息吹く鬼、裁く鬼/響鬼



 高らかに響く疾風一閃。
 浄めの波動が、海からはい上がるバケガニを真っ正面から捉えた。鬼石で関節を砕き、旋風刃ではさみを破壊したのに、バケガニの闘志は衰えない。
 威吹鬼は全身を自らの血に染めてなお、揺るぎなく立っていた。はさみにえぐられ、溶解液で爛れた腕で烈風を支え続ける。
 この一撃で決める。もう、余力はない。
 風を押し広げ、威吹鬼を押しやり、深く高く展開される浄めの音。清冽な風に押されるようにバケガニは海へと転げ落ち――四散した。
 深くため息をつく。安堵からか、力が抜けた。座り込んでしまうと、もう立ち上がれない。よくなじんでいるはずの烈風さえ重くて、体の脇に手放した。
 ゆっくりと仰向けになる。視界に広がる黄昏の空。
 顔だけ変身解除し、ふうっと息をつく。死んだような空の色が、少し明るくなったように思えた。
 全身からあふれる血液。止めなければと思うのに、気力を集中させることすら難しい。深い傷口に溶解液を受けた。傷口など直視したくもない。正直、気力が圧倒的に足りなかった。
 少し眠りたい。
 切実に思った。だが、ここで眠れば体力が尽きてしまう。自然回復よりも、すり減っていく生命力の方が多い。確実に。
 何とか半身を起こし、深い傷口に気を集中させる。肩の傷がゆっくりと薄れ、消えた。肘の傷も、脇腹の大きな切り口も。足に受けた骨まで届くとさえ思えた傷も、とりあえずは消えた。
 痛みはこびりついて離れないし、傷口も隠せていないが、出血は止まった。
 まだこれだけ余力があったのだとおかしくなる。
 もう、限界だと何度も思ったのに。
 不意に、きしむような音が聞こえた。固く大地を咬むその音は、車のタイヤが発するものに間違いない。
 はっと振り返る。見えるのは岩ばかり。
 その音はイブキが身を寄せる岩の向こうで止まった。
 ドアの開く音がする。降りたのはおそらく男性。気配はふたつ。片方は少し軽くて、もう片方はよく鍛えられた隙のない足音をしている。
 自分の呼吸が邪魔で、そのふたりの息づかいが聞き取れない。年齢までは判断できない。
 隠れなければ、と思う。だが、どこに?
 竜巻はちょうど、車が止まったあたりに置いてある。今回は、オフのツーリング中に発生した突発的な浄めだから、テントなどももちろんない。
 ついでに言うなら、服の替えもない。
 重い体を引きずり、岩陰に隠れようとした瞬間。
「いませんね、イブキさん」
 几帳面そうな青年の声がした。
 イブキは耳を疑う。
「いないが……竜巻はここにある。このあたりで休んでいるのか、あるいは移動したか」
 答えたのは意志的な男性の声。どちらもひどく聞き覚えがあるものだ。
 だが、このふたりがなぜここにいるのか。
 疑問に思いながらも、岩の向こうに声をかける。
「サバキさん、石割君」
「イブキさん!?」
 岩を身軽に伝い降りてきたのは石割だった。眼鏡の奥の瞳に心配そうな色をたたえ、イブキの傷ついた手を取る。
「うわあ……だいぶひどいですね」
「少ししくじっちゃいまして」
「あーあ、もう……待っててくれても良かったんですよ、ぼくたちを」
 ねえ、と石割がサバキに同意を求める。ゆっくりと砂浜を踏みしめてやってきたサバキは、意志的な瞳を曇らせて大きくうなずいた。
 ズボンが汚れるのも構わず、砂に膝をつく。そうして、無言でイブキを立ち上がらせた。
「ちょっとサバキさん」
 烈風を拾い上げた石割が低く言う。
「けが人なんですから、ちゃんと気遣ってあげて下さい」
「分かってる」
 言って、サバキは苦笑した。
「信用がないな」
「当たり前でしょう! イブキさんはね、サバキさんよりもずっと細いんですから」
「……歩けるか?」
 有能なサポーターのどこか間違った言葉はさっくり聞き流し、気遣うように声を向けてくれる。
 イブキは無言の微笑で答え、歩き出した。砂の上は歩きにくいが、ゆっくりならば体もついてきてくれる。一歩ずつ踏みしめるように足を進めると、さりげなくサバキが左についた。
 左足を深くえぐられたこと、一目で見抜いたらしい。
「お二人は何でここに?」
「日菜佳ちゃんから聞いたんですよ」
 石割がてきぱき答える。
「イブキさんが突発でバケガニと戦ってるって聞いて、山を越えてきました。意外に近かったんですよ、ぼくたちの場所から」
「そうだったんですか。お疲れさまでした」
「あ、お疲れさまです」
 几帳面に言葉を返し、それから石割ははっとしたように首を激しく振る。
「お疲れなのはイブキさんでしょう!」
「でも、お二人も魔化魍退治をしてきたんですよね?」
「こちらは毎度おなじみヤマアラシですから!そんなに疲れてないですよ」
「倒したのは俺なんだが……」
 何だか申し訳なさそうにサバキは言った。今度は石割が無視する番。その唇が、細かいことを言うなと言わんばかりに少し歪んだ。
 イブキは密かに苦笑する。
 見守られるようにたどり着いたのは、ふたりが使う車の側。
 イブキに先んじて車にたどり着いた石割は、後部ドアを開け、てきぱきと服を引っ張り出した。
 戸惑っていると、サバキがそっと背を押してくれる。
「俺のだから丈は短いし幅は余ると思うが。それでうろつくわけにもいかないだろう?」
 言って、イブキの肩を軽く叩く。鬼としての漆黒の肌に包まれた腕を。
「そう……なんですけど」
「そばにお宿もとってありますから、一緒に行きましょう」
「でも……」
「いいんです。ぼくの親戚の家なんで。このあたり過疎なんで、若い人が来ると大喜びするんですよ」
 石割の言葉に、サバキは笑いをこらえるようにうなずいた。
「イブキなら大歓迎だな」
 首を傾げると、今度は石割が言う。
「イブキさんみたいな人が好きなんですよ、まちおばあちゃん。男女問わずに美人好き」
 何とも言えなくて、はあ、と曖昧に言葉を返すと、ふたりに車に押しこまれた。烈風は石割に取り上げられる。さっさと着替えろと言って、サバキは扉を閉めてしまう。準備はしておきますから、と、笑うような石割の声が滑りこんだ。
 気づかいをありがたく思いながらも広げた服は、確かに、どれもこれもサイズの合わないものばかりで。
 イブキはこっそりため息をついた。
 比較的サイズの合いそうなものを選んで体に当ててみたが、やはり幅は広すぎ、丈が短すぎる。こんなことならコートだけでも脱いでおくべきだったと思い、そんな暇もなかったことを思い出す。
 体格の違い。
 背が高く細身のイブキと、さほど長身ではないが鍛え上げられた肉体のサバキと。体格が違うから、回復力も違う。どれだけ痛めつけられてもすぐに立ち直れるサバキと、ダメージが残るイブキと。
 やっぱり敵わないのだなぁと、もう一度ため息をついた。

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 初期に書いた作品。鬼さんはみんな仲良しがいいです。