学窓愉快/フォーゼ



 まずい、と思ったときには遅かった。
 急激に色を失った視界が揺れ、ぐにゃりとゆがんで溶け落ちる。気づいたときには、賢吾は膝をついていた。
「おい、賢吾!?」
 傾き揺らぐ視界の端で、弦太朗が豪快にテニスラケットを放り出した。勢いよくネットを飛び越えて駆け寄ってくる姿が、奇妙に遠い。水中のように音がねじ曲がる。幾重にもたわんで、頭の中をかき回した。
 呼吸が苦しい。胸の奥が重たい。全身の末梢が震えるほど冷たいのに、心臓だけが燃えるように熱かった。
 衝撃が突き抜け、倒れたのだと自覚する。
「名前で……呼ぶな……」
 かろうじてそれだけを言って、賢吾は意識を手放した。


 JKが教室に飛びこんできたのは、美羽が学食へ向かうべく立ち上がったときだった。
「大変大変、大変ですよ風城先輩! 部長!」
 ぎょっと振り返る3年生の群れにひるむことなく、JKは美羽の机までやってくる。本当に慌てているらしく、無駄にくるくる回ることもなかった。
「なんなのJK。そんなに大騒ぎして」
 JKは素早く周囲をうかがった。聞き耳を立てる者がいないか、警戒しているようだった。クラスメイトたちはJKの乱入から目を背けることにしたらしく、廊下へと出て行く。
 後ろの席のジュンがきょとんとこちらを見ていたが、先に行ってるね、と笑顔で立ち上がった。
 目配せひとつで最大限の謝意と友愛をジュンに贈り、美羽はJKに向き直る。
「で? なんなの?」
「それがですね」
 口元に手を当て、これでもかと顔をしかめたJKが顔を寄せてくる。いちいち芝居がかった仕草にも慣れた。ただし、近づきすぎた戒めに軽く額をこづいておく。
「倒れちゃったんですよ、賢吾先輩が!」
「あら、またなの?」
「またなんですけど。1時限目に倒れて、気絶したままらしいんですよ。大丈夫なんですかね」
 美羽はあごに指を当て、しばし思案する。
 仮面ライダー部部長として、賢吾の不調は見過ごせない。ラビットハッチの主は彼だし、フォーゼドライバーやアストロスイッチの管理者も賢吾だ。美羽たちも多少は扱えるようになったが、メンテナンスをできる人間は彼以外にはいない。宇宙オタクのユウキにすら理解できないのだから、門外漢の美羽たちにわかるはずもなかった。
 賢吾は――彼自身はかたくなに認めようとしないが――仮面ライダー部になくてはならない人材だ。
 倒れる頻度は確実に増えているが、こればかりは、容赦なくつっこんだところで白状しないだろう。
「行き先変更よ、JK。保健室に行くわ。はいこれ」
 JKに鞄を押しつけると、彼は目を白黒させる。
「えっ? これ、どうするんすか……?」
「保健室の先生には、私から話をつけるわ。だから、私のランチを買ってきてちょうだい。あと、病み上がりでも食べられるようなものを適当に見繕ってきて」
「えぇー……」
「あなたも、イチゴ牛乳くらいなら買っていいわよ」
「俺、コーヒー牛乳がいいです……」
「そう。コーヒー牛乳でもいいわよ。そうね、全員分買ってきてちょうだい。仮面ライダー部部長として、それくらいは出させてもらうわ。いいわね」
 はぁ、とわかったのかわからないのか煮え切らない返事をしながら、JKは耳たぶを引っ張った。
「あの、俺が見ちゃっていいんですか? 鞄の中……」
「当たり前じゃない。見られちゃ困るものなんて入れてないわ」
 その辺はもちろんぬかりない。もっとも、財布の中身には度肝を抜かれるかも知れないが。
 魅惑の微笑でJKの体を反転させ、美羽は廊下へ送り出した。


 サンドイッチの袋を胸に抱え、ユウキはこっそりと保健室を覗きこんだ。扉に職員不在のプレートはあったが、万が一ということもある。
 保健室の窓は薄く開けられていた。迷いこんだ風が、ベッドを仕切るカーテンを気まぐれに揺らしている。カーテンの向こうに膨らんだ布団が見えたが、それ以外には人の気配はなかった。
「大丈夫、弦ちゃん。先生いないよ」
「そうか。よし、入れユウキ!」
「がってん〜」
 カツ丼のトレイを持った弦太朗が最初に滑りこみ、次いでユウキが入る。迷ったが、鍵はかけないでおいた。サイドテーブルを勝手に引っ張り出す弦太朗を尻目に、ユウキはカーテンに近づく。
 聞こえる呼吸は落ち着いている。
「賢吾君、起きてる?」
 声をかけると、吐息に混じりに返事がある。
「ああ……」
「開けるよー?」
 カーテンを開けると、不機嫌そうに唇をゆがめる賢吾とばっちり目があった。とりあえず、笑顔でごまかしておく。
「黙っていれば出て行くと思ったが……」
 まだ本調子ではないらしい。憎まれ口も生彩を欠いている。
 さっそくカツ丼を食べ始めた弦太朗が、お箸をびしっと突きつけて立ち上がった。
「なに言ってんだ、賢吾。ダチじゃねえか!」
「名前で呼ぶな。それに、保健室でカツ丼を広げる理由になってない」
「弦ちゃん、今のはむりやり過ぎだよ」
「気にすんな」
 賢吾の眉間にくっきりと縦皺が刻まれる瞬間を、ユウキは見てしまった。体調の悪い人間をこれ以上刺激してどうする。
 弦太朗に、やめなよと身振りで伝えてみたが、なにをどう勘違いしたのか、友だち指さしまで繰り出してきた――手に負えない。おそるおそる賢吾を見やれば、今にも倒れそうな顔でため息をついている。
 本当に意識の彼岸へ渡ってしまいそうな顔色だ。
「もー、弦ちゃん……えぇ!?」
 弦太朗を振り返った瞬間、ユウキは素っ頓狂な声を上げた。扉の向こうに、にっこり笑顔の美羽の姿があったからだ。
 弦太朗がカツ丼を噴射した。
「ちょっと、弦ちゃん!」
「なにしてるの、弦太朗。先生にご迷惑がかかるでしょ」
 颯爽と足を踏み入れた美羽ににらまれ、弦太朗は縮こまった。なぜか机に常備されていたトイレットペーパーを手に、自由奔放に飛び散った米粒と格闘を始める。あれは時間がかかりそうだ。
 ユウキは手近なサイドテーブルを引っ張り出し、教師用の椅子を持ってきて美羽のために据えた。
「あら、ありがとう」
「先輩もお見舞いですか?」
「JKが知らせてくれたのよ。仮面ライダー部部長として、部員の面倒はみなくちゃね」
「……俺は部員じゃないし、仮面ライダー部なんてものも存在しない」
 全員一致で賢吾の発言は聞き流した。
 本人も、聞き入れられるとは思っていないだろう。魂がこぼれ落ちそうなほど深いため息をついただけだった。頭痛をこらえるように、こめかみをもみほぐしている。
 追い出そうとはしないのはあきらめきっているからかも知れない――でも、それだけではないと思う。歓迎の意志は少なからずあるはずだ。本当に追い出したいなら、手近なものを投げつけるくらいはする。容赦なく。
 枕はもちろん、鞄も攻撃力は高そうだし、アストロスイッチカバンの破壊力はきっと抜群だ。バガミールやポテチョキンを投げつけられても十分痛そうだし、命令権の最上位に位置するのは賢吾だ――間違いなく。うっかりするとパワーダイザーまで出動しかねない。
 美羽が艶然と微笑んだ。
「本当は嬉しいくせに、素直じゃないのね」
「……そんなはずないだろう」
「あら、全力で追い出さないのがいい証拠よね。私たちは賢吾君を見られて安心、賢吾君も元気になる。そういうことでしょ」
「……違う」
 語尾が弱々しくて説得力がない。
 ようやく片付けを終えた弦太朗が、にやにやと賢吾を振り返った。ユウキは止めに走るが、弦太朗が口を開く方がはやい。
「なんだ、ひとりで寂しかったのか」
「月面に放り出されたいか」
「ちーっす!」
 絶妙のタイミングで扉が開き、くるくると踊るようにJKがやって来た。視界の端に、ものすごく複雑そうな賢吾が映るが、ユウキはなんとかこの空気を変えたかった。
「JKが先輩に知らせてくれたのね」
「そりゃもう、仮面ライダー部の部長っすから」
「その部長命令はどうしたの?」
 美羽の言葉に、JKはポーズを決めて鞄を差しだした。
「もちろん、完璧っすよ」
 JKが鞄から取り出したのは、クラブサンドがふたつ、コーヒー牛乳が5本、栄養ドリンクが1本。クラブサンドの片方とコーヒー牛乳を賢吾に放り投げる。予告はなかったが、賢吾は見事にキャッチした。
 美羽が目をしばたたく。
「ちょっと待って。栄養ドリンクなんて頼んでないわよ? こんなもの賢吾君に飲ませたら、病院送りになりそうじゃない」
「いや、いくら俺でもそこまでは……」
「嫌だな、これは弦太朗先輩にですよ」
「んなまずいもんいるか! 第一、俺は健康だ。こんなもん必要ねえ」
「じゃあ、疲れたときにでも飲んでくださいよ、セ・ン・パイ」
 うわあ、と弦太朗が背を丸めた。げんなりした様子でカツ丼に向き直る。JKの発言のなにかがどこかに触れたらしい。なにがどうなっているのかは、ユウキにはさっぱりわからないが。
 そういえば、とJKは美羽を振り返る。
「保健の先生には話つけたんすか?」
「いらっしゃらなかったのよ。今日は外出されたみたい。先生が戻るまでに掃除しておけばいいんじゃないかしら」
 言い換えれば、大騒ぎのさなかに保健室の先生が戻ってくるのはまずいわけだ。
 カツ丼を頬張る弦太朗に、JKがちょっかいを出し始める。クラブサンドを優雅に召し上がる美羽はおかしそうに見守り、パイプ椅子に座ったユウキはサンドイッチをかじりながら彼らの様子を眺める。
 まるで、ラビットハッチにいるみたいだ。ユウキたちが大騒ぎして、美羽はその輪に加わったり離れたり。賢吾はマイペースを保ちながら、ユウキたちに常に気を配っている。
 ふと気づいた。
 眺めやる賢吾の口元が、わずかに緩んでいる。
「賢吾君、ちょっと嬉しそうだね」
 殺到する視線に、賢吾は動揺もあらわにそっぽを向いた。握りしめられたクラブサンドがひしゃげる。
「そんなことはない。君はなにを言ってるんだ」
「嬉しそうだよー。ほら、ちょっとほっぺが赤くなってる」
「いい加減にしろ!」
 わらわらと覗きこもうとするユウキたちの真ん中に、バガミールが投げつけられた。とっさにキャッチしたのは弦太朗だ――つまりは、弦太朗めがけてぶん投げたわけだが。
「照れるな照れるな」
 バガミールをお手玉しながら、弦太朗がにやにやした。
「そんなに俺を怒らせたいか……いいだろう。今度の試験勉強にはつきあわない!」
「えぇえー!? 勘弁してくれよ、賢吾! お前がいなきゃ、俺は留年だー……留年は青春の3大Rだ!」
 3大Rってなんだろう。ユウキは内心で首をかしげる。
(留年、り……留学? 違うか)
 適当に言っているだけかも知れない。
 そこで重要な事実に気がついた。壁掛け時計が示す時間――それは、授業開始5分前。
 ユウキは頭を抱えて叫んだ。
「あ、やばいー!」
 全員の視線が集中する。髪をかき混ぜながら、ユウキは壁掛け時計を指さした。
「もう授業始まっちゃうよ! ほら!」
 ベッドの賢吾以外の4人の視線が交錯し、意思疎通が図られる。その答えに行き着くのに3秒とかからなかった。
「悪い、賢吾!」
 弦太朗はバガミールを賢吾の手に押しつけ、力強く肩を叩いた。
「え、おい、如月!?」
「ごめんね、賢吾君! ほんっとごめん!」
「いやー、授業に遅れるとまずいんで」
「大丈夫、あなたなら切り抜けられるわ。期待してるわよ、賢吾君」
 一致団結した仮面ライダー部は強かった。コーヒー牛乳や栄養ドリンクを鞄に詰めこむと、疾風のごとく窓辺へと向かう。賢吾を残し、全員が窓から素早く撤退していった。
 泥棒もびっくりの早業だった。
「……嘘だろ」
 残された賢吾は呆然とつぶやくしかない。バガミールとポテチョキンを、かろうじて掛け布団に押しこむ。


 カツ丼やらクラブサンドの袋やらを前に、賢吾は頭を悩ませた。この状況をうまく切り抜ける方法が思いつかない。一番近い言い訳は台風一過だが、それで理解してくれると期待するのもおかしいだろう。
 結果、ラビットハッチに戻った賢吾が、美羽含め仮面ライダー部の部員全員をしかり飛ばしたのは言うまでもない。

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 初書きフォーゼ! 第7話前なので大文字はまだいません。いまいちお互いの呼び方がわからないのが不安ですorz
 3大Rはテキトーに言ってもらっただけなので、特に中身までは考えていません\(^o^)/