君と君とのハルモニア3/奏組 公園で秋奈と別れ――男は放っておいた。完全に人間に戻っていたようだし、目を覚ましたら自力で帰るだろう――音子の手を借りながら、なんとか暗くなる前にかなで寮へとたどり着く。 「ほんと……死ぬかと思った……」 「お疲れさま。すごかったよ、源三郎君」 「音子がいなかったら危なかったよ」 「そんなことない。あの男の人も無事だったし、本当によかった」 実のところ、あの男を2回くらい蹴っても罰は当たらないと思っている。実行はしない。 夜の気配は大きくつばさを広げていたが、空にはかろうじて赤色が残っている。まだ夕方と言える時間帯、だと思いたい。 サロンの円卓にはルイスたち大人組が座り、壁際には源二と襟戸が立っている。源二たちは内緒話でもしていた様子で肩をすくめた。 「おふたりとも、お帰りなさい」 真っ先に出迎えてくれたのはルイスだった。穏やかな面差しを曇らせて駆け寄ってくる。音子から源三郎を受け取り、椅子に座るのに手を貸してくれた。べったりとテーブルに頬をつけると、あたたかくて大きな掌がそっと背をなでる。 こわばった筋肉が、少しほぐれた気がした。 「大変でしたね、源三郎君」 その声に、ねぎらいよりも同情を感じたのはなぜだろう。やわらかな瞳をじっと見上げるが、内心を推し量ることはできなかった。 「すぐに手当てをしましょう」 手際よく救急箱の用意を始める。こんなところで脱ぎたくないし、どちらかというと医務室に行きたいぐらいだったが、報告を済ませてからに決めた。 「大変だったようだな」 ジオがうんうんとうなずいた。 「源三郎もなかなかやるではないか」 「……ひとりで死ぬかと思ったけどね」 称賛は照れくさいもののはずだ。だが、なにかよくわからないものが挟まっている気がして、素直に照れることさえできない。違和感の正体を探そうとジオを見つめるが、天然貴族はすぐに紅茶に向き直ってしまった。 けが人よりティータイムが大事か。 そばにやってきたのはヒューゴだった。楽器ケースをいささか強く引き寄せ――抗議したかったが、なぜか目が怖かった――心配そうに検分をはじめる。 「まったく、馬鹿な真似ををする」 「好きでしたんじゃないし!」 「けどなあ、源三郎」 あやすように覗きこんでくる源二が、なだめるように頭をなでた。なにかがおかしいのに、正体がわからない。 「自業自得だろ」 耳を疑った。仕事帰りに金平糖を買いに行こうとしただけだ。とりつかれた男に襲われて、全身ぼこぼこにされるほど悪いこととは思えない。まかり通るなら、どんな自業自得だ。 「はぁ!? なにそれ! 僕が悪いことしたみたいじゃん!」 「またまたー」 壁際を離れた襟戸が笑う。にやにやと、下世話な雰囲気で。 とてつもなく嫌な予感がした。張りついていた天板から身を起こす。 「音子ちゃんというものがありながら、浮気しかけたお前が悪い。なっ?」 音子が飛び上がる気配がする。 源三郎はぽかんと口を開けて襟戸を見上げた。言葉の意味が浸透するのに、ひどく時間がかかった。じわじわと衝撃が這い上がる。 「な、なに馬鹿言ってんの!? ちっがうし!」 源三郎のマウスピースにためらいなく唇を当てた音子の姿を思い出して、頭の中が沸騰する。きっと真っ赤だろうが、構ってはいられない。誤解を解いて、不名誉を晴らさねば。 ばんばんとテーブルを叩く。 「なんだよ浮気って! そんなことしないし! っていうか、なんで音子が僕とつきあってる前提なの!?」 「まぁたまたー」 「またまたじゃない!」 このめまいは怒りか貧血か、あるいは疲労か。がっくりと座りこんだ源三郎の頭上で、襟戸が好き勝手にべらべらとしゃべり出した。 「いやあさ、神社の前を通りかかったらさ、こいつがすごい美女と話しこんでるんだよ。ソーダ買ってやったり……」 「そんなところから見てたの!? 最低だ……」 「きゃっきゃと笑ってたりなあ……うらやましい! しーかーも、美女に掌ふーふーされたり、もうさ、声もかけられない感じ?」 (かける気なんかなかっただろ!) 降り積もる生暖かい視線――ものすごく突き刺さるまなざしも混じっていたが、どれが誰のものかなんて考えたくもなかった――に耐えられない。いっそどこかに埋まりたかった。顔も上げられない。 「俺はそこで帰っちまったけどな。で、源三郎の現状から察するに、こうだ」 弁士のようにもったいをつけ、襟戸は声を張り上げる。なまじいい声なだけに、さらに腹が立つ。 「いい雰囲気の美女と源三郎。そこに現われたのは、源三郎といい人同士の音子ちゃん! 焦る源三郎! 『違う、誤解だ!』『誤解ってなによ、源三郎君の馬鹿!』『あんたがこの子のいい人かい?』『そうですけど!』『今日から、あたしがこの子のいい人さ。子猫ちゃんはお家に帰りな』『なんですって、源三郎君はあなたなんかに渡さないわ!』――」 とうとうと垂れ流される襟戸劇場に、最後の気力まで持って行かれた。 彼によると、源三郎は音子の「かわいらしい」焼き餅によってぽかぽかと叩かれ、あざやら切り傷やらをこしらえているらしい。 ぽかぽか程度で青あざと切り傷を大量生産するなんて、どんな攻撃力だ。焼き餅でここまでずたぼろにされてはたまらない。むしろ、音子が源三郎をぼこぼこにするという構図が思いつかない。逆もあんまり想像できないが。 「でも、心優しい音子ちゃんは、源三郎をちゃーんとここまで支えて帰ってきたってわけだ。くーっ! うらやましいねえ、この色男!」 「どこが! 捏造にもほどがあるよ、馬っ鹿じゃないの!?」 よくも、そんな根拠のない妄想ばかりをぐだぐだと並べ立てられたものだ。舌を引っこ抜いてやりたい。殴りかかりたいくらいだが、今の源三郎にはテーブルクロスがお友だちだ。音子はもちろん、兄やヒューゴの顔も怖くて見たくない。 あとで絶対に殴る。いや、蹴る。顔を伏せたまま、心に決めた。 「源三郎君」 その声に、強制的に顔を上げさせられる。声の主はといえば、直視したくもないような笑顔を浮かべた音子だった。目元に明らかな怒気を浮かべ、それでいて口元は穏やかに笑みを刷き、視界いっぱいに迫ってくる。 椅子から転がり落ちるようにして壁際に逃げたが、音子はしっかりついてきた。手首をつかまれる。 「な、なんなの?」 「掌ふーふーって、なあに?」 子どもをあやすような口調が怖い。 「あ、あいつがお礼なんて言おうとするから止めただけ! そしたら掌に……」 恥も外聞もなく悲鳴を上げ、源三郎は飛び上がった。手首をがっちりと固定した音子が、掌に息を吹きかけてきたのだ。あわあわと引きはがそうとするが、彼女の手を傷つけそうで強行できない。 「こんな感じ?」 かわいらしく首をかしげて覗きこんでくる。指先があざの中心をえぐっているが、たぶん気づいていない。 ろくに覚えてもいないが、逃げたい一心でがくがくとうなずいた。 「ぜーんぶ説明してもらいます!」 「なにを!? なんで僕が!?」 「なんでも!」 はい、とうなだれる。 無駄にさわやかな笑みを浮かべ――だが、シャツから漂うのは危険な味噌のにおいだ――襟戸が肩を叩いてくる。 「ははは、大変だな、青少年。うらやましい……」 「大変にしたのはあんたじゃないか!」 そうだ、こいつが悪い。勝手な妄想など作り上げてくれるから、よくわからないが音子は怒り、源三郎は状況不明な窮地に追いやられ、兄たちはにやにやと見守る体勢に入っているのだ。 とにかく、襟戸が悪い。 「襟戸……」 「うん?」 「馬鹿な濡れ衣ばっか着せて、絶対に許さないから! あんたごと洗濯してやる!」 「ふふん、できるかな」 不敵に笑い、襟戸は腕を組んだ。源三郎にはできなくても――音子につかまえられていなくても、体格的にかなわない――できる人物は他にいる。むしろ、現状を打破できるのは彼しかいないだろう。 「ジオ!」 「なんだね?」 きらきらと振り返った笑顔のジオに、襟戸が一目散に逃げ出した。 「襟戸のシャツ、10日目突入したよ!」 「なに!? それは大変だ、庶民の生活環境を守るのも貴族の役目、ノブレス・オブリージュ! 待ちたまえ!」 優雅に立ち上がったジオが、襟戸を追ってサロンを飛び出していく。 「源三郎君は人を転がすのがお上手ですねえ」 ルイスの微笑ましそうな一言は無視する。まったく褒め言葉じゃない。包帯やらガーゼやらをてきぱき用意されながらだと、なんだか怖いし。 襟戸の断末魔がこだました。ジオにさっくり捕獲されたのだろう。 未だに手をつかまえたままの音子から最大限の距離を置き、源三郎は努めて穏やかに声を紡いだ。 「あのさ、なんでそんなに怒るの? あれは襟戸の妄想だから」 「でも、仲良かったじゃない。秋奈さんも、たくさん守ってもらったって言ってたし」 音子は唇をとがらせた。焼き餅の表情に見える。 「……あれ?」 ちょっと待て。前提がおかしくはないか。 「そもそも、なんで音子が怒るのさ?」 音子の視線がいつも追いかけているのはヒューゴだ。源三郎など、小生意気で性悪な弟分でしかないはず。だから、マウスピースだって平気で使えたのだろう。今の音子は、悪事に足を踏みこもうとしている弟を叱る、姉のようなものだろうか。 よくわからない。 ヒューゴが秋奈に粉をかけられて、音子が焼き餅を焼くならわかる。 だが、強気であざとく生意気な、眼中にもないはずの源三郎だ。怒る理由がない。いい人同士扱いされたことに腹を立てているとしたら、さすがに胸も痛むが。 なんだろう、このもやもや。難解な問題を突きつけられている、気がする。 音子の視線がうろうろとさまよう。 「な、なんでって……」 生ぬるい空気が、密度を増した気がする。きっと気のせいだ。音子の落ち着かないまなざしをすくい上げるようにのぞきこむ。 「だってさ、あんたが好きなのはヒュー……」 目の奥で火花が散った。がつんと鈍い音がして、後頭部に痺れが走る。掌で勢いよく口を塞がれた拍子に、頭を壁に打ちつけたのだ。真っ赤な顔の音子が、涙目で睨みつけてくる。 「ほんと、起きたら全然可愛くないっ!」 必死に掌を引きはがした。 「なにそれ! 可愛いとかやめてよね! 嬉しくないし……」 「おや、源三郎君は可愛いですよ」 「ルイスは黙ってて!」 「ルイスさんはよくて、私はダメなの!?」 「そうじゃなくて!」 なぜか音子はにっこりと笑った。反射的に逃げようとする源三郎の襟をつかんで強制的にかがませると、背伸びして頭をなでてくる。 「うそ。やっぱり可愛い」 「……もういいよ、今日は可愛い日で」 嬉しそうに頭をなでる音子のほうが、よっぽど可愛いのに。 仕事帰りに金平糖を買いに行くのはやめようと、心の底から誓った。またこんなよくわからない事態に巻きこまれたら、心臓も体ももたない。 きちんと報告を済ませていないことに気がついたのは、包帯まみれで医務室のベッドに入ったときだった。 (……明日でいっか) 睡魔の砂は足下に迫っている。 甘く揺れるさざ波に身を任せ、源三郎は眠りに落ちた。 * * * 安定の襟戸です。3人組の中でいちばん使いやすい(動かしやすい)気がします。 ツンデレ難しいです……あざとさをいまいち書ききれないorz |