テイル/FF零式



 世界は光にあふれていた。
「おまえは何でも知ってるな」
 父親は笑う。濃い金髪と深い青色の目を持つ、穏やかな人だった。
「まだ言葉もちゃんと話せないのに、コップの水を凍らせたのよ。覚えてる?」
 微笑んで顔を覗きこんでくる母親は、ゆるやかに波打つ淡い金髪と灰色の瞳の、知的な女性だった。うなずいてみせると「そうね、生まれる前のことも覚えているくらいだものね」と、額に口づけをくれた。
 唇は乾ききり、ひび割れていた。指は枯れ枝のように細い。
 年齢も、純粋さも、幼くして備える膨大な知識の前には無力だった。母がいなくなる日が近いことは、誰に言われなくてもわかる。誰もが隠し通そうとしていたが、悟ってしまった。歩き回れる時間は、刻々と削られていく。
 母には死神の息吹が吹きこまれていた。
 だから、笑顔を向ける。未練なく循環に戻れるように。髪を梳いてくれる指はあたたかい。
「この子はペリシティリウム朱雀に招かれるだろうね」
 軍人上がりだという村長は飴の壜を持たせてくれた。お母さんの咳がひどくなったらおあげ、と。ありがとうございますと頭を下げると、本当にいい子だと目を細めた。
 別れの日が近いという予感は、4歳の子どもにとっては形のよくわからない影のようなものだったが、目をそらすことはできなかった。

 6つのときだ。
 さざ波と、指に絡む砂、寄せては返すしぶきに飛びこみ、叱られて――何度も何度も繰り返す。
 最初で最後の家族旅行だ。父に言われなくてもわかった。母はもう、自分の力だけで歩き回ることはできない。巡視の途中で立ち寄ったという朱雀の兵士たちの申し出がなければ、村を出ることなどなかっただろう。
 晴れた空はどこまでも気持ちよく澄んでいて、ちぎられた若葉が戸惑うように波間に吸いこまれていった。
「ほら、服が濡れてしまうよ」
 父が腕を引いた。指先をくすぐり、白波が遠ざかる。
 車椅子の母は砂浜の縁で待っていた。傍らには兵士がいる。少年は父の手を引き、波と戯れる。何度も、飽きることなく。その特性を脳裏に走らせ、完全に理解するために。
 子ども特有の無邪気さが欠落していることには、とっくに気がついていた。だからといってどうにかできるものでもなかった。
「ほら、母さんが見てる」
 父に言われて振り返ると、母と目があった。手を振ると、弱々しく振り返してくれる。小さな氷の釘が刺さった気がして、彼は胸に手をやった。だが、そこにはなにもない。
(なんだろう……罪悪感? お母さんに?)
 それ以上考えるのはやめた。父の手を引き、砂浜を歩む。
 母にプレゼントした桜貝は1枚。父にも1枚、自分にも1枚。兵士たちは受け取ってくれなかった。
「よく見つけたわね」
「とても傷つきやすい貝だよ。こんなにきれいなのを見つけるなんて、すごいな」
「他の人も探しに来るかも知れないから、これだけにします」
 頭をなでる手は力強い。
 帰り際に顧みた海は、どこまでも青かった。金色の太陽を縁に輝かせ、葉ずれのようにささやいている。水平線までたどり着いても、いっこうに空と交わる様子はなかった。
 もう2度と、この海には来られない気がする。
 それは漠然とした予感などではなく、確信だった。

 8歳になった彼には、人間の友達はいなかった。
 難なく氷片を生み出す魔法の才、年齢にそぐわぬ沈着さと礼儀正しさ、大人ですらかなわない研ぎ澄まされた知能、村長すら驚愕させたあまりにも多岐にわたる知識――少年は孤立していた。だが、孤高を孤独と感じる脆弱さは、彼には存在しなかった。
 嫌がらせも好奇の目も、彼は淡々と受け入れた。
 大人たちの多くは彼のずば抜けた才能を遠巻きに見守ることを選び、ごく少数がおかしいと非難し、さらに少数が褒めた。
 両親さえいれば、少年にはどうでもよかった。
「お父さん、お母さん」
 呼ぶたびに顔をほころばせる父、目の際をほんの少しだけ赤くして微笑む母――十分だった。
「私には大切なものがみっつある。ひとつめはこの村だ。家族のない私を愛してくれた、この大地」
 父は少年の髪を梳いて微笑んだ。
 長方形の窓を埋め尽くすのは、淡い色の空だ。村は丘陵の斜面に築かれている。階段状に整備された街並みを形作るのは、白みを帯びためずらしい石材を積み上げた、おとぎ話のような家々だ。斜面を登り切ればゆるやかに下る丘陵がつづき、村を降りきればのどかにうねる川の流れがある。川向こうに広がるのはチョコボの生息する森、そばには海が広がっている。
 人口1000人にも満たない、小さな小さなコミュニティ。自給自足を常とし、あまり外界と接点を持たない静かな村だ。
 指輪のはめられた母の手を、父はいとおしそうになでた。
「ふたつめは母さんと出会って家庭を持てたこと。こんな素敵な女性は他にはいない」
 母が照れたように顔を背けた。頬を覆う髪を父はそっと払う。母がベッドを離れることはほとんどなくなった。声を聞くことも減った。日がな一日、ベッドで苦しげな睡魔に苛まれている。
「みっつめがお前だよ、××」
 そのまなざしに、心臓があたたかく脈打った。
 さらさらと流れる音がする。血潮の音、風の音――こぼれ落ちる、砂の音。
「僕も、宝物だと思ってる。ほんとうです」
 骨張った母の手と、力強い父の手を握りしめ、少年は微笑んだ。抱きしめたかったが、か細い腕では届かない。
 その日、砂時計の砂は落ちきった。
 誰に知れることもなく、最後の一粒が砂の斜面をひっそりと滑り落ちた。

 朝起きると、母は冷たくなっていた。手を握っても、声をかけても、揺り動かしても目覚めなかった。
 その人が母とわかったのは、やつれた面差しの中に、似通った部分を見つけたからだ。それに、ここが母の寝室だと――顔は思い出せなくても――知っていたから。
「お母さん……」
 終わりが来たのだと悟った。
 別れの日が近いことは覚悟していたつもりだった。だが、なんの役にも立たなかった。唇が、膝が震える。寒くてたまらない。目の奥が燃えるように熱いのに、がらんどうの胸の中には冬の風が渦巻いている。
 母のベッドの隣には誰もいなかった。真ん中がへこんで上掛けがはぐられているところから見て、少し前まで誰かが眠っていたのは間違いない。たぶん、父だ。
 面影すら思い浮かべられない。もう生きてはいないのだろう。最後の場所だけ確認しようと思った理由は、よくわからない。
 リビングにも、キッチンにもいなかった。扉を開閉する音、足音、彼の呼吸ばかりが耳につく。
 世界は無音だった。足音はない、話し声もしない、犬も吠えない、鳥も鳴かない、葉ずれさえ聞こえない。真夜中のように――いや、音を吸いこむ箱の中に閉じこめられたように静まりかえっている。
 石畳を打つステッキの音、行き交う足音、のんびりとした挨拶、しかりつける声、のそのそと道を歩く山羊たちの鳴き声に鈴の音、広告屋の朗々とした声――なにも、聞こえない。
「……お父さん」
 父らしい男性が倒れていたのは、5頭もヤギを並べればいっぱいの小さな庭の隅だった。そばには、少年が生まれた日に植えたという、小さなキノットの木がたたずんでいる。
 背中を見つめていても、なにも思い出せない。雲を踏みつけるようにふわふわした足下を踏みしめ、ゆっくりと近づいた。触れてもぴくりともしない。緩んだ肉の感触に鳥肌が立った。
 形見の指輪をそっと引き抜く。親指にすら大きかった。
 実を結ぶ兆しのない若い枝を一本折り、家を出た。倒れ伏した村人を避けながら、ゆっくりと階段を下りる。胸の中に吹きこむ風が、痛くて冷たくて仕方なかった。
 村の半ばを過ぎると、家屋はまばらになる。周囲に広がるのは畑だ。振り仰いだ家々の煙突には、煙一つなかった。
 死臭すらない。
「誰もいない……」
 かすれた声でつぶやく。この村の名を、存在を覚えている人間は、少年だけになってしまった。頭を振り、歩き出す。だが、数歩で足を止めた。
 誰かに、呼び止められた気がした。ことさらゆっくりと息を継ぎ、耳を澄ませる。
 足音が聞こえた。蹄の立てる音ではなく、獣の爪の音でもない。モンスターの気配でもない。なめし革と金具がこすれ、きしむ音――誰か、彼以外の人間がいる。
 胸の内に氷の嵐が吹き荒れた。
(ここは危ない)
 なぜそんなことを考えたのかもわからない。通りの真ん中は危ういと、天啓のように思いついたのだ。予感の突き動かすままに、手近な塀に身を寄せる。影で位置を悟られないようにと西側を選んだのも、深く考えてのことではなかった。
 不必要に身を乗り出さないように――その度合いすら考えずともわかることに、彼は疑問を持たなかった――気をつけながら階段を見上げる。
 1ブロック分を上りきった先に人影があった。煙が揺れる。吹き抜けた風が、か細い一条の紫煙を曳いた。
 胸の中で、得体の知れないなにかが動き出そうとしている。
「迎えに来たわ」
 手をさしのべられた。心臓が大きく音を立てる。
 気がつくと、彼は道の真ん中に立っていた。笑いかけられて、頬が赤らむのがわかる。この村がどうなったのか訊こうとしたが、声は出なかった。口を閉ざしたときには、なにを言おうとしたのか――疑問を紡ごうとしたことさえ、彼は忘れていた。
(この人を待ってたんだ……)
 強い眼光を見上げ、少年は微笑んだ。迎えに来るからここにいたのだと確信する。
 なにか、大切なものがこぼれ落ちていくような気がした。でも、その正体はよく見えなかった。
 赤い唇が笑みを描く。
「さあ、いらっしゃい」
 惹かれるように足が動いた。石段を上る。
 足下でなにかが跳ねた。目を向ければ、若葉をつけた細い枝だった。なんでこんなものを抱えていたのだろう。指から滑り落ちた銀色が、訴えかけるように陽光を跳ね返す。だが、彼は気がつかなかった。
 丸い底がひび割れ、砂があふれ出した。
 歩むたびに、砂時計の細かな砂がこぼれ落ちていく。水と見まがうほどに繊細な粒子の、顔をのぞかせたばかりの月光のような金色の光。それは、穏やかな子ども時代の終焉でもあった。
 彼は気がつかない。見ることも、感じることもできない。
「僕は……」
「ずっと探していたのよ。今回は、なかなか会えなかったわね……」
 さしのべられた手をとる。


 呼ぶ声が、うつろな青白い闇に反響する。
 そうして、記憶はこぼれ落ちた。彼が彼となるために、彼に不必要な時間は削り取られ、葬られた。彼は彼になった。


 誰かが呼ばわる声が、純氷のように澄んだ意識を揺らした。
「ちょっと、トレイってば!」
「えっ」
 顔を上げると、すぐそばに胡乱な目をしたケイトが立っていた。いらいらとかかとを床にたたきつけている。
「なによ、また思考飛ばしてたの?」
「……ええ、そのようです」
 それ以外に答えようがない。心臓が恐ろしい速さで脈打つ。
 自分がどこにいるのかも、すぐには把握できなかった。いつにない鈍さが空恐ろしくなる。一体、なにをしているところだったのか――そう、ここはクリスタリウムだ。ほとんど誰も訪れない一角、絵画集の納められた書架の前にトレイはいる。
 見下ろせば、モノクロームの絵画が両手に収まっている。どこかの村を描いた純朴な線画だ。崖をゆるゆると登る街並みに、不思議な魅力を感じる。
 ケイトが目をつり上げる。胸元に指を突きつけられた。
「なにが『そのようです』よ! あんた、いつも人の話聞いてないってぶつぶつ言ってるくせに、こっちの話だって聞いてないじゃない」
(……私は、なにを?)
 よく、わからない。思考がうまくつながらない。
 ノンブルもなく文章同士がつながって見える乱丁の本を、そうと気づかぬままに読みこんだような感覚。でたらめに押しこまれたパズルのピースのようだ。角がこすれ合い、乗り上げ、そうして傷つき、ぼろぼろにはがれていく。あとに残るのは無残な残骸だ。
 絵画集を書架に戻す。これ以上、この本を見ていてはいけない気がした。
「……ケイト」
 ケイトはなぜかひるんだ。そのことを恥じるように腕を組み、かみつくような勢いで睨みつけてくる。
「なによ、なんか文句でもある?」
「今、なんと?」
「はあ?」
 ケイトは目をまん丸くした。首をかしげながら、大丈夫かこいつとでも言いたげな瞳を向けてくる。
 あまりにも露骨すぎて、少しいたたまれない。
「私をなんと呼びました?」
「なにって……トレイ以外になにかあるの?」
「いえ。変なことを言いました。気にしないでください」
 違う言葉に聞こえたのだ。ほの明るいあたたかな場所で眠っていたときに、何度も呼ばれた気がする。指先までじんわりと滲みるような声で。
 まあいっか、とケイトはトレイの腕を叩いた。
「ほら、早くしなって。マザーが呼んでる。検診だって」
 それで、わざわざクリスタリウムまで探しに来てくれたのか。
「わかりました、すぐに行きます」
 立ち尽くしていた時間はどれくらいだろう。
 なにも覚えていない懸念が、胸の底をひやりと炙った。

 いらえを待ち、マザーの部屋に入る。
「遅かったわね、あなたにしてはめずらしく」
「絵画に見とれていたようです。すみませんでした」
「いいのよ」
 マザーは笑んだ。胸の中があたたかくなるような、穏やかな微笑だ。そのまま、彼女はキセルをひとあおりした。
「ほら。ひとつきりだけど、つぼみをつけたのよ」
 言って、デスクの傍らの鉢植えを示す。
 生命力にあふれたみずみずしい楕円形の葉っぱに覚えがある。知識の森を歩むまでもなく、その名を思い出せた。
「キノットですね。果実酒を作るのですか?」
「どうしようかしら」
 いたずらっぽく笑う。
「この枝はね、今までに1回だけ花を咲かせたの」
 なぜだろう、うまく答えを返せない。声を発することも、リアクションを取ることもできなかった。黙りこんだまま、マザーの背と小さな木を見つめることしかできない。
 なにかが頭の奥の壁を叩いている気がした。
(気のせいだ)
 言い聞かせる。深く考えてはいけない。あくまで、マザーの子、マザーのための戦士であるために。
「でも、実はつけないのよ。今回はどうかしら」
 口を開いたが、結局、声は出なかった。
 マザーが振り返る。
「このキノットには、テイルという名があるの」
「木に名前があるのですか?」
 少し意外だった。愛情深くて、優しくて、ひとりひとりをしっかり見てくれる人ではあるが、それが植物にまで向けられるとは。
 首をかしげたトレイがおかしかったのか、マザーはほんの少しだけ声を上げて笑った。
「そうよ、テイル。いい名前でしょう?」
 氷のかたまりを押しこまれたような錯覚を、むりやりやり過ごす。
「……はい。私もそう思います」
「きっと、いちばん幸せだったんじゃないかしら。一緒にいられた時間が長かった。奇跡的に、母親も生き延びた」
 マザーの最後のつぶやきの意味はわからない。
 促されるまま、トレイは椅子に腰を下ろす。視界の端でキノットの葉が揺れた。枝を離れ、力尽きたように赤い絨毯に軟着陸する。
 体温を移さない黒い手袋が頬に触れる。髪を梳かれる感触が、とても心地よかった。

*  *  *

 アルティマニアのQ&Aを読んだので。
 違う螺旋の中のトレイのイメージ。
 テイルはブルトン語の「3」。テイルは女性名詞らしいので、本来ならトゥリを使うべきなんですが……音が可愛いすぎたので(´・ω・)