獣の気配は遠く、虫の声も間遠な森の中。
　廃屋の前で体をほぐすエイトは、ふつふつとこみ上げようとする不安と静かに戦っていた。
　ミリテス皇国都市部からの脱出は適ったものの、先は見えない。このまま朱雀と連絡がつかなければ、下手すれば山越えだ。追っ手の数は知れず、土地勘もない。朱雀側が零組の女王暗殺を真に受けていたとしたら、帰り着けたとしても安息はないのだ。
　マザーだけは信じてくれるだろうが、彼女にも大きな危険を背負わせることになってしまう。
（会いたいな……）
　弱気になっている場合じゃないと戒めても、母への思慕はふとした拍子に顔をのぞかせようとする。その気配を踏まないように、エイトはひたすら体を動かしているのだ。
　他の仲間たちも思い思いに過ごしているが、一様に疲れ切った顔をしている。見張りはセブンとナイン、見回ってくると言って出て行ったジャックとシンクはまだ戻らず、マキナもどこかへ姿をくらませたきりだ。女子の一部は廃屋に入って仮眠を取っているようだ。男子陣はたき火の周囲に残っている。
（事態が悪化しなければいいが……いや、俺もか）
　左手首がきしむように発熱している。逃走劇のさなかに突然現れた、番外者アッカドへの攻撃によるものだった。真っ先に攻撃されたトレイがかろうじてかわした瞬間と、槍ごとなぎ払われたナインを見た時は肝が冷えたが、幸い、ひとりの脱落者も出さずにすんだ。
　あの男は、いったい何者だったのか。殺戮に魅入られたような男の音の外れた笑い声が、むせ返るような血臭に混じってこびりついている。
（少し冷やした方がいいな）
　小屋の裏手には細い川が流れている。キングたちに声をかけ、エイトは小屋の裏へと向かう。
　そこには先客がいた。
「やあ、エイト」
　川辺で振り返ったのはトレイだった。差しこむ月の光に、濃い金髪が青白く輝いている。
「見張りには伝えたのか？」
「ええ。セブンにはあきれられましたが、こればかりはどうにもなりませんね」
　気持ちよさそうに眼を細め、トレイは微笑する。上着とマントを岩に掛け、上は黒いシャツ１枚きりだ。手巾に水を含ませ、汗と汚れをぬぐっている。首筋に光る水の筋が涼しげだった。
　この状況で身だしなみに気を使える神経に、エイトは感心した。不潔は最低だと公言するだけある。
「隣いいか」
「ええ、どうぞ」
　右隣に陣取り、エイトも背嚢から手巾を取り出した。水をたっぷり含ませ、左の手首に巻きつける。トレイはなにも言わなかった。すでに気づいていたのだろう。
「ここはどのあたりだろうな」
「北東に噴煙が見えますし、ロリカ同盟領の南部でしょうね。アルテマ弾で地形にもだいぶ影響が出ているようですが、火山の位置までは変わらないでしょう」
　昼間に比べて気温も恐ろしく下がっていたが、火山が近いせいか、夜半を過ぎても寒さは感じない。寒さによる行軍不能はなさそうだが、日中の灼熱に体力を奪われそうだ。
　背嚢の上でとぐろを巻く銀色に目が留まった。
「張り替えたのか？」
「新しい弦というのも不安ですが、いざというときに切れたのでは話になりませんからね」
「なにかあると思っているのか？」
「ないと考えるには、あまりにも不安材料が大きすぎます。玄武領を突っ切って北の回廊を抜けるにしても、山越えを決行するにしても、モンスターとの戦闘は免れないでしょう。君も聞いたのではないですか？」
「ああ……玄武のモンスターは凶暴化しているらしいな」
　不慣れな土地、不十分な装備で戦うことになる。エイトたちはまだいいが、マキナとレムにはつらいだろう。
　水に浸した手巾を絞り、トレイは左腕にあてがった。
「痛めたのか」
「ええ、少しね。とはいっても、痛みはほとんどありませんよ」
「見せてみろ」
　一瞬の逡巡――トレイは手巾を外し、左腕を見せた。
　エイトは息を呑む。喉の奥に痛みを感じた。
「平気なのか」
　左腕の肘上が変色していた。あざというレベルではない。青とも赤ともつかないまだらの色彩が、引き裂いたような鋭さでななめに駆け抜けていた。アッカドの剣先がかすめた痕だろう。
　これで痛くないなんて、信じられない。不審がにじんでいたのか、トレイはわずかに苦笑を閃かせた。
「信じられないでしょうが、弓を引くのに支障はありません。弦も自力で替えられたくらいですから。痛み止めの効果もあるとは思いますが」
　行軍に差し障るようなことで嘘はつかないだろう。
「かすっただけでこれか。ナインも攻撃を受けていたな」
「槍がかなり相殺したようですよ。ひとの糧食まで取ろうとしましたから、元気なのでしょう」
「……あいつ、何者だったんだろうな」
　執拗な追跡者は、皇国の人間でもお構いなしになぎ払っていた。あの男に正気があったとは思えない。
　指をあごに当て、トレイは考えこむ様子を見せた。眉間に不快そうなしわが入る。
「どうした？」
「蒼龍女王を死に至らしめたのがあの男、というのは勘繰りだと思いますか」
　返り血を浴びた鎧、簡単に金属をへし折った巨大な刃、欠損した理性――あり得ないとは思わないが、結論を下せるだけの判断材料もない。
　エイトは首を傾けて見せた。
「考え過ぎとは思わないが、結論は出せないな」
　皇国内で完全に追跡を振り切れたと信じたいところだ。あんなのに追いかけ回されながら、巨体を誇る獰猛なモンスターのたむろする旧同盟領を抜けるなんて、生きた心地がしない。
　零組の状態も万全とは言えないし、マキナの件もある。手詰まりというわけではないが、八方ふさがりと錯覚しそうになる。せめて、通信機がつながってくれれば――。
　ゆがけに右手を通しながら、トレイがぽつりと言った。
「会いたいですね……」
「マザーか。心配しているだろうな」
「可能な限りはやく帰らなければなりませんね。全員、無事で」
　横顔を見やれば、トレイの目は細い流れを見つめていた。
「明日は先導か」
　テーピングした左手を軽く曲げ伸ばしし、エイトは訊ねる。痛みもほとんど消えている。右をメインに使えば、戦いとなっても後れを取らずにすむだろう。
「そうなるでしょうね。うしろは任せましたよ、エイト。できればナインも連れて行ってください」
「無理だ。あいつが先陣を切らないなんて考えられない」
「……ですよね」
　背嚢を手に、エイトは立ち上がる。休めるときに休むのも重要なつとめだ。
「俺は戻る」
「私もすぐに戻ります。おやすみなさい、エイト」
「ああ。明日に影響を残すなよ」
　互いに軽く手を上げる。トレイをその場に残し、エイトはたき火へと戻った。
　セブンとキングが小声でなにかを話しているのが見える。傍らに立つナインは、豪快にまくり上げた裾から手を突っこみ、あくびしながら腹を掻いている。形よく割れた腹筋には、あのあざがうっすらと染みついていた。
　毛布をかぶったエースが姿勢良く眠っている隣で、切り株に座ったサイスはじっと炎を見つめている。
　火に当たっていたジャックが振り返った。シンクは廃屋に入ったのだろう。
「お帰り〜。マキナ探しに行ってたの？」
「裏にいた」
「裏？　なんで？」
「川が流れてる」
　ふーん、とよくわからない声が返る。シンクと同じく、状況をまったく悲観していない――ように見せているだけか、本心なのかは読めないが――ひとりだ。
　いつもと変わらずのらくらした姿が、少し頼もしく感じられる。
「おいてくこと、考えなきゃねえ」
　その口からこぼれたのはシビアな言葉だ。できればひとりも落としたくはなかったが、それもまた、選択肢のひとつであることに変わりはない。
　ひとつのために、すべてを落とすことは許されないのだから。
「……そうだな」
　マキナはまだ、戻らない。

＊　　＊　　＊

　第４章「決死圏脱出」後。
　追いかけてくるアッカドが怖くて、チャージもせずに矢を放ちまくった苦い思い出orz　画面のこちら側でもこれだけびびったんだから、彼らはもっと驚いただろうなあ。