終末の鳥が降りるとき/FF零式 彼は命を刈り取られ、その直後に戻ってきた。彼ならざるものとして、青の瞳を真紅に染めて。 人の頭より遙かに巨大なブリューナクの弾丸に巻きこまれた。焦げ付いた肉の臭いと、むせ返るような血と、腐臭にも似た内臓臭――それらが入りまじり、肺を乱暴にかき混ぜた。 引きちぎられた傷口からのぞく砕けた骨、はじけたザクロのような血管と筋肉、弾力のある糸にも見える神経の束――その、悪趣味なオブジェにも似た光景を級友たちの網膜に焼き付けた直後、朱色の炎の中で彼は立ち上がった。 一切の欠損のない、常と変わらぬ誇り高い後ろ姿だった。 「トレイ……?」 シンクはつぶやいた。あっけにとられ、無防備な声で名を呼んだ。伸ばした手は空中をさまよう。腕を取って引き寄せようとして、かなわなかった。目の前ではじけた死は、シンクの現実感を深くえぐり取った。 槍を頭上に振りかぶった体勢で止まっていたナインが、ぎくしゃくと穂先を下ろした。 彼の穂先が下ろされた先で、昇華したルシ・セツナのクリスタルが清浄な輝きを散らしている。 「なんだよ、オイ」 「……マザーの奇跡、かな?」 ティスが震える声で言った。口にしながら、信じていない。 信じられるわけがない。 混迷を極める戦場に、白虎軍の姿が戻る。2機のブリューナクを出撃させるために一端退いていたのだ――シンクは必死に考える。 秘匿大軍神アレキサンダーの聖なる光は、皇国軍の戦力の一端を灼いたに過ぎない。東方からは青龍人が押し寄せ、朱雀の羽ばたきは消えていく。魔法の光が断末魔のように尾を引き、風のさなかに散った。 戦火はルブルムの土地を食い尽くす。 戦線は大きく切り崩され、朱雀軍は潰走をはじめていた。 「ねえ、わたしたち負けないよね?」 「負けないよ。負けるなんてそんな……私たちがいるのに。大丈夫、きっと」 ティスがぎゅっと手を握ってくれる。シンクも震える指で握りかえした。かばうように歩み出たナインは、立ち上がって動かないトレイをじっと見据えている。眼光は稲光のようだった。 大地が揺らぐ。耳をつんざき、腹の底を突き上げる振動――侵攻するブリューナクの砲口が目もくらむような閃光を放つ。視界が白く染まった。息が詰まる。気づいたときには、えぐり取られたクレーターの縁にいた。土を掻き、自らの血にむせながら、土煙と炎の彼方で誇らしげに硝煙をくゆらせる異形を、愕然と見上げた。 シンクたちの前方に展開していた朱雀軍は壊滅した。 かろうじて握りしめていたメイスを引き寄せる。だが、手に力が入らなかった。膝が震える。足首が立たない。 シンクはその場に座りこんだ。 視界が、紅い。 「去りなさい、呪わしき鋼の遺児」 腕に赤き印を宿し、トレイが――トレイであった存在が凄絶に告げる。声を張り上げたわけでもないのに、殷々と戦場に響き渡る。まるで、天上から降るように。 赤く燃え上がる氷の障壁が、シンクたちをブリューナクの巨大な弾丸から守っていた。紡いだ当人は、大地から指三本ほど浮かび上がり、雪花にも似た炎をまとっている。ルシの赤い刻印と氷の散る光炎は、ひどくアンバランスに見えた。 左手に、いつの間にか弓がある。磨き上げられたアラバスターのような質感の、星の輝きを宿した華奢な弓だ。羽ばたく鳥が躍動する一瞬を切り取ったような、えもいわれぬ生命力に満ちている。 「トレイ、君は、ルシに……」 隣に座りこむティスの声は血を吐くようにかすれている。 「俺ら、死んじまったらルシになるのか?」 「そんなわけない。だって、私たちには、クリスタルの声、聞こえないよ」 「じゃあ、トレイは応えたの……?」 「わからない……だって、彼はずっと眠っていたじゃない」 「化物に襲われてな。くそ!」 傍らに膝をつくナインが吼える。 トレイが名もなき廃村で正体の知れぬ魔物の襲撃を受けたとき、隣にいたのはナインだった。ナインは無事で、トレイは深い眠りについた。負傷の度合いではナインの方がひどかったのに、無傷も同然だったトレイが目覚めなかったのだ。魔物に魅入られたかのように、ずっと、ひと月近くもの間。 ねじ曲がった一対の角と、異様に細く長い首、地を掻く巨大な頭部、重たげなまぶたに閉ざされた独眼――名も知らぬ魔物は、ナインの体の半ばを石化させたのち、姿を消したという。 「なんでルシになって目ぇ覚めてんだ! 寝ぼけてんのか!?」 トレイは振り返りもしない。燃えさかる氷塊を盾に、きりきりと矢を引き絞る。ルシの刻印は、その存在を叫ぶように激しく輝いた。 「彼はもうトレイじゃないんだよ……」 「じゃあなんだ!?」 「朱雀のルシ。たぶん、乙型ルシの……」 「トレイはトレイだよ。ルシになっちゃったって、トレイでしょ?」 ティスは痛ましげに眉根を寄せた。ゆるりと首を振る。 「だって、私たち、一歩も進めない」 胸の底が冷えた。 名を呼んで、歩み寄って、その肩に触れて――振り返らせることが、どうしてもできなかった。関節はきしみ、疲労の極致に達した体は悲鳴を上げているが、気力を振り絞れば動けないはずはない。 なのに、動けなかった。 「私たちに来てほしくないんだ……彼にとって、私たちは……」 ティスは皆まで言わなかった。 言われなくてもわかった。たぶん、ナインもわかった。喉仏が大きく上下するのが見える。 間断なく降り注ぐ弾丸、大地が揺れ、土塊が散る。人の命も、砕けていく。だが、シンクたちを守る氷の盾は少しも揺らがなかった。弾丸を飲み、ミサイルを受け止め、アルテマ弾さえ無効化する。 トレイの背に満ちる緊張が、最高潮に達した。 氷が開く。亀裂のようなわずかな隙間から、光輝の矢が放たれた。100メートル、300メートル、1000メートル、4000メートル、10000メートル――その勢いは衰えぬまま、コンテナを開くべく身を沈めたブリューナクを貫いた。 影絵のようだった。音も衝撃も感じなかった。 火薬を詰めたやわで粗雑な鉄のおもちゃをナインの槍でつついたら、きっとあんな風になるだろう。目の前の光景とは信じられなかった。脆くひしゃげてくずれていく黒い巨体は、立ち上る黒い煙や吹き上がる炎、胸の悪くなるような緑の閃光に飲まれ、あっという間に見えなくなる。 壊れたブリューナクを覆い尽くした氷が、鈍い音を立てていびつに形を変えた。 それだけだった。帝国の黒い悪魔は、もう動かない。 「アルテマ弾を封じた……ブリューナクを、一撃で倒した」 「嘘だろ、オイ」 気づけば、シンクたちは、零組から現れたルシを呆然と見つめる朱雀軍に取り囲まれていた。 次いで放たれた一矢も、まごうことなくブリューナクを撃墜した。 「トレイ……ひとりで倒しちゃったねえ」 胸がちくちくする。震える声を気遣ってか、ティスが頭をなでてくれた。 高く低く笑う声がする。地平線が脈打った。ひたひたと不気味な異形が打ち寄せる。 「くそ、キモイのが来やがった!」 「……青龍人!」 シンクは立ち上がる。ティスもナインも、それぞれの武器を構えていた。戦意はゆるやかに朱雀軍全体に伝わっていく。小さなしぶきを散らすさざ波のように。綿毛を乗せる、春のそよ風のように。 一吹きでかき消える、蝋燭の炎のように。 波濤のごとく、青龍人が押し寄せる。朱雀兵が叫ぶ。武器を構え、魔法を振りかざし、青龍人を迎え撃った。 音の狂った楽器を無理に鳴らすような、不快な笑い声がする。鼻をつく腐臭、胸によどむ空気。メイスを振るえば、嫌な感触と共に、腐肉にも似た肉片が飛び散った。青い血に目がくらむ。 細い腕につかまれ、腐った体の下に引きずりこまれる兵士がいる。毒液を浴び、顔を押さえて悶絶する兵士がいる。倒れた兵士に青龍人がいっせいに群がり、生きたまま貪りはじめた。生肉を食む湿った音、むりやり砕かれ折られる骨、人間のものとも思えぬ濁った悲鳴、土を掻き跳ね回る指先。 つつき回される戦友を救おうと、手を伸ばした朱雀兵がいる。雷が青龍人をなぎ倒し、弱々しく伸ばされた腕を彼はつかんだ。だが、こねくり回されて弱くなった関節が外れ、肘先だけが彼の手元に残された。やせ衰えた体の下に、腕から先が消えていく。涙でいっぱいになった目が、醜い足に踏みつけられた。 執拗な蹂躙。 彼らは、食糧としか見ていない。尊厳などどこにもない。 「朱雀、負けちゃうよ……」 「いーや、負けねえ! 俺らが負けるわけねえ!」 戦争じゃない、地獄だ。 青龍人が移動したあとには、原形をとどめない遺骸が無数に転がる。 黙考するように動きを止めたトレイにも、青龍人が迫る。だが、彼らはすぐに襲いかかることはせず、隙をうかがうように周囲をぐるぐると回る。なにか危険なものだという認識はできるらしい。 喰わせろ、と亡者の声が言った。喰わせろ、喰わせろと、口々にこぼす。 見えない誰かを優しく抱き留めるように、トレイが両腕を広げた。 「ともに、逝きましょう……」 朱色の炎が散った。トレイの全身からあふれ出す光輝が戦場に広がっていく。光に触れた青龍人が、逃げ惑う鶏のような声を上げて跳ね回った。シンクたちの周囲から、潮が引くように青龍人が離れていく。 ティスが光へと手を伸ばした。頬をかすめる光のあたたかさは、涙の温度にも似ている。 「これは……悲しみと、怒りと、慈しみ」 「えー、ティス、わかるの?」 「わかる、気がするの」 ティスの声は震えている。 「……なんか、やだな」 目の前で取り返しのつかないことが起きているのに、のんきにぼんやりと見守っているような、そんな焦燥がこみ上げる。なにかをしなきゃいけないのに、なにをしたらいいのかわからない。 次の瞬間、シンクはメイスを握りしめた。 「嘘だろ、オイ……なんで……」 ナインの声がひどく震えている。見開かれた瞳が不安定に揺れていた。威嚇するように構えられた槍の先は、ナインの足下で力尽きた朱雀兵へと向けられている。 「なんで、死んだ人が……」 ティスは手を握りしめていた。痙攣をはじめた遺体から遠ざかるように一歩下がる。長いまつげを透明な涙が縁取っていた。 「起き上がる、の……?」 シンクはメイスを構え直した。頭の中で無数の色がぶつかり合う。絡まって、こんがらがって――頭の中がざっくりと切り替わった。敵なら、たたきつぶすまでだ。 深く長く重たいため息が聞こえた。 死した朱雀兵たちが立ち上がった。砕かれた体はみるみる元に戻り、背に赤い光のつばさが広がる。その表情は、苦悶に満ちた死とは裏腹に穏やかだった。淡い朱色に輝く瞳がゆっくりと戦場を見やる。 「見て、ここだけじゃない」 ティスの声に戦場を見回す。 事象の中心はトレイだった。金色を帯びた朱の輝きを背負うトレイが、ゆるゆると空へと昇っていく。彼が光のつばさを羽ばたかせるたびに、朱雀兵は立ち上がった。 ばさり、と。 力強い羽ばたきが幾重にも連なり、耳朶を打つ。 「なにが起きてるんだ?」 振り返れば、エイトが駆け寄ってくるところだった。その瞳が大きく見開かれる。 「あれはトレイか?」 「トレイはルシになったの。死んだ人が、生き返ってる」 ティスの声に、エイトは痛ましげに眉を寄せる。 「そうか……これはルシの奇跡か」 「でもよぉ、死んだ奴が生き返ったってわけでもなさそうだぜ」 「……うん」 「ルシの擬似的存在……ううん、しもべかもしれない」 「バルヨハニ」 答えたのはトレイの声だった。遙か遠くから投げかけられるような、胸が締めつけられるような声音だった。 ティスが天を仰ぐ。すでに、トレイやつばさを得た朱雀兵の姿は上空にある。手を伸ばしても届かない。 「バルヨハニ? 彼らは、バルヨハニ?」 うなずいた、気がした。 ティスの問いかけに答えたのか。あるいはそれは、バルヨハニへの合図だったのかも知れない。淡く輝くつばさを逆立て、バルヨハニへと化身した朱雀兵は、いっせいに青龍人へと襲いかかった。 圧倒的だった。光の瀑布が流れ落ちたあとには、氷のように砕かれた青龍人のかけらしか残されていなかった。バルヨハニは眉ひとつ動かすことなく青龍人を襲撃し、触れるだけで粉砕していった。青龍人は奇声を発して逃げ惑う。無尽蔵の食欲すら吹き飛んでしまったようだ。 砕いては空へと舞い上がり、再び上空から狙いを定める。まるで、獲物を捕らえる鳥のごとく。 「……これが、ルシとしてのトレイの力か」 「さっきは、ブリューナクを射貫いたんだよ」 「この距離からか?」 「うん、10000メートル以上あるけど、まっすぐに」 「信じられないな……」 これが、ルシ。 人間ではなくなるということ。 突然、エイトが顔を上げた。まなざしに戦意のきらめきと驚愕がある。 「トレイ、よけろ!」 その声は果たして届いたか。 上空のトレイが体勢を崩した。いつの間にか、トレイの眼前にルシ・ニンブスがいる。 赤く、血液の花が咲いた。朱雀の炎よりも、みんなで見上げた夕焼けよりも、背負うマントよりも、シンクの流す血よりも、もっと、もっと、もっと真っ赤で深くて、かきむしられるような命の赤。 ティスは、トレイは乙型と言った。甲型のルシとまともにぶつかって勝てるのだろうか――誰も、シンクの視線には答えなかった。トレイは放たれる光をぎりぎりでかわしているが、切羽詰まっているように感じられる。 大きく槍を振りかぶり、ナインが全力で上空に放つ。だが、ニンブスのつま先をかすりもしなかった。ティスが紡ぐ雷の弾丸も、シンクが作り出した炎も届かなかった。 トレイが弓を引く。ニンブスが無造作にはねのけた。烈光の剣が灼熱の輝きを放ち、トレイめがけ振り下ろされる。氷の塊が刃を受け止め、かろうじてそらした。だが、切っ先から放たれた烈光は、稲妻のようにシンクたちへと落ちかかる。 「やべ……」 ナインがつぶやく。 間に合わない。硬く目を閉ざした。網膜を焼き切るような閃光が視界を席巻する。ひどい耳鳴りがして、たたきつけられる衝撃が全身を貫いた。 少しの間、気を失っていたかも知れない。 誰かがなにかをわめいている。 がくがくと揺さぶられて、シンクは顔をかばった腕をそっと下ろした。目の前で叫んでいるのはナインだ。目を閉じる前より薄汚れてぼろぼろだが、命にかかわるケガはないようだ。怒鳴っているのはわかるが、なにを言っているかはまったくわからなかった。 音が聞き取れない。 しびれを切らしたのか、ナインの手が勢いよく離れた。 呆然と座りこむティスにぶつかり、ふたり仲良く土に転がった。掘り返されたばかりの新しい土の臭いが肺に満ちる。 (……土の、におい?) 違和感が激しく頭蓋を打つ。 土のにおいしかしなかった。戦場に特有の悪臭がない。息の詰まる硝煙、魔法の名残の痺れるようなにおい、灼けた空気――命がぶつかり合い、互いを殺し合う様々なにおいが、まったくしない。 力の入らない腕を突っ張り、必死に体を起こす。 「えっ……」 シンクは間の抜けた声をもらしてしまう。倒れたティスは起き上がらなかった。両腕で目を覆い、肩を震わせている。 振り返れば、ふらつきながら駆けるエイトと、追いかけるナインの姿が見える。 墜ちる、光が見えた。朱い――。 シンクたちがいるのは、メロエの町の外縁だった。ビッグブリッジは遠い。 「なんで……?」 「きっと、私たちを逃がしたの」 ルシ・ニンブスとの戦いに巻きこまれないように――殺されることがないように。 彼はもうルシなのに、零組の仲間を忘れなかった。あの一瞬、シンクたちが光に晒された瞬間だけ、トレイの意識に切り替わったのだろう。自分が攻撃をかわすより、シンクたちを助けることを選んだのだ。 ルシ同士の殺し合いのさなかに、そんな余裕があるはずもない。どれほど愚かしい行動か、わかっていないはずはないのに。 「なんでルシになんかなっちゃったんだろ」 「ルシにならなきゃ、たぶん、生きられなかった」 そんな気がする、とティスはつぶやいた。 撃ち落とされた赤い光が、再び空へと昇っていく。黄色の烈光が激しく瞬いた。 『此の地の光、絶えし時……』 声が、響く。 『呼ばわる声、遠く……き夢、追憶の……』 途切れがちで、かすれがちで、ほとんど聞き取れないが、詠唱を紡ぐのはトレイの声だ。 『集う祈りの……兆せ……』 戦場から輝きが飛び立つ。バルヨハニだ。数百、数千にも及ぶバルヨハニが空を覆い尽くす。苛烈な攻撃を加えるニンブスの動きが、止まった。 『……七色、絶望の音律……奉ず』 空が逆巻いた。 シンクには、他に表現のしようがない。 バルヨハニがトレイとニンブスを十重二十重に包みこむ。球形の魚群、いや、さざ波のごとく表面をうねらせる太陽のように。 『命を奏で……彼の地を臨む、永久の……』 トレイを中心に、波紋のごとく朱の波動が広がる。 頭の中で声がした。末期の絶叫、友愛をかわす声、ちょっとしたケンカ、からかったり笑ったり、忘却を恐れて泣き叫ぶ――それは、生きていたものたち、歴史の暗がりへと転がり落ち、忘失の彼方へと押し流された死者の声だった。 よみがえる。 野ざらしで朽ちていく遺骸、見せしめにつるされた死者――戦争で命を奪われ、地上に残骸をとどめる朱雀の人間たちが、バルヨハニとして次々に空へと飛び立つ。 彼の名を知ってる。彼女の名も知ってる。無数の名前が、枝を折るほどに寄り集まった小鳥のさえずりのように、頭の中でこだまする。 『結実、せよ。災禍の花を咲かせ……』 天を貫く一条の光は、放たれた矢か。 朱色の炎は渦を巻いて大空を席巻し、よどむ雲を吹き散らした。空を穿つ光が螺旋を描き、巨大な魔法陣へと形を変えていく。 ナインが絶叫した。血を吐くような叫び。 『……羽ばたき』 さざ波の中央が割れ、もうひとつの魔法陣が現れた。さらに、バルヨハニたちの上に小さな魔法陣が生まれていく。そのたびに、天空の魔法陣はその範囲を広げる。シンクたちの頭上を越え、とどまるところを知らず展開されていく。 頭の中で誰かが歌っている。優しい声、穏やかな音律――言葉の意味はわからないけれど、愛情に満ちた詩を奏でている。 それは、祈りの歌。 『顕れたまえ』 無数の魔法陣がガラスのごとく砕け散った。とがった先端を向け、大地に降り注ぐ。だが、破片がシンクたちを傷つけることはなかった。 降り注ぐかけらのきらめきの中に、鮮烈な光が生まれる。 「風が……飲みこまれてる、よねえ」 シンクは小さく声をこぼした。 大気が音を立て、魔法陣の中央へと引きずりこまれていく。引きずられそうになって、シンクはその場に座りこんだ。地と泥にまみれた髪が激しくなぶられる。かろうじてしがみついているだけだったマントが引きちぎられた。 長い、長い数秒だった。風の動きが絶え、音が消える。 「なにが起きるの?」 「……わからない。たぶん、朱雀が、勝つ」 天を見上げたままティスが答えた。膝をつくエイトと、柵を蹴破るナインの姿がやけに遠くに見えた。 きん、と耳鳴りが鼓膜を刺す。思わず耳を覆った。視野が暗い。力なく垂れ下がっていた朱雀軍旗が、音を立てて翻った。 濃縮された大気の中央、光の中心を突き破り、巨大なつばさが顕現する。 それは、七色のつばさを持つ、とてつもなく鴻大な巨鳥だった。目算だが、その体だけでアレキサンダーほどあるように見える。はばたきは嵐を巻き起こし、ハープを奏でるような歌声は稲妻を呼んでニンブスさえも撃ち落とした。 風に逆らい、シンクは立ち上がる。ティスの手を引いて引きずり起こすと、エイトたちの元へと向かった。高台からビッグブリッジ方面を見霽〔みはる〕かして、胸の底が冷えた。 狂ったように暴れ回る風雨が、鉄槌のごとく下される烈風が、戦場を嵐へと沈めていく。必死に退却する朱雀軍の足下にも、荒れ狂う風は迫った。魔導アーマーや青龍人は押し流され、竜は墜ち、白虎・蒼竜軍は波濤が渦巻くたびに戦線を切り崩されていく。 「あれは……まさか、秘匿大軍神か?」 エイトの声が、遠い。 アレキサンダーを目の当たりにして、凄絶な破壊力に徹底的に打ちのめされ、圧倒的な畏怖を植え付けられた。これ以上、衝撃的なことなどないと思ったのに、正気が振り切れそうになる。 どこか無機的であった聖なる光とは対照的に、巨鳥の起こす天変地異はあまりにも原始的だった。豪雨、暴風、落雷――オリエンス全土でごく普通に見られる悪天候が、数十年分もの威力を持って一気にあふれかえったような光景。 すさまじい自然の猛威の前では、歴戦の兵士たちでさえ、逃げ惑う無力な人間の群れに過ぎなかった。 逆巻く風が収まり、天の底を突き破る雨が上がり、光を食い尽くす雲が晴れ、大地を揺るがす稲妻がおさまるまで、どれほどの時間がかかったのか――シンクにはわからなかった。 ほんの数分のことにも思えたし、丸1日かかったようにも思えた。冷え切って震える体を寄せ合い、シンクとティスは互いの手を握りしめる。 「たくさんの名前が残された……」 ティスの声は枯れていた。 「クリスタルが、あんなにいっぱい……みんな、昇華したのかな?」 聖なる光にえぐり取られた大地の縁、天変地異が広大な湖を作り出したその畔に、無数のきらめきがあった。雲の隙間から差しこむ陽光に、神々しいまでの輝きを灯している。 確認するまでもない。秘匿大軍神たる巨鳥を召喚したトレイと、バルヨハニとして召喚の支えとなった数千にも及ぶ朱雀兵だ。 「彼らの名を……忘れない」 エイトが重々しく言い、弔うように胸に手を当てた。 彼らの名が失われることは二度とない。 「俺たち勝ったのか、オイ」 少なくとも、負けてはいない。でも、これは勝ったと言えるのだろうか。 白虎も蒼竜も、戦力の大半を失っただろう。一方、朱雀には幾分か余力がある。ここで一気に攻めこめば、ミリテス皇国もコンコルディア王国も、難なく落とすことができるだろう。生き残った敵兵にも、相次ぐ秘匿大軍神の顕現は、深い傷として残されたはずだ。目に見える形でも、見えない形でも。 それは、朱雀の人間にも言えること。 朱のマントを翻し、零組の候補生たちが駆け寄ってくる。 「一体、なにが起きた?」 エースの声に、誰も、なにも答えられなかった。 仲間のひとりが失われ、手の届かないところに行ってしまった。あの声を、再び聞ける日は来るだろうか。長すぎる話も、脱線していく話題も、得意げな声音、少し馬鹿にするような響き、なにより、知識を共有したいという思い、にじむ愛情――そのすべてが懐かしい。 「見てください、空が……」 クイーンのうわずった声に、いっせいに空を振り仰ぐ。 雲が晴れ、青空が戻ったかのように見えた。だが、空はいつの間にか様相を変えていた。濁った血を塗りつけたような赤が、みるみるうちに大空を席巻する。 我ら、来たれり――破滅の声が、脳裏に響いた。 「完全体のセクウィでも扉は開かない、か」 幾度も世界をやり直した。数えるのも嫌になるくらい、何度も何度も再生させた。秘匿大軍神セクウィの召喚は、その中でもほんの数回しかなしえていない。セクウィの召喚に耐えうるのは「知の座」トレイと「賢さの座」クイーンのみ。だが、彼らがルシとなる道を選ぶことは極端に少なかった。 今回は、あまりにもイレギュラーが多かったように思う。戦争半ばでの零組の欠員をきっかけにしたトレイの暴走――幼少時の記憶を取り戻し、生まれた村に戻ってしまった――がいちばん痛かった。おかげで、隠伏軍神カトブレパスを使う羽目になってしまった。 これほどうまくいかなかったのも初めてだ。 デスクに歩み寄り、葉を詰め替える。つと見やれば、キノットの枝の先に、親指ほどの小さな小さなふくらみがあった。 メガネの奥の瞳を細め、アレシアは静かに窓へと近づく。 「初めて実をつけたわね……望む実は結ばれなかったけれど」 空が真っ赤に塗りつぶされた。 終末が、始まる。 * * * とても久しぶりのFF零式小説です。久しぶりなのに、いきなり異なる螺旋の話を……しかも幸せはどこに行った、というような内容になってしまいましたorz 夜中に突然スイッチが入るとは思いませんでした。 初めてティスを書いてみました。こんな不安定な子ではない気がしますorz |