不安のせせらぎ/奏組



 うららかな昼下がり、中庭の日陰のベンチに源三郎を見つけたのは、襟戸捕獲作戦の任務中だった。
「あれ? 源三郎君だ」
 このまま襟戸を探すか、源三郎に構うか。加集は悩むことすらせずに、作戦続行を放棄した。ジオが襟戸をつかまえるのは時間の問題だろう。あと10分も逃げ切れればたいしたものだ。
 だから、加集が特に必要ということもないだろう。かけずり回っている暮や昌平たちには悪いが、難しい顔で本を読む源三郎を構う方が、よほど面白そうだ。
 こそこそと数メートルの距離まで近づいたが、源三郎は振り返らなかった。集中しているのもあるだろうが、加集に半ば背を向ける姿勢だからというのも大きいだろう。木漏れ日の落ちる丸い頬にまつわる髪を、煩わしげに耳にかけた。難しい顔をして、膝に乗せた分厚い辞書を繰る。
(えっあれ何語……?)
 日本語どころか、英語ですらなさそうだ。頻繁な改行で短い文章が連なっているから、物語や論文ではないだろう。
「源三郎君、なに読んでんの?」
 加集がうしろから覗きこむと、源三郎の肩が小さく跳ねた。ため息とともに振り返った源三郎は、さも嫌そうな顔をしている。
「邪魔しないでくれない?」
「いやー、なに読んでるのかと思ってさ。で、それなに? 俺、ぜんっぜん読めない」
 再びため息をつかれたが、今度はあまり悪いものでもなさそうだ。軽い音を立てて本が閉じられる。暗い緑色の、品のある革装丁の本だ。箔押しされたタイトルも、もちろん読めない。
 読んでみる?とでも言いたげに差しだされたが、恐れ多くて手に取ることすらできなかった。
「スペイン語。あんまりわかんないけど」
「なんですとー!? スペイン語!? なんでそんなの読んでんの!?」
「ルイスからの宿題だよ。これができなきゃ、今夜の見廻りはジオと兄さんと一緒」
 それはさぞかし大変だろう。体力の有り余った源二はうっかりするとコースを外れるし、ジオは源二以上に自由奔放で、ルイスでも抑えが効かないことが多いと聞いたことがある。
 うんざりと眉をひそめる源三郎の肩を、同情をこめて軽く叩いた。
 兄ひとりでも手に余るだろうに、あのトンデモ貴族まで押しつけられたりしたら、源三郎の堪忍袋の緒は切れっぱなしになりかねない。
 源三郎を押しのけるようにして隣に腰を下ろすと、しぶしぶながら場所を空けてくれた。気分転換がしたかったのかも知れない。
「なんでスペイン語が宿題なのかが、よくわかんないんだけど。これさ、小説じゃないでしょ? なに?」
「見てわかんないの? 詩だよ。だから余計わかんないんだよね」
「うん、まあ、それでも読めてるあたり、頭の中身が違うんだなーとは思うけどさ。スペイン語のお勉強とか、むちゃくちゃだって思わないの?」
「別に、1冊丸ごとじゃないし」
 これだけではあまりだと思ったのか、少し早口でつけ足した。
「兄さんとジオと見回りに行くのが嫌ってわけじゃないからね。疲れるのが嫌ってだけだよ」
「お前らも大変だよなー。あーあ、俺らにも霊音があったらなー、ちょっとは役に立てるんだろうけどな。ま、あったらあったで大変だよな」
「霊音がなかったら、僕はここにはいないけどね。たぶん」
 源三郎の口調はいつもと変わらなかったが、突っついてはいけない話題だと直感した。さして勘のいい方でもないし、霊力など常人よりは多少高い程度だが、それでもわかることはある。たとえば、普段よりも少しだけ色の濃くなった瞳とか。唇の両端に微かに影が刻まれているとか。
 沈黙の川が横たわる。ゆっくりと足をばたつかせていると、源三郎が怪訝そうに見上げてきた。
「なんか用があるんじゃないの?」
「いやー別にない」
 加集が素直に答えれば、源三郎は飛び立つ鳥のように立ち上がった。
「はぁ!? 用もないのに邪魔したってわけ!?」
「いやー、襟戸捕獲作戦にかり出されちゃってさ。それも意味わかんないじゃん?」
「……シャツ何日目?」
「さー? ちょっと前に4日目って言ってたのは覚えてるけど」
 意図的に日数は忘れることにしている。
 ものすごく同情めいた視線を向けられてしまった。無言だからこそ、ひしひしと伝わってくる気がする。その気持ちは、ありがたく頂くことにした。
 使用記録を伸ばし続ける男は、今頃、ジオにとっつかまっている頃だろう。もしかしたら、洗濯室に連行されているかも知れない。迷惑きわまりない「努力の結晶」の使用日数が、ようやくリセットされそうだ。寒いのを我慢して窓を開けて眠る夜とも、しばしのお別れ。
 源三郎が座り直すと、微かにベンチがきしむ。
「シャツ着っぱなしで努力の証とか、意味わかんない。蒸気洗濯機があるんだから、毎日でも洗濯してもらえば気持ちいいじゃない」
 洗濯すれば、と言わないのが源三郎だ。毎朝毎朝、バラの香りを漂わせながら、トンデモ貴族が洗濯物を回収に来るからだろう。のんびり眠っていたい朝にさえ容赦なく受け取りに来るのは、少しやめてほしい。
 すあまあたりがいたずらする可能性もあるから、前夜に廊下に出しておくこともできないし。
「まあねえ、その辺は……襟戸君のすることだし?」
「なにそれ」
「俺らじゃわかんないってこと」
「わかりたくもないけどね」
「まあさー、襟戸君は、自分にも他人にもちゃんとわかる努力の結晶がほしいんじゃない? それを洗濯しない方向に持って行くのは困るけどさ。まー、もしかしたらさ、俺らが気づいてぎゃんぎゃん言うのが楽しいってのもあるかもだけど」
「努力……」
 不意に顔が背けられた。興味をなくしたとかあきれかえったというよりは、なにか別のことに気を取られた風情だ。落とし物を見つけたように地面に落とされた視線が、なにかの輪郭をなぞるようにじわじわと空へと向けられる。
 加集も空を仰いだ。淡い青色の空と薄く刷いた白い雲が、木の葉の向こうに透けている。もうそろそろ、冬が来る。
 ぽつりと源三郎がつぶやいた。
「勉強、嫌いじゃないし」
 唐突ではあったが、理解は追いついてくれた。嫌いじゃない、ということは、かなり好きだということだ。それくらいは加集にもわかる。
 空を見上げたまま、源三郎は言葉を続けた。ゆっくりとまばたきをすると、涙の膜が張ったような瞳の中で、あざやかな空が揺れる。
「いちばんやりたかったのって勉強だから。学校も行ってなかったし」
「楽しいんだ?」
 にやにやと聞けば、我に返ったように詰まった。振り向いた源三郎の耳が赤い。拳が握りしめられた瞬間、さっとその腕をとった。大慌てで加集を引きはがそうとするのを地道にかわして、しっかりついて行く。
「この前はジオだっただろ? ドイツ語習ってたのか?」
「アポロニア学園のテキストで、わからないところがあったんだよ! 悔しいでしょ!」
「その前はヒューゴだっけ?」
「……辞書になかったから聞いただけ!」
「で?」
 ついにふりほどかれた。地団駄を踏みながら癇性に叫ぶ。
「怒られたんだけど! なんで!? 聞いただけで怒るとか、わけわかんない!」
「あー、なんか聞いちゃいけなかったんじゃない? すんごい下品な言葉とかさー」
 源三郎が固まった。心なしか青ざめているのは、ヒューゴの反応に思い当たるところがあったからか。どこにそんな本がしまってあったのかわからないが、あまりぎりぎりな内容のものは置かないでほしい。
 笙の趣味だったりしたらどうしよう。
「おや、めずらしく仲良しですね」
 淡く風が吹き抜ける。
 源三郎が不本意そうに唇をとがらせ、背後を振り返った。
 くすくすと笑いながら、ルイスが歩み寄ってくる。包みこむようなやわらかなまなざしに、不意に故郷の母を思い出した。
「別にめずらしくもないんじゃない?」
「そうそう、仲いいよなあ、俺ら」
「調子に乗るんじゃないよっ!」
 肩を組んだらあっさり振り払われた。まったく、素直じゃない子どもは扱いが難しい。とはいっても、耳は真っ赤なままだから色々だだ漏れだが。むりやり腕を組みにいけば、今度は拒まなかった。嫌々です、と全身で表すようにそっぽを向きながらも、手をふりほどきはしない。
 ルイスの手が伸びて、源三郎の髪からなにかをつまみ上げた。木の葉だ。風に放してやってから、ルイスは源三郎の顔を覗きこんだ。
「問題は解けましたか、源三郎君?」
 源三郎は挑戦的に首を傾けた。強気に唇の両端を持ち上げる。
「『あらゆることは、我慢強く待っているひとのところに来る』、どう?」
 源三郎の柔らかな髪に、ルイスの掌が軟着陸した。目をまん丸くするのも構わずに、幼い子どもをあやすように優しく撫でる。
「正解、ということにしておきましょうか」
 ぽかんとしていた源三郎は、我に返ったように目をしばたたいた。掌から遠ざかるように少しあごを引いて、ルイスを見上げる。
「だったら、今日は……」
「代わりにヒューゴが組んでくれるそうですよ」
 朗らかにルイスが言い放ったその瞬間の源三郎の顔は見物だった。

 かなで寮を出ていくヒューゴたちの姿を見た気がして、加集は階段を上る足を止めた。
 夜の暗闇によく目を凝らすと、門扉のそばに人影を見つけた。ヒューゴと源三郎だ。それぞれ武器を手にし、なにかを話し合っている様子だった。やや腰の引けている源三郎がなにかを訴え、ヒューゴは腕を組んでじっと見下ろしている。
 ように、見える。
「見廻りか……」
 明日は公演があるというのに。心の底から頭が下がる思いだ。
 源三郎がなにかを指さすような仕草を繰り返す。遠目の薄明かりの中でも、表情が硬いことは見て取れた。ヒューゴの表情は見えないが、間違いなくいつもの仏頂面だろう。夜の暗がりと蒸気灯の明かりに染まる金髪が小さく上下すると、源三郎が微かに首を傾けた。
 おそらく、笑ったのだ。硬かった源三郎の仕草が、明らかになめらかになる。
 その体格差が、いやに目についた。
 年齢差は5歳だが、身長差はたったの5センチ。そうと思えないのは、大人の男として完成された肉体を持つヒューゴと比べて、未だ頬も丸い源三郎がどこからどう見ても途上の少年でしかないからか。
 並んで出て行くふたりは、振り返りもしない。足早に歩むヒューゴに対して、やや小走りで源三郎がついて行く。
(本当にあのふたりなんだな……。ルイスは源二か?)
 単独行動はヒューゴの独壇場だったが、最近では、ジオとルイスもひとりで見廻りをすることがあった。年長組――年齢的に、ジオをここに加えていいのかは悩むところだが――は、近頃そういうことも多いようだ。ふたりひと組を貫けないほど、変則的な魔精卵の発生が続いていると聞いている。
 今回、源三郎との同道を、ヒューゴは自ら言い出したのだろうか。
 かたん、と窓が頼りなく鳴った。乾いた木を打ち合わせるような、どこか不吉な音。それはまるで、棺の蓋を閉めるような。
 いても立ってもいられず、加集は階段を駆け上がる。テラスへと飛び出すと、すでに見えなくなってしまった背中へ向けて、両手を高く掲げた。
「無事に、帰って来いよ」
 仮想の火打ち石を、音高らかに、切る。


*  *  *


 なんの盛り上がりもなく、だらだらと遊んでいる源三郎と歌集を書きたかった!
 薫風のセレナーデ公演前にかき上げたかったけど、無理でした\(^o^)/
 デノンマンサーがらみの、ものすごーくどろどろしたえぐい話もそのうち書きたいところ。奏組の可愛さに撃沈されっぱなしです。薫風のセレナーデを観に行って、ますます奏組が好きになった!!