花を残す/奏組



 雨が降っていた。篠突くような激しいものではなく、花冷えにありがちな、体にまとわりつき体温を奪うような、じっとりとした冷たい雨だった。
 目元にまつわる雨粒を振り払い、ヒューゴは駆ける。人気が少ないのが幸いか。ぬかるんだ足下は何度も靴底を捕らえようとするが、踏みとどまり、ひたすら走り続ける。裾が泥だらけになるとか、血だらけ傷だらけでひどい様相だとか、抜き身の剣を下げたままだとか、考えている暇はない。
(早く、早く……!)
 熱を持った右足首が、着地のたびに全身をきしませた。
 腹に残る血の跡が熱くて息苦しくて仕方がない。重く雨を含んだシャツが張りつき、体はまともに動かない。
 それでもヒューゴは走った。
 血のしみが消え去る前にたどり着けなければ――この雨に、おぼれそうだ。
『それで? 剣しか持ってないあんたが、あれと接近戦やるの?』
 近接戦には一切向かない和弓と、指の数にも満たない矢を持ってその場に残った少年の、振り返りもしない後ろ姿が瞼裏に焼きついている。
(あんな子どもをひとりで残らせるなど、冗談じゃない!)
 だが、現実に、ヒューゴはひとりだ。源三郎も、ただひとり。


 降魔だった。さほど体躯が大きなわけでもなく、腐るような邪気をたたえるわけでもなく、大量に発生したわけでもない、群れからはぐれたような、猫くらいの体格の小さな数匹。ヒューゴの剣で十分斬り捨てられそうな降魔だった。
 問題は、発煙筒を彼らに破壊されてしまったこと。不注意だったとは思わない。
 ヒューゴが廃墟と化した屋敷の庭に足を踏み入れたとき、ただひとり降魔と相対していた源三郎の発煙筒も、無残に噛み砕かれていたからだ。
 彼らはそういう性質を持つのだろう。源三郎の警告が遅かったのは事実だが、降魔が首元に食いついていたことを差し引いて考慮する必要がある。源三郎の体力は、もともと十分とは言えない。腕力とわずかな霊力で引きはがすには、彼には荷が勝ちすぎただけの話だ。
「厄介な降魔だ」
 割れた発煙筒を踏みつけ、剣を抜いた。下からすくい上げるように降魔を切り裂き、鋭い顎から源三郎を解き放つ。幸い、降魔の牙は動脈には届かなかったようだ。源三郎から引き抜いた下顎の先端が、水たまりの中で未練がましく開閉する。
「近づいたら噛みつかれるよ。そいつ、血が好きみたい」
 袂を引き裂き、首を覆った源三郎は、妙に冷えた声でそう言った。
「大丈夫か」
「馬鹿なの? これで平気に見えるわけ?」
「すぐに助けを呼ぶべきだった」
「行けたら行ってる! 僕だって戦いたくなかったよ、こんなのと、ひとりで!」
 癇性に叫び、青ざめる。
 左足はぬめりを帯びた糸に呑まれ、地面に縫いつけられていた。叫んだ瞬間に無意識に動かしたのだろう、一糸が深く食いこんでいた。鮮血がじわりとにじむ。
 もし、巡回中のヒューゴが瘴気に気がつかなければ。
 源三郎は人知れず降魔の餌食になっていたのか。
 怖気を震うような空想だった。そして、この先、現実となるかも知れない光景だった。
「すぐに外す」
 振り下ろした剣は、硬い音を立ててはじき返された。源三郎が息を呑む。
 彼を見やれば、ひどく傷ついたような目でヒューゴを見つめていた。
「逃げることも考えつかない子どもって思った?」
「……いや」
 矢では歯が立たなかっただろうと考えただけだ。
 言葉は続けられなかった。源三郎が弓を構える。弓弦が鈍く雨を揺るがし、放たれた矢が銀幕にも似た雨粒を引き裂いた。樹上に逃れる降魔を間一髪で捕らえ、塵も残さず消滅させる。
「ねえ」
「なんだ?」
 飛び離れた降魔の群れを睥睨し、ヒューゴは内心で舌打ちした。
 源三郎は動けない。ヒューゴは下手に近づけない。共倒れの可能性が脳裏をかすめた。
「誰か呼んできてよ」
「…………」
「僕が呼びに行けると思うの? この足、かなり時間かかるけど」
「……そうだな」
「僕に死ねって? それともあんたが?」
 腹の底に燠火を放りこまれたような感覚。頭に血が上る自覚はあった。だが、まさか、源三郎の胸ぐらをつかんで揺さぶるなんて真似をするつもりはなかった。
 子どもで、けが人で、同僚だ。
 我に返ったヒューゴはすぐに手を離した。
 再び弓を構えながら、忌々しげに源三郎は言った。口元に微かな血がにじむ。
「けがしてて、足も遅いし体力ない僕を救援見つかるまで走らせて、こんなわかりにくいところまで案内して戻ってこいって?」
「……いや」
「それで? 剣しか持ってないあんたが、あれと接近戦やるの?」
「そう、だな。反対か」
 うなずいた源三郎の眼光には、奇妙なほど色がなかった。
 ルイスならひとりで残すことに抵抗は少なかったかも知れない。彼なら、自力でもある程度なんとかできるだろう。
 だが、源三郎は子どもだ。体力的に不安があり、遠距離の刺突系に特化した霊力を持つ少年だ。近づけば噛みつかれる降魔に足を捕らわれ、その場から逃れられない状態で、どれほどの時間を耐え抜けるのか。
 連射は精密さを損なうのに。逃げることもかなわないのに。
 死の気配は色鮮やかに影を彩り、降魔は隙を渇望して喉を見上げる。
 残したくはなかった。
 残すしかなかった。


 ジオがメガネのブリッジを押し上げる。
「ふむ……聞いていた状況とはずいぶんと違うな」
 ヒューゴは無言を通した。
 ルイスに抱き上げられた源三郎の青ざめた頬、力なく揺れる汚れた指先、血まみれの左足。指先から鮮血の混じった水滴が落ち、ルイスの膝に跳ねて色を残した。
 折れた弓を手に、源二は矢を拾い集めている。
 優雅に歩み寄ったジオが、ルイスに傘を差し掛けた。みすみる濡れそぼつ肩を気に留める様子もなく、固くまぶたを閉ざした源三郎を覗きこむ仕草を見せる。彼をくるむルイスのジャケットをわずかに持ち上げ、傷を確認したようだった。
「状態は?」
「あまりよくありませんね」
「そのようだ。車をつかまえるかね?」
「説明できません。急いで連れて帰りましょう」
「了解した」
 源二に声をかけることもなく、二人は足早に歩き出す。すれ違い様にルイスが視線を寄越したが、その意味するところはわからなかった。
 落ちている矢をすべて拾って、折れた矢も矢筒に落として、ようやく源二が動きを止めた。のろのろと振り返る。その目がわずかに見開かれた。視線がヒューゴの腹のあたりに固定される。
「源三郎はひとりだったって言った」
 快活な声がきしむ。
 ヒューゴは拳を腹に押し当てた。まだ、血の跡は残っている。
「いたんだな、ヒューゴ」
「……ああ。助けを呼びに」
「入院だろうってさ」
 事実だけを告げる声に、ヒューゴを責める色合いはなかった。困ったように眉根を寄せ、首を傾ける。
「瘴気をだいぶ吸ってるってさ。あんなケガだし、体も冷えてて危ないって」
 弓を握る指が、矢筒のベルトをつかむ手が、真っ白だった。
「うるさくてさ、性格悪くて、口も悪くて、ガキで」
「…………」
「なにかあればちびとか食欲だけとか、後先考えないとか。可愛くねえけど、弟だからさ」
 ついと目がそらされる。頬を伝う雨滴を涙と錯覚した。
「ずっとそばにいてやるって、守ってやるって……約束……」
 右手の小指を見つめる源二の姿に、砲火に散った母と姉の姿が重なる。彼女たちのいまわの笑顔が、胸の中心を貫いた。


*  *  *


 舞台「サクラ大戦奏組〜雅なるハーモニー〜」観賞し、興奮冷めやらぬまま書いてみました。サクラの世界に舞い戻りそうです……。
 音子ちゃん加入前のおはなし。いちおうオールキャラ……? 暗い!
 キャラをつかみきれないまま書くとこうなるorz