ああ我が安寧のひとときよ/奏組



 真っ黒な瞳が、まじろぎもせずにじっと見つめてくる。
 フリューゲルホルンを手に、源三郎は必死のにらみ合いを続けていた。いつもならば、庭で吹いていれば、すあまが袴にまとわりついてくるが、今日に限ってはそばにいなかった。笙にじゃれついているのを見たから、一緒にどこかへ行ったのだろう。
 もなかは部屋で寝ているし――窓を開けてくればよかった――かのこは走り込みに行った兄と一緒だ。
 よって、援軍は期待できない。
「そ、そんなに見つめてきても……」
 出だしで噛んだ。真っ黒な首が傾けられて、つややかな光沢を首元に宿す。
「これはあげないからね」
 かあ、とカラスが鳴いた。
 裏庭でフリューゲルホルンを吹いていた源三郎の前に、突如として舞い降りた一羽のカラスは、金色の輝きが気に入ってしまったらしい。周囲を飛び回り、足下を歩き回り、なにを思ったかベルに止まろうとした。手で追い払ったものの、カラスはあきらめなかった。数メートル先に舞い降りて、じっと見上げてきている。
 特に体の大きなカラスではなかったが、視線をそらしたら負ける気がした。
「あげないんだから、僕に用はないんじゃないの」
 ゴールドブラスのまばゆいベルが、やわらかな木漏れ日に気まぐれなきらめきを散らす。一生懸命に横顔を向けてくるカラスのひたむきな視線が怖い。
 なんでこんなにも固執するのだろう。光り物が好きとは知っていたが、まさか、人間が抱えているものをほしがるとは思わなかった。予想外にもほどがある。
「絶対にあげないから。ここにいたって仕方ないでしょ。どっか行けよ」
 あざとく首をかしげ、カラスは鳴く。甘えるような声音だ。跳ねるように近づいてくるカラスに、反射的にフリューゲルを抱えこむ。
「っていうか、あげたとしてもこんなの持って行けないだろ」
 くれるの、と言わんばかりに甲高く声が上がった。
 くらくらする。
 自分よりも大きな楽器を――しかも金管楽器を――くわえて飛べると本当に思っているのだろうか。マウスピースだけならともかく、飛び立つことすらできないのではないだろうか。くわえるにしてもどこをくわえるつもりだろう。
 答えはどうでもいいし、試してみたくもない。
 カラスはもらう気満々で跳ねている。
「だーかーらー! あげないって言ってるだろ! ああもう、これあげるからさっさとどっか行っちゃえよ!」
 練習の邪魔するなと金平糖を投げつければ、カラスは大慌てできらめく粒を回避した。芝生に散ったそれが食べられるものだとすぐに気がついたらしい。興奮したようにつばさを広げ、拾い集める。
 金平糖をくちばしに含んだカラスと目があった。笑顔じみた表情が見えた気がしたのは気のせいか――いや、きっと気のせいだ。カラスに笑われたとあってはいろいろなものにひびが入る。むしろ、笑われたと思えてしまったことに敗北感を覚えた。
「次に来ても絶対にあげないから。もう来ないでよね!」
 飛び去る瞬間、カラスはちらりと振り返った。
 これで勘弁してやるよ、とでも言いたげなまなざしに、ひどく腹が立つ。
(馬鹿にされたなんて、絶対に認めない……)
 抱えこんでいたフリューゲルホルンを左手に持ち、乱暴に髪をかき混ぜる。練習を続けられるような気分じゃない。
 場所を移そう。
(ほんと、ついてない)
 振り返った源三郎は自分を呪った。
 なぜ気がつかなかったのだろう。建物の影からのぞいている2色のまなざしに。カラスとの対峙に全霊を注ぎすぎたうかつさを、心の中でこっそりとののしる。
「……なにしてるの」
 ぎちぎちときしむ声をぶつければ、隠れていたふたりは堂々と目の前までやって来た。
「源三郎君がカラスとお話ししているところを見ていたであります。カラスとお話しできるなんて、自分、初めて知ったであります、感動でありますよ!」
「はぁ!?」
 絵画の乙女のように胸の前で両手を握りしめ、暮が迫ってくる。
「僕もカラスと話してみたいであります!」
「うむ、日本のカラスは楽器と金平糖があれば話をしてくれるのだな。実に興味深い!」
 メガネを押し上げ、トンデモ貴族――もといジオがうんうんと力強くうなずいた。
「あいにく、俺にはなにを言っているかわからなかったが……あれだけでカラスの言葉を理解できる日本人の感性はすばらしい! いや、すごいのは源三郎か」
 なんでもこうも紳士的で朗らかで明るくて、底抜けに天然なのだろう。ナナメに8度くらいずれている、気がする。
「……ジオの方がすごいと思うけど」
「いや、俺にはわからなかった。最後は源三郎に感謝していたと思うのだが、俺の解釈は間違っているだろうか?」
 きらきらと輝く瞳で問いかけてくるジオが、あらゆる意味でまぶしくて仕方がない。
「どう見たって馬鹿にしてただろ!」
「なんと! あのカラスは、俺たちの無知に気がついていたというのか!」
「なんでそうなるの!? 意味わかんないし!」
 カラスよりもこのふたりの方が厄介かも知れない。畑の手入れに来たルイスにさりげなく助け出されるまで――この状況から逃げ出せるなら、畑の手伝いくらいなんてことない――ひたすら質問攻めにされ続けた。
(外で練習するの、しばらくやめようかな……)
 もくもくと葉っぱを這う芋虫を眺め、源三郎は大きなため息をこぼした。どっと疲れた。

 その背を見つめるルイスの、見守るような慈愛に満ちたまなざしには、もちろん気がつかなかった。


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 pixivに6月27日にup。DAMに「円舞曲、君に」「前奏曲 プレリュード」が配信された記念でした! キャラソンも全員分入ったし、なるべく早めに加集も出してあげたいところ。