐怖心は、彼を戦士たらしめる誇りを完全につぶしていた。腕を失い、気力もなくした候補生は、故郷に帰ることになったのだという。
「彼らは思い出したのでしょうね……あのときのことを」
 2組の背後に展開していたのは零組だ。支援のため4班にわかれて戦場に散っていたが、狙撃された候補生がいた隊についていたのは、射手のいないエース隊だった。
 彼らは疑った。射手がいないのは、こちらを狙うためではないのかと。
 射撃は背後から、明らかに朱雀側からの攻撃で、狙撃手の姿を見つけることはできなかった――ならば、超長距離射撃だろうと彼らは考えたのだ。1000メートル、いや、もっと遠方から狙い撃った、と。
 仲間が攻撃してくるはずはない。だが、背後に敵がいるはずもない。ならば零組の仕業だろう。零組には4000メートルをたたき出した射手がいる。もしかしたら、つるし上げの報復として射殺しようとしたのではないか――。
「短絡的ですが、そう考えたのも無理はないと思いますよ」
「だから、なにも言わなかったんですか?」
「言ったところで、彼らは聞かなかったでしょう。求めているのは事実ではなく、彼らに都合のいい真実です。こちらが言葉を尽くしたところで意味はないでしょう? 絶対に届くことはないのですから」
 あきらめてかかるのはらしくないと、言えればよかった。でも、言えなかった。
 朱雀は蹂躙され滅ぼされる――暗澹たる可能性が、暗い影のように覆い尽くそうとしている。次のミッションが再生の炎となるか、滅亡の羽音となるかは誰にもわからない。負の感情が入りまじり、ひどくよどんでいる。
 魔導アーマー破壊指令と蒼龍女王の暗殺のタイミングがよすぎた――いや、悪すぎたのだ。そこに、リフレでの事件が重なった。
「報復だと……確信してしまったのでしょうね。ケイトも怒っていましたし」
「そうなんですね」
「こんなことをして許さない、と」
 口調は淡々としている。ケイトに責任があるとは、つゆほども考えていないようだ。
「トレイさんがそんな報復なんてするわけないのに」
 なんて短絡的に結論づけたのだろう。不安が危機感をあおるのだとしても、あまりにも衝動的だ。
 トレイは曖昧に笑んだだけだった。
「ちゃんと否定してください」
「……そうですね、今回の件に関しては、私ではありません」
「そうですよね」
「仕留め損ねたりしませんから」
 言い切られ、言葉を見失う。
「射殺を命じられたら断りませんよ。それがミッションなら、断る理由がありません。ですが、し損じることも絶対にありません」
「……トレイさんは、もうちょっと保身を考えてもいいと思います」
「考えていますよ」
 デュースはこっそりため息をついた。
「推測になりますが、その候補生には殺される理由などなかったのだと思います。一緒にいた誰か、そばにいた誰かが暗殺されるべきだった……」
「そうなんですか?」
「事実はわかりません。誰が撃ったのかもわからないのですから」
 朱雀を見限る人間は増えるだろう。残念ではあるが、仕方のないことだ。だが、重要な情報を持つものや候補生が寝返ろうとしたときには、零組にミッションが下るだろう。ともに戦った仲間を記憶から消す。秩序を保たねばならない。
 朱雀のため、魔導院のため――ひいては、零組とマザーのために。
 トレイは手すりに背を預けた。冴ゆる瞳が穏やかに細められ、目尻に少しだけしわが寄る。唇の両端がゆるやかに持ち上がった。
「話を聞いてもらえて、少し楽になりました」
 胸の中があたたかくなる。穏やかな笑顔に、デュースも微笑みで応えた。
「ついでと言っては失礼ですが、なにか奏でてくれませんか?」
 喜んで、とデュースはフルートを構えた。
「なにがいいですか?」
「君の好きな曲を」
「……では、セレナーデを」
 そっと唇を押し当てる。やわらかく、鋭く、息を吹きこんだ。
 水鳥の鳴く空に、澄んだ音色が響き渡る。視線を向ければ、トレイは目を閉じ、わずかに首を傾けて聴き入っているようだった。
 はやく戦いが終わればいいのに。花が咲いて、鳥が歌って、風が踊り、月が舞う――そんな平和な時間が来てほしい。
 戦うことなく、疑うことなく、殺し合うことのない世界――願いをこめ、奏でる。

*  *  *

 大まかな枠を作ってから、妹にトランプを引いてもらって登場人物を決めました(ケイト、トレイは決定していたので、他のふたり)。1枚目がAだったので目撃者はエース、2枚目は2だったので探しに行くのはデュースとなりました。
 他のキャラだった場合どうなっていたのか……ちょっと気になります。