月が泣いている/奏組



 アーチを描く大きな窓辺に、寄る辺ない月が引っかかって泣いている。青白い光が煌々と降るサロンには人の姿はなかった。
 白く吐息をこぼし、ルイスはゆっくりと見回す。
「いませんか……」
 深更、幼い子どもの声を聞いた気がした。真冬の街で親とはぐれた子どものような、頼りなく細い泣き声。こんな真夜中に子どもがいるはずもなく、そもそも、かなで寮にそんな年齢の子どもがいるわけもなく。
 降魔の仕業かと疑ったのだ。
 サロンをあとにしようとして、かたかたと鳴る窓に気がついた。テラスに続く掃き出し窓だ。鍵が開いているのだろう。閉めようと歩み寄って、半開きの窓枠の向こうの影に気づいた。
 手すりに寄りかかるようにうずくまり、膝を抱えて小さくなっているのは源三郎だった。
「どうしました、源三郎君」
 窓を開いて声をかけるが、まったく反応を見せない――いや、ぎゅっと膝を閉じ、手に力をこめて、さらに小さくなる仕草を見せた。真っ白な息が立ち上る。この寒いのに薄っぺらな寝間着1枚で、瘧のように震えながら手すりに体を押しつけている。
 淡い影を踏み、ルイスは肩に手を置いた。
 途端、ものすごい力で振り払われる。振り返った幼い瞳は敵意にぎらつき、恐怖にすくんで光っていた。ルイスの姿を見上げ、か細く息をもらす。
 ささやきよりも小さな声だったが、胸を切り裂く悲鳴に聞こえた。
 じりじりと後ずさる源三郎に、努めて穏やかに声をかける。
「そのような薄着では風邪を引いてしまいますよ。明日も舞台はあるのです、戻って休みませんか」
 夜目にも明らかな紫の唇がなにかをつぶやいたが、ルイスにはわからなかった。
「行きましょう、ね?」
 手を差しだすが、逃げられた。まったく見知らぬ他人――それも、自分を傷つける可能性のある人間――を見る警戒と猜疑のまなざしが、針のように鋭く突き刺さる。決して目をあわせようとしないのに、一挙一動も見逃すまいとしてか視線は少しも外れない。間遠なまばたきと切り裂く寒さのせいだろう、源三郎の目尻に透明な一粒が灯る。
 辛抱強く差しだす手を取る気配はない。
(困った子ですね)
 夢遊病かなにかだろうか。
 源三郎は、ルイスのまなざしに耐えかねたように身を翻した。
 震える手が手すりを掴み、その体が空へと投げ出される。とっさに伸ばした腕はかろうじて間に合った。手首をつかまえ、全体重をかけて手すりの内側に引き戻す。
「源三郎君!」
 がむしゃらに抵抗する体を腕の中に閉じこめ、軽く揺さぶった。暴れる肘が脇腹を叩いたが、予測はしていたからダメージは少ない。
「いくら君が武術を習っているとはいっても、ここから飛び降りたりしたら危ないですよ」
 喘鳴にも似た悲鳴をあげ、さらに源三郎は逃げようとする。
 悪夢の中にいるのか。声すら出ない悪夢に沈み、無意識に助けを求めてここまで来たのか。兄の元へ向かわなかったのは、彼の眠りを妨げないためだろうか。
 わからない。
 爪が腕を掻きむしる。これほどまでにこの子を苛んでいるのは何者なのだろう。
(仕方ない……)
 冷たい首へと手を伸ばす。首筋に触れ――やめた。
 失神させることは簡単だが、簡単だからこそ選ぶべきではない。
 ぬれた不安げな瞳が、震えるように見上げてくる。微笑みとともに頭を軽くなでれば、こわばった体がようやく緩んだ。髪をかき混ぜる手を戸惑ったようにつかまえる。じっと指を見つめ、再びルイスを見上げる。
 彼の知るなで方と違うせいだろうか。
 頼りなげな淡い色のまなざしは、ルイスの知らない子ども時代の彼を連想させた。
 軽く額をなでると、くすぐったそうに身を縮める。
「中に入りましょう。風邪を引いてしまいますよ」
 一言もまともな声を発しないまま、源三郎はこっくりとうなずいた。


 真夜中に目覚めた理由はわからない。手洗いにでも行っておこうと、ガウンを羽織ったヒューゴは部屋を出た。
 手洗いに向かおうとして足を止める。
 真夜中のサロンにルイスがいた。夜の青さを透過する輪郭は、薄青く輝いている。うつむき加減にソファに腰かけ、膝のあたりを見つめているようだ。右腕が規則的に動き、髪がわずかに揺れている。
 ヒューゴに気がついたらしく、すぐに振り返った。静かに、と唇の前に人差し指を当てる。その間も、右腕は止まらない。
「なにをしてる」
 声をひそめて問いかけ、歩み寄る。背もたれ越しに膝を覗きこんで、悟った。
 ルイスのガウンにすっぽりとくるまった源三郎が、彼の腿に頭を載せて眠りこんでいる。丸い頬には涙のあとがあった。もつれた髪をほぐすようになでながら、ルイスは寝顔を見下ろしていたのだ。
「ようやく眠ったのですよ」
「なにがあった」
「悪い夢を見ていたのか、怖い記憶に襲われたのか」
 ルイスが手を止めると、唇の端が微かに動いた。再び髪を梳くと、苦しげな口元が緩む。
「抱きしめてくれる腕をなくしたのでしょうか」
 早くに親を亡くしたという意味だろうか。
「源二がいるだろう」
「親と兄弟は違うのではありませんか」
「お前も違うだろう。甘やかす必要はないと思うが」
 ルイスは微笑んだ。底冷えのする笑みだった。
「では、あなたにお任せしてもいいですか」
 手が止まる。
 ぐいと眉根を寄せ、源三郎の唇が苦しげに開いた。ほお骨が動き、ぎちりと歯を食いしばる音がする。ガウンの下で体が動いた。つま先がガウンの下に消え、のぞいた左手が空を掻く。何度も何度も、指先がなにかをつかもうとする。
 眠っているとは思えない明確な動きに、ヒューゴは呆然と見下ろすしかなかった。
 閉ざされたまぶたから涙がこぼれ落ちた。叫ぶように口が開くが、声は出ない。左手がルイスの腿にすがる。泣き叫ぶ子どものように背を震わせ、ガウンを蹴落とした。指の折り曲げられた素足が、ぞっとするほど寒々しい。
 ルイスは源三郎をまったく顧みなかった。ヒューゴを見上げ、微笑を浮かべたままだ。食いこむ指先にも顔色ひとつ変えない。
 もはや声も出なかった。生唾を飲み下すので精一杯だった。
「わかりましたか?」
 ルイスの手がなだめるように背をなでる。白い指先が緩み、源三郎の体から力が抜けた。
「……ああ」
 ソファを回りこみ、床に落ちたガウンを拾い上げる。ルイスの肩に着せかけると、彼の眉がわずかに動いた。
「すまない」
 自身のガウンを脱ぎ、源三郎にかけてやる。
「ご存じですか?」
 源三郎の髪を梳き、ルイスは微笑した。先ほどとは違う、穏やかな笑顔だった。
「私は奏組の母で、あなたは父なのだそうですよ」
「…………」
 こんな大きな子どもも、こんな嫁もいらない。
「ここにいるつもりか?」
「ベッドへ連れて行きたいのですが、離れると怖がるので」
「布団を持ってこよう」
「お願いします、お父さん」
「……やめろ」
 さもおかしそうに笑うルイスを背に、ヒューゴは源三郎の部屋に向かった。
 凍えるように冷え切った胸の内側がきしむ。ひび割れるような甲高い音は、きっと、誰かの面影を思い出したからだ。
 家族を失った嘆き、残された罪悪感、気の狂いそうな孤独、深く刻まれた癒えない傷。
 掛け布団を手に空を見やれば、青い月が泣いていた。


*  *  *


 需要がないと知りつつ書いてしまった奏組第2弾。
 音子ちゃん加入前&暗いお話なのは前回同様。源三郎+奏組の誰かというおはなしが続いております。強気で天の邪鬼な源三郎を書きたいのですが、どうにも暗くなってしまう謎。
 気力が続けば、次はジオさんの予定です。明るくなる、はず!