忘れ物/FF零式



 うららかな陽差しがいっぱいに降り注ぐ。午前中で講義も終わり、教室には日直のジャックとシンクだけが残っていた。
「できたー」
 シンクがチョークを置く。満足そうに腕を組んでうなずく級友を見やり、ジャックは頭を掻いた。
 黒板に並ぶのは、ジャック作のもぐりんと、シンク作のもぐりんだ。ジャックのもぐりんは、我ながらうまくできたと思う。ちょっとぼんぼんが大きすぎたが、隣に小さくハートを入れてみたら、びっくりするほど可愛くなった。
 ラインは少しへろへろしているが、これくらいなら問題ないだろう。もぐりんだって喜んでくれるはずだ。
 だが、シンク作のもぐりんはちょっと危ない。もぐりん本人が目撃したら、たぶん家出する。どんなに頑張ってモーグリだと思いこもうとしても、不格好にねじくれたボムだ。それか、死相が出ているベヒーモス。
 ジャックにはもぐりんの家出を止められそうにない。
 むしろ、止めちゃいけない気がする。
「これ、もぐりんなのー?」
「そだよ、もぐりんだよ」
 花のように微笑まれて、さすがにひるむしかなかった。
 これなら、ナインがテストに殴り書きしたトンベリの方がまだましだと思う。不思議なちょんまげが生えていたが、見た目はいちおうトンベリだった。試験中は教卓にずっとトンベリがいたはずなのだが――なぜ、ちょんまげが生えたのだろう。
 クラサメには×をつけられていたが、回答欄は空っぽだったのだから、それは仕方ない。
 セブンにも「包丁が刃物らしいな」と言われていた。たぶん褒め言葉だと思う。
 とにもかくにも、目の前の絵は断じてモーグリじゃない。赤チョークで塗りつぶしたマントさえどす黒く見えてくるのが不思議だ。
(僕がこんな感じになったら……)
 冬眠を決行する。
「ね、どおー?」
「うーん、もぐりん家出するかもねえ」
「するかなあ」
「たぶんするよ」
「そうかなあ」
 ゆるゆると会話が進む。だが、穏やかな昼下がりに似つかわしいのんびりとした空気も、黒板の前ですっぱりと断ち切られてしまう。
 この絵だけは平和とはほど遠い。
 扉の開く音が聞こえたとき、ジャックはとっさの判断を迫られた。黒板消しをフル稼働させるか、知らない振りをするか、逃げるか――だが、どれを選ぶ間もなかった。振り返ったシンクが、のほほんと声をかけたのだ。
「あ、ナインだー」
 こっそり胸をなで下ろしているジャックに気づく様子もなく、やっほーと手を振る。対するナインは愛想のかけらもなかった。ポケットに両手を突っこみ、のしのしと階段を下りてくる。前髪でよく見えないが、目元の傷がひどくゆがんでいる気がする。
(あ、なんかやな感じ)
 床を一蹴り、地響きのような音を立てて教壇に着地する。勘に違わず、向けられたのはかみつくような眼光だった。
「オイてめえ!」
「なーにー? ナインもお絵かきしに来たの?」
 シンクの声をすっぱり無視し、ナインはジャックに迫ってくる。
「どこへやった、コラ!」
「なんの話ー?」
「ケンカ売ってんのか、オイ!?」
「ケンカなんか売らないよー。大安売りするものじゃないし、めんどくさいしー」
 ナインの眉間のしわがぎゅんぎゅん増えていく。
 さりげなく距離を取ろうとしたが、ナインはしっかり踏みこんできた。とっくみあいになると、少し分が悪い。いざとなったらシンクの助太刀があることを期待して、逃げるのはやめておく。
 首を絞めるような勢いで、胸ぐらをつかまれた。
「てめえ、俺のマントどこだ!?」
 予想外すぎて、腕を振り払うタイミングを見失った。ぽかんとナインを見返す。
「へ? マント?」
「俺のマントだ、どこだ!?」
 シンクがナインのうしろに回りこむ。うーん、と体ごと首をかしげた。
「ナインのマント、ないねえ」
「ないんだー」
「うん、ないよお」
 言って、シンクは自分のマントをひらひらさせた。
「わたしたち、ずっと教室にいたよねー」
「そうだねえ、マントの忘れ物なんて、なかったねえ」
 ね、ね、と顔を見合わせる。
 3人で補習を受けたのは1時から2時までの間。ナインは補習が終わってすぐに教室を出て行き、ジャックとシンクは1時間近くをかけて、日直の仕事を終わらせたところだった。
「忘れてねえ! 盗られた!」
 ナインが教卓を殴りつける。黒板を割ったらまずいと考えたのかも知れないが、教卓も十分まずいと思う。手が離れた隙に、ジャックはさりげなく一歩下がった。
 シンクが小鳥のように首をかしげた。
「誰が盗るの、そんなのー」
「そんなの!?」
「ナインのマントなんか盗っても意味ないじゃーん。頭よくなるわけでもないしー」
 だよねえ、とシンクはうなずいた。
 ナインは不思議そうに目をしばたたく。
「んじゃ、俺のマントはどこだ、コラ」
「知らないってば。っていうか、なんで僕らに訊くの? ずーっとここにいたのにさ、わかるわけないじゃん」
「だよねー。それに、わたしたちが盗るならクイーンかトレイだよねえ。反応おもしろいよー」
「ひとくくりにしないでくださる……?」
 そんな面倒なこと、ジャックはしたくない。いくらでも丸めこめる後者はともかく、前者は絶対に御免だ。煙に負ける相手でもないし、怒ると色々と怖い。ケーキセットを1週間おごると言われても、断固として逃げきる。
 ナインは得心がいかない様子で首をひねった。
「俺のマントはどこ行ったんだ……?」
「っていうか、替えのマントはどこやったの?」
「あれが最後だ。全部破けた」
「ものは大切に使いましょうって、シンクちゃんはマザーに教わったよー?」
 ナインはぐっと詰まる。ごまかすという機能さえついていない彼は、開き直ることにしたらしい。腰に手を当て、ふんぞり返ってみせる。
「お、おう。だから、俺もマントを探してんだ」
「なんかむりやりー」
「ねー、ナインももぐりん描いてよー」
 シンクがナインの手にチョークを押しつける。なにをどうしてそんな思考にたどり着いたのか、ジャックにもいまいちわからない。
 ナインはもっとわからなかったのだろう。ひよチョコボが突然人語をしゃべり出した――しかもべらんめえ口調の罵詈雑言――瞬間を目撃したような顔で、シンクとチョークと黒板を交互に見た。
 その目が、黒板に釘付けになる。
「なんだこれ」
「もぐりんだよー。ジャックとわたしの力作ー」
「……嘘だろ」
「いやいや、ほんと」
 なおも納得がいかない様子のナインを、再度シンクが促す。ジャック作とシンク作の間に、ナインはチョークを措いた。
「こうか? いや、これか……?」
 ふたりのもぐりんにかぶりそうな勢いで輪郭を描いていく。
 見守るジャックは、頬が引きつるのを自覚した。ちらりとシンクを見やれば、あごに指先を当てて、ありんこでも観察するようにチョークの行く先を見つめている。
「これでどうだ!」
 咆哮じゃなくとも時間が止まった――気がする。
 自信満々に示されたのは、ものすごく大まかな曲線だった。正直、シンク作よりひどい。可能な限り好意的に解釈してみても、ピーナツのようにくびれたプリンだ。頭のぼんぼんはジャガイモのようにゆがんでいる。
 一番近いのは、半ばがくびれてねじれたサツマイモに、性悪なジャガイモをぶら下げた不思議生物だろうか。そこに、ボムの顔がついている。
「うわあ、なんかすごいねえ」
「……うん、すごいねえ」
 自作もぐりんの右下に、こっそり署名を入れておく。万が一誰かに見られたとして、右に並ぶふたつの作品のどちらかがジャックのものだと思われるのは、絶対に避けたい。いろいろ疑われそうな気がする。
 再び扉の開く音がした。今度こそ来たか、と半ば覚悟を決めて振り返る。
 だが、入ってきたのはトレイだった。自分のマントはちゃんと着けているのに、左手にマントを提げている。
「ああ、ここにいましたか」
 三様のもぐりんに一瞬だけひるむ様子を見せたが、トレイは断固として動揺を振り払い、階段を下りてくる。やっほーと手を振るシンクには、軽く手を上げて応えた。
 教壇の前で足を止めたトレイは、あきれたようにナインを見上げた。
「話を聞いていなかったのですか、ナイン」
「あぁ? なんの話だ、コラ」
「すぐに終わりますから部屋で待っていてくださいと言ったでしょう」
 なるほど、とジャックは内心で手を打った。
 どうやら、ナインはトレイにマントの修繕を頼んでいたらしい。それをすっかり忘れて、誰かに盗まれたと大騒ぎしていたというのが実情のようだ。もちろん、盗まれたわけでも、置き忘れたわけでもない。
(そこまで忘れるってどうなの……)
「もう少し丁寧に扱うべきですね。どうしたらあんな大穴を開けられるんです?」
 あきれたようにため息をつき、トレイはナインにマントを手渡した。ナインはマントをひったくる。その乱暴さに、トレイが軽く目を見はった。その向こうで、シンクが額に手を当てる。
 ナインは目の前で広げたマントをまじまじと見つめると、くわっと目を見開いた。
「てめえが盗ったのか!」
「また話を聞いてませんね」
「ていうか、ものすごい濡れ衣……」
「あぁ? なんのことだ、コラ!」
 マントを見た瞬間、頭がいっぱいになったらしい。いそいそとつける。
 トレイが頭痛をこらえるようにこめかみをもみほぐした。
「……ですから、私にマントを直せと言ったのは君でしょう?」
「そうか?」
 どこかにマントを引っかけた――どこかすら覚えていなかったらしい――ナインがトレイを見かけたのは、クリスタリウムだったらしい。これ幸いとトレイに修繕を頼んだが、さすがのトレイも、そのときは裁縫道具入れを持っていなかったようだ。
 直して部屋まで持って行くから待っていろと言われたにもかかわらず、ナインはそのことをすっかり忘れていたというのだから――もはや、あきれる気力さえわいてこない。
 トレイもそれは同じらしく、苦笑めいた影を口角に刻んだだけだった。
「ねー、トレイも描いてよ、もぐりん」
 それまで黙って見ていたシンクが、トレイの手にチョークを押しつけた。しかも右手に。
 右手をつかまえられ、手の中にチョークを入れられれば受け取るしかない。白く汚れたゆがけに、トレイががっくりと肩を落とす。
「シンク……」
「えー、ダメなの?」
「いえ……」
 ちょっと可哀想になってきた。
「これ、わたしたちが描いたんだよー」
 ナインは早々に戦線を離脱して、教卓に座っている。たぶん、教卓の上は土足厳禁だと思うが、注意すべきだろうか。放っておくことにする。
 チョークを左手に持ち替えたトレイが、念のため、といった様子で口を開いた。
「これ、モーグリですか? 全部?」
「もちろんだよー」
 気の毒そうなまなざしを向けられても困る。
 たぶん、ジャック作以外はモーグリと認識できなかったのだろう。横で見ていたジャックにさえそう見えないのだから仕方ない。作品の批評をしなかったのは、得意げなシンクと堂々と胸を張るナインが、さすがに可哀想だったからだろうか。
「トレイは頭いいしー、いろいろ覚えてるから上手だよねー?」
「インプットとアウトプットは違うんですよ」
 言いながらも、チョークを返すようなことはしなかった。
 トレイが選んだのは、ジャックの左隣だった。もぐりん2人分くらいのスペースしかないが、迷う様子もなくチョークを措く。少しずつチョークを回して、常に細いラインを保とうとするあたり、芸――だろうか――が細かい。
 迷う様子もなく一気に書き上げられたもぐりんは、実に見事なできばえだった。
 ただし。
「……小せえな」
「掌サイズだねえ」
「ぬいぐるみみたいだねえ」
 トレイのもぐりんは、掌を並べればすっかり隠れてしまうほど小さい。ジャックの描いたぼんぼんほどの大きさしかなかった。丁寧に描かれているのに、どこか味気ない印象を受けるのも不思議だ。ただの模写と言えばいいのだろうか――うまい表現が見当たらない。
(見た目はいいけど……薄味?)
 小さなもぐりんの足下に署名を入れ、トレイはチョークを置いた。
「これでいいですか?」
 端整な署名と、丸々としたもぐりんのギャップが妙に愛らしい。
 シンクが嬉しそうに挙手した。
「こうしてみると、家族みたいだねえ。わたしのもぐりんがおとーさんで、ナインのもぐりんがおかーさん。ジャックのもぐりんはおにーちゃんかなあ。トレイのもぐりんは、いもうとー」
 頬が引きつるのがわかる。トレイは沈黙しているが、ものすごく居心地悪そうだ。
 たぶん、この父と母からは、ジャックとトレイの描いたモーグリは生まれない。突然変異にもほどがある。チョコボからベヒーモスが生まれるようなものだ。
「もっといろいろ描いちゃおうかー」
「うーん、やめといたほうがいいんじゃないかなあ」
 級友たちがこんなベヒーモスもどきになるところは見たくない。
 シンクは残念そうにうつむいたが、なにかを思いついたように手を打つ。笑顔でナインに詰め寄った。
「ねーナイン」
「あぁ?」
「シンクちゃんは、フルーツパフェ食べたいなあ」
 時計が指し示すのは3時半過ぎ、昼食を食べたのは12時頃だ。
「……んで俺に言うんだよ?」
「だってー、わたしたちに濡れ衣着せたよねえ。おごってくれてもいいと思うよー」
「忘れただけだろ!」
 ジャックも乗っかってみることにした。うまくいけば、これ以上の被害者は出さずにすむかも知れない。
「忘れたにしても、濡れ衣着せたのに変わりはないじゃん。僕はロールケーキね」
 シンクを威嚇していたナインは、ぎょっとしたように振り返る。拳を固めたのは、ジャックなら殴っても勝てると思ったからだろうか。だが、こっちにはトレイがいる。なにかあったら彼に口を出してもらえば、たぶん負けない。
 シンクの興味をそらすのが目的だから、別におごってもらえなくても構わないし。
「ほらほら、トレイもー」
「いえ、私は……」
「もー、つきあい悪いよー。トレイはねえ……」
 シンクが酔っ払いのような勢いでトレイに絡む。がっしり捕まれた腕を取り返そうとひっそり努力するトレイが、なんだか可哀想に思えてくる。色々タイミングが悪かっただけなのに、まるで一味のような扱いだ。
「あーもう、うるせえ!」
 上着の裾をつかむシンクの手を引っぺがし、ナインが逃げ出した。跳ね返った扉が閉まるより速く、シンクが隙間に滑りこむ。クァールもびっくりの駿足だ。
 ジャックもすぐにあとを追った。トレイの腕をひったくり、さりげなく共犯にするのは忘れない。身長は負けてても、体力ならジャックが上だ。トレイは踏みとどまろうとしたようだったが、あっけなく引きずられる。
「ジャック!?」
「いいからいいからー。間が悪かったんだよ」
 抗議はすっぱり切り落とし、エントランスを駆け抜ける。周囲の視線もなんのその、先を行くふたりに追いついたときには、それぞれ武器を構えてにらみ合っているところだった。
 それも、他人様の教室に続く魔法陣の前で。姿を現した候補生が、ものすごく必死の形相で壁に張りついている。
 ジャックは迷うことなく回れ右を決行した。


 ジャックが黒板を放置してきたことに気がついたのは、シャワーを浴びているときだった。すでに夜、あのあと、誰も教室に行っていないとは考えにくい。
「まずいかなあ」
 つぶやいた拍子に、口の中にもりもりシャンプーが入ってきた。カニのように泡を吹きながら、慌てて口をゆすぐ。
 トレイに意見を訊こうかとも思ったが、それも面倒だ。
(まあいっか)
 そう結論を出す。もぐりんやクラサメが見たとしても、ジャックやトレイのもぐりんに悪意があると見なされることはないだろう。しっかり署名を入れてきてよかった。
 翌朝、もぐりんは教室には来なかった。クラサメによれば「とあるショッキングな出来事」で熱を出し、寝こんでしまったのだという。遅刻しかけたジャックが全力疾走で教室に飛びこんだとき、シンクとナインの姿はなかった。
 クラサメの冷たい一瞥に笑顔と敬礼で応え、定位置へと向かう。
 もちろん、ジャックとトレイにはなんのお咎めもなかった。

*  *  *

 ジャックの落書きネタ+甘い物好きネタを再び引っ張り出してみました(勝手なイメージ
 他のメンバーも出してあげたかったのですが、あまり多く詰めこみすぎるとさらに字数が多くなってしまうため、今回は4人。
 トレイがナチュラルに両利きになってしまった不思議。たぶん、汚れるのが嫌で、チョークは左手で持つようにしたのだと思います。