声が届くとき 2/奏組



 夜のセントラルパークは得体の知れない静寂に満ちている。その重苦しい静けさの残滓を振り払ったマイケル・サニーサイドは、ため息をつきながらキッチンへと向かった。
 社交界は、刺激的だが退屈だ。
(熱いロックが飲みたい……)
 ひとりで音楽を楽しみながらグラスを傾けたい。若くして財を成した男の――財を継いだつまらない男の、ほんの少しの贅沢だ。
 窮屈な燕尾服を緩めながら、甘美なる扉を開く。
 開いた瞬間、後悔した。瞬時に回れ右をしかけて、なんとか踏みとどまる。ここは自分の家だ、何一つとして遠慮はいらないし、逃げる必要なんかどこにもない。ホームバーの前で、エプロンの蝶結びが縦になっている大男が振り返ったからといって、それがなんだ。
 小麦色の肌に水色のエプロンという、字面だけ見れば美しいのに、現実は斜め上を突っ走るこの攻撃力。
「なにしてるんだい、アルバート?」
 豪快にまくられた袖から伸びる腕には、幾筋もの傷跡がある。
「キッシュを焼いていたんだよ」
「なにが悲しくて、お前みたいにかわいげのないデカブツのキッシュなんか……」
「なんだ、アップルパイがよかったか?」
 誰もそんなことは言っていない。
 ほかほかと湯気を立てるキッシュがカウンターにそっと載せられる。これ以上ないほど幸せそうな――言葉も出ないほど切なげな笑顔に、サニーサイドは鼻を鳴らすにとどめた。くずれたひとかけらをつまみ上げ、口に放りこむ。
 適度に塩味がきいたほうれん草のキッシュは、相変わらず絶品だった。
「不気味なくらいにやにやして、どうしたんだい」
「不気味とは失敬な!」
「ふん、気味の悪いものを不気味と言ってなにが悪い?」
 目の前にグラスが置かれる。注がれたのはサンペレグリノ。彼は酒を飲まない。
「手紙をね、くれたんだ」
「ああ、例の華撃団の子どもとやらかい? よくやるね」
 ふわふわとのぼり、はじけていく炭酸を見るともなしに見つめる。
「それで、なぜここに届くのかな?」
「ここに届くようにしたからに決まっているだろう」
「ふん、いい年したおっさんがでれでれやに下がって。みっともないな、バーティ」
 もうひとつのグラスを手に、アルバートも隣に腰を下ろす。
「日本に行きたいよ。捨てたも同然の俺を、まだ、あの子たちは忘れないんだ。一緒に食べたリンゴ飴、うまかったなあ……」
「捨てたくて捨てたのかい?」
「まさか。ずっと一緒にいたかったさ。他の子どもたちとも、ずっと一緒に暮らしたかった。今度こそ、次こそは、って。叶わない」
「…………」
 賢人機関にしばられたアルバートに自由はない。血のつながらない子どもたちは、世界各地に点在する。全員が、彼が何らかの形で助けた子どもたちだ。
 振り払うように軽く頭を振る。
「あの子たちの音楽は、きっとみんなを愛するだろうね。人は、人が守らなければな」
「いい加減、逃げたらどうだ?」
「そのつもりがないからここにいるんだ。鎖につながれてても、守れるものはあるんだよ」
 サニーサイドにはわからない。人生はエンターテインメントだ。誰かに左右されるなど、冗談じゃない。
 空になったグラスに、再び炭酸水が注がれる。音を立てて儚くはじける泡は果てしない。まるで、程度の低いメタファーだ。
「今はまだのらくら逃げられているようだが、すぐに巻きこまれるさ、サニーサイド。お前が見逃せるはずがないし、奴らが見落とすはずもない」
 否定はしない。
 エンターテインメントを楽しむ側でいられるのは、あとどれくらいの間だろう。演出者となるか、出演者となるか――そのときが来なければ、誰にもわからない。


*  *  *

 久しぶりに書くサニーさんは意味がわからなかった。
 紐育の子(特にダイアナさん)を出してあげたかったなあ……。