掌に余る/FF零式



 少々気が重かったが、キングは動き出すことにした。
 明日になれば、嫌でも顔を合わせる。朝からもめるくらいなら、今日中に解決してしまった方が気が楽だ。トレイから話を聞き出せれば、ナインもどうにかなるだろう。
(倒れてればまだおとなしいが……元気になりかけだとうるさいな)
 トレイの口を割らせること自体は難しくないが、どうかみ砕いてナインに教えるかが問題だ。可能ならその辺は放棄したい。
 むしろ、キングがそこまで気遣ってやる理由もないのだが、どのみち面倒に巻きこまれることは決まっている。近い未来の自身のためになんとかしておきたいところだ。
 トレイの体調が戻っているなら――たぶん、ものすごく不機嫌だろうが――少しはレポートの助言も得られるかも知れない。クラサメとにらみ合いをするくらいなら、トレイを押さえこむ方が幾分かましだ。
 レポート作成をクイーンが手伝ってくれたことはない。報告書ならなにも言わずとも横から口出ししてくれるのに、不思議なものだ。
(よし)
 覚悟を決めて扉をノックする。居留守を使うだろうという予想はきれいに裏切られ、鍵の開く音がした。
 だが、姿を現したのはマキナだった。キングを見てあからさまにぎょっとしたが、驚いたのはこちらも同じだ。
 トレイの部屋からマキナが出てくる意味がわからない。
「ああ、キングか」
 マキナの声には、なぜか安堵に似た響きがあった。
 水の流れる音が聞こえる。苦しげな息づかいが耳朶を打った。
「トレイだな?」
 マキナは逡巡を見せたが、トレイの部屋でごまかしても意味がないと思ったのだろう。水音の方へ痛ましげな視線を向けたのち、キングを見上げてうなずいた。
「俺の部屋じゃないが、入ってくれ」
「勝手なことをしないでください」
 激しい咳に混じって、抗議が聞こえる。なめらかなアラバスターにやすりをかけたような、ひどい声だ。トレイのものとは信じられなかった。質の悪い通信越しでも、ここまでひどくない。
「そんなことを言ってる場合じゃないだろ。俺じゃ手に負えないんだ」
 マキナを半ば押しのけるように足を踏み入れたキングは、洗面スペースに目をやって固まった。
 トレイが洗面台にへばりついている。体を半ばから折るようにして、激しく咳きこんでいた――いや、違う。背を震わせて嘔吐していた。赤いものが見えてたじろぐが、吐血ではないようだった。
「トレイ、平気か?」
 口にした瞬間、なんて間の抜けた質問なんだろうと後悔した。だが、出た言葉が引き戻せない以上、堂々としているしかない。
 とりあえず背でもさすってやるかと腕を伸ばすが、氷の剣のように鋭い視線がキングの手を打った。涙目のくせに、眼光は不機嫌にぎらついている。顔色は最悪レベルだが、覚悟していたよりひどくはない。
「今、忙しいんですが」
「……そのようだな」
 それ以外になにが言えるだろう。
 マザーのところへ連れて行くのが最優先という気がする。
「これが平気に見えるのですか」
「いや、見えないな。マザーのところへ行こう」
「行きません。こんなことでマザーに心配をかけてどうするんです。よけいなことしないでください。第一、なぜ君が来るんですか」
「ああ……すまん」
 激しくえずきながらなので、勘でかなり補う羽目になったが、解釈はおおかた間違っていないだろう。普段なら多少は言い返す気も起きるが――実行したことはほとんどないが――減らず口で取り繕おうとしているのだと思うと、なんだか可哀想になってくる。
 マキナがはらはらしているのが申し訳ないくらいだ。調子が悪いなら、おとなしく倒れてくれていればいいものを。不調のトレイは無駄に気が強くなる上、口調にも容赦がなくなる。普段、自身を律している反動だろうが、そばにいる方としては迷惑この上ない。
 しかも、こちらの血管がまとめて切れそうになったところで、糸が切れるようにばったりと倒れるのだから。あまりにも隙を見せたがらないというのも考え物だ。
「どうしてこうなった?」
 口をゆすぐトレイは視線ひとつ寄越しやしない。
「どうだ?」
 マキナを振り返ると、彼は強く唇を引き結んでうなだれた。
「すまない……俺の不注意だ」
 水を止め、トレイが顔を上げた。濡れた髪をかき上げ、冷ややかな視線をキングにくれる。
 そんな顔をされるいわれはこれっぽちもないが。にらみ返してやろうかとも思ったが、胸元に押し当てたタオルの色がみるみる変わるのを見て、やめた。
 あれは、着替えなければダメだろう。
「マキナのせいではありませんよ」
「でも、まともに飲み食いしてなかったんだろ? なのに……」
「具合がわかっていて食べたのは私です。君が無理に突っこんだのではないですから。君には責任などないのですよ」
 マキナの目を傷ついたような光がよぎる。キングは目を疑った。
 トレイもその反応は予想外だったらしく、説明を求めるように目を向けてきた。俺は知らない、と視線を返す。それ以上は突っこまないことにしたらしい。新しいタオルを取り出す。
「とにかく、お前は寝ろ」
 トレイの眉が心外そうに跳ね上がった。
「私が病人だとでも?」
「似たようなものだ。マキナにこれ以上の迷惑をかけたいなら構わんが」
「本意ではないですね」
「なら、さっさと着替えて寝ろ。まだごねるなら、強制的に放りこむ」
「……わかりました」
 答える声は吐息混じりだ。マキナの反応を見る前だったら、もう少し渋ったかも知れない。
 マキナの様子も気にかかるが、そちらの心配までできるほどキングの手は空いてない。レポート+追加レポート、1000字の反省文、明日朝一で申し渡されたクリスタリウム掃除だけで、もう手一杯だ。
 トレイはついたての裏へと姿を消した。クローゼットを開ける音がする。ベッドはついたての向こうだ。着替えやベッドを見せたがらない潔癖さには、ある意味では感心する。
 マキナに目配せし、キングはソファに腰を下ろした。マキナはおとなしく向かいに座った。ソファはもちろん、クッションのひとつひとつにまで清潔そうなカバーが掛けてある。本当に隙がないなとこっそり苦笑した。
 ローテーブルには、学食で売られているミネストローネのカップが放置されている。すっかり冷め切っていた。赤いものの正体はこれだろう。
「すまんな、巻きこんで」
 マキナは首を振る。
「いや……役に立てなくて、逆に申し訳ないよ」
「トレイが言ってたろう。マキナのせいじゃない。あいつが悪い」
「たまには話がわかるんですね」
 ついたての向こうから声が飛んできた。とげとげしさはだいぶ抜けたが、相変わらずよく回る舌だ。本調子ではないが故の甘えだと思っても少しも可愛くないが、我慢してやるだけの余裕はなんとか残っている。
「お前は少し黙ってろ。ベッドに入るまでしゃべるな。次に無駄口を叩いたら、カヅサの部屋に放りこむ」
 返答を無駄口にカウントする気はなかったが、トレイは返事すらしなかった。部屋に閉じこめられたことが、未だに悔しいらしい。なんのことだとマキナが視線で訊ねてくるが、無表情で応えてみせる。
(頼むから、訊くな)
 ブリザガが飛んできたらさすがに困る。
 マキナはうなずいたが、笑みをこらえきれなかったようにその頬が緩む。なにかおもしろいことでも言っただろうかと思い返してみるが、思い当たることが特にない。
「キングって……」
 マキナは、小声で言った。
「なんていうか、もっと固いと思ってたけど、そんなことないんだな」
「そうか?」
「見る目が変わった」
 悪い方に変わっていないことを祈りたい。
「トレイも……俺やレムにも優しいけど、あまり軽口叩いてるところ見たことなかったから、新鮮だ。ほんとに兄弟みたいだな」
「あんな弟は困るな」
「誰が弟ですか」
 すかさず返ってきた声に立ち上がる。
「よし、カヅサの部屋に放りこむ」
 指を鳴らすのは忘れない。
「ベッドにいますよ。これで十分ですか?」
「十分なわけないだろう。話がある」
「前回の作戦でしたら、すでに報告書を提出しています。詳細が知りたいなら、クリスタリウムでご覧になってはいかがです?」
 キングの活字嫌いを知っていてよく言う。先回りできるだけの頭に恵まれているのに、ナインをほったらかしにしておくのはやめてほしいものだ。忘れるまで待つつもりなのかと疑いたくなる。
 あと数日もすれば忘れるだろうが、それまでにさんざん巻きこまれるのはキングだ。
「報告はどうでもいい。話を聞きたい」
「……なんの話ですか?」
「ナインがクリスタリウムで暴れたせいで、追加レポートと掃除を言い渡された」
「それはそれは」
 苦笑じみた声が返る。
「これ以上はさすがに困る」
 漂う沈黙。ついたての向こうへ足を踏み入れないのは、キングなりの精一杯の譲歩のつもりだ。マキナを帰らせないのは、騒ぎに巻きこまれた以上、知る権利があると思ったから。
 ついたてを見つめてしゃべるというのは変な感覚だが、顔を合わせれば、また意地を張るだろう。
「ナインには責任なんてないのですよ」
 マキナが軽く息を呑んだ。申し訳なさそうに立ち上がろうとするのを、手を上げて制する。
「もちろん、セブンにもありません。そもそも、今回の作戦で部隊長を任じられたのは私です。責は私にあります」
 それが大前提ということか。
 3人で行動を共にしていたのだから、部隊長であったとはいえトレイひとりに責任があるとも思わないが、言ったところで聞かないだろう。気質はよくわかっているつもりだ。別行動をしていたキングにはなにも言えない。
 静寂は長かった。眠ってしまったのかと心配になるほど、長かった。
 深い深いため息が聞こえる。
 ぽつんとつぶやいた。捨てられたことに気づかぬ子どもが、途方に暮れてさまよっているような心許ない声音だった。
「見殺しにすべきだったんです」
 マキナが目を見はる。
 胸の奥で、小さな氷の粒がはじけたような感覚。喉元が冷たく重くなったのは、息苦しいほどの逡巡を感じ取ったからだ。
「好機でした。魔導アーマー部隊の注意は候補生ひとりに向けられて、私たちからは完全に逸れていたのです。あのとき魔法陣を発動させていれば、ひとりの犠牲で一掃が可能でした。作戦も迅速に進められたでしょうね」
 淡々と語る口調が空恐ろしくすらある。表情が見えないことを危ぶむ反面、その顔が見えないことに安堵してもいた。
「実行していれば、掌に余るタグを持ち帰ることもありませんでした。助けに行くべきではない、発動させるべきだとわかっていました。でも、助けに行ってしまった……ふたりに救助の指示を、部隊に継続を命じて、弓を引いた。その結果が、ナインの暴走と部隊の壊滅でした。私は、目の前のひとりに気を取られて、大局を見誤ったのです」
 見開かれたマキナの目が揺らいでいる。
 動揺の度合いが大きすぎる――キングはいぶかった。マキナはこらえるように頭を振る。なにかを言い聞かせるような面差しが気にかかった。
「普段なら……なにも考えてないナインがうらやましいですが、今は可哀想で仕方ないですよ。自分のせいでもないのに責任感にさいなまれて」
 死により存在を忘れても、残されたノーウィングタグと部隊の名簿を見れば、どれほどの命が消えたのかわかる。取りこぼした人数のあまりの多さに慄然としただろう。零組が欠けていた可能性――その危惧は、返しのついた毒針のようなものだ。一度刺さればなかなか抜けない。
 見方を変えれば、それはトレイのもろさでもある。
 トレイとクイーンには、程度の差こそあれ共通点があった。失態へ屈辱感だ。ある意味では恐怖心に近いかも知れない。彼らは生まれ持った頭脳と貪欲なまでの知識欲や向上心のために、失敗することが極端に少ない。吟味し、熟慮し、隙がない。
 だからこそだ。
「何度同じことが起きても、見殺しになんてしないだろう」
 マキナがはじかれたように顔を上げる。返るのは、もちろんトレイの声だ。
「そうですね。目の前で消えようとする命があるのなら、助けようとするのしょう。何度でも……手が届かなくても」
「ナインに話はしたんだな?」
「拠点で簡単に、ですがね。彼が来てくれればお話しできたのですが……私が歩き回るのは、いささか問題があるでしょう。零組は有名ですから」
 頭を抱えたくなった。
「ナインはお前を捜してあちこち走り回ってたようだ」
 返ったのは沈黙だった。トレイ、と呼ぶと、なんとも表現しがたい複雑そうな声で言う。
「帰投以来、ナインが来たことはないですし、部屋からもほとんど出ていません。今日いらしたのはあなた方ふたりだけですよ」
「部屋がわからなくなったな……」
 自分の部屋の扉を出て1分と歩かないのに、なぜわからなくなるのだろう。テラスに行こうとしてチョコボ牧場にたどり着く男が、自室にだけは帰り着けることが不思議でならない。
「トレイ。これは、俺の意見だけど……」
 マキナが口を開いた。視線を床にさまよわせ、一言ずつ区切るようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「トレイが見捨てなくて、その、候補生は安心したんじゃないかと思う。見殺しにされなかった、助けようとしてくれたって……悲しんだり恨んだりしないで、逝ったんだ。最後に感じたのが絶望じゃなかったって、不幸じゃないよ」
 ずいぶんと実感のこもった口調だった。思い詰めるようなまなざしと、青ざめた目元が気にかかる。
「そうだといいんですが」
 トレイが軽く咳きこんだ。
(頃合いか)
 傷をブリザドでふさいだことや、軍神の件――言いたいことは山ほどあったが、これ以上の長居はまずいだろう。本調子ではないのだし、嘔吐にはひどく体力を消耗する。
 キングはマキナを促し、立ち上がった。
「トレイ」
「なんです? まだなにかありますか」
「レポートだが……」
 微かな息づかいから、トレイが苦笑をもらしたと悟る。
「そうですね、今回に限っては協力しましょう」
「協力って……」
「問題ありませんよ、マキナ。私の資料をお貸しするだけです。机の上にありますから、持って行ってください」
「助かる」
 不安そうなマキナをその場に残し、キングはついたてへと向かった。ついたての左を通り、ベッドを見ないよう首を曲げて、年季の入ったライティングデスクにたどり着く。
 きっちりそろえられたレポート用紙や、几帳面な文字の並ぶメモ書きの山の中に、革表紙に金箔押しの本が置かれていた。指3本分の厚みがあったが、メモや付箋が大量に挟みこまれているせいで、さらに分厚く見える。
 リスやハリネズミなど小動物の形をした付箋は、シンクあたりからのプレゼントだろう。趣味に合わなくてもきっちり活用しているのは、受け取った側としての気遣いか。
 単純に小動物が好きと考えるには、トレイの気質はあまりにかわいげがない。
「3枚目のカエルです。メモもありますから、どうぞご参考に」
「ああ……助かる」
「キング、この埋め合わせは必ずしますよ」
 背に声がかかる。振り返りそうになったが、こらえた。弱った姿など見られたくないだろう。
「病人が無駄なことを考えるな」
 そうですね、と吐息混じりの声は笑う。
 この殊勝さも今夜限りと思うとなにやらもったいない気がしてくるから不思議だ。なのに、本の重さの分だけ心が少し軽くなった気がする。
 明日の朝はナインを連れて行こう。クリスタリウムの掃除をしながら話をしてやるつもりだ。どれほどかみ砕けばわかってくれるのか、今から頭が痛い。


 翌朝、ナインをたたき起こしてクリスタリウムに向かったキングは、トレイにセブン、ジャックまでいたことに愕然とする。
 おちょくるジャックと吠えるナインをしかりつけながらの掃除は面倒ではあったが、苦痛は少しも感じなかった。

*  *  *

 葬送→いらだち→掌に余る。シリーズのような構成になってしまいました。
 あの作戦ではこんなことがありました。見捨てるべきだったのに、とっさに救おうとした、そのために出した多大な犠牲――その名を忘れてしまっても、取りこぼした命の多さに苦しむ……。
 実際はもっとドライかも知れません。最初の犠牲者は「恐れ」に登場した候補生でした。