奇形の金魚/キバ



 バレると面倒、バレると面倒。
 小さく呟きながら、バッシャーは水面を見上げていた。
 その言葉がぐるぐると回って離れない。満足なライフエナジーを得ていないせいで不安定な自覚がある。枯渇には至らないが、このまま数週間も過ごせば危険になるだろう。
 わかっていながら、特に行動を起こす気にはなれなかった。
 ヒレを揺らがせる流れが心地よい。見上げた空の月がひどくゆがんで、建物や道路の影もぐにゃぐにゃに溶けて、不思議な姿をしている。
「バレると面倒……面倒、かぁ」
 つぶやいた口腔にざらついた水が忍びこむ。それは、初春の水ではあり得ないほど生ぬるくて、すぐに吐き出した。
 きれいとは言いがたい水中にも飽いて、水を蹴る。わずか一蹴りで水面に浮上した。
「面倒なんだって。だからきっと、僕も面倒なんだ」
 見上げた月に呟き、音もなく水を掻く。すべるように川岸近くへ移動したバッシャーは、勢いをつけて空中に飛び上がった。そのまま人間の姿をとり、着地する。
 ふわりと飛んでいきそうになったベレー帽を片手でつかまえ、かぶりなおす。
 胸にわずかな異物感があるが、けががないことはわかっている。人間の状態の次狼がモンスターの状態のバッシャーを蹴っても、大したダメージを与えられるわけではない。そもそも、次狼はバッシャーを遠ざけるために蹴っただけだから、大して力も入れていなかった。
 それでも攻撃されたことに変わりはない。
 ふらふらと川辺を歩き出す。町のざわめきは遠く、土手を通り過ぎていく車や自転車もない。人間の姿もないし、動物の姿もない。お腹が空いてはいたが、ライフエナジーを求めて町中に出て行く気にもならなかった。なぜかひどく疲れている。
 次狼は相手をしてくれなかったし、「彼」には連絡が付かない。塒に帰る気も起きない。ただ、夜を静かに歩きたかった。冷たい空気が肌を咬む。
 不意にひとりきりだと気づいた。
 ぴたりと足が止まる。瞬時に沸騰する焦燥感。
 指先に噛みつく。犬歯で食い破った人差し指に、翠の玉がふくれあがった。
 人間の姿をとっても、体を流れる血潮は、あざやかなエメラルド。みるみるうちにふくれあがった血の玉が、指を伝って流れ落ちる。
 温もりがほしい――。
 それは、これまでに感じたことのない、強烈な感覚だった。
 幼くして一族を虐殺された。たったひとり残された。大して戦う力もなく、目の前で同胞の死を見届けることしかできなかった自分だけが残った。愛情をろくに知らず、焼けつくような憎悪を胸に宿し、一族復興の悲願を懸けて、マーマン族最後のひとりとして、誇り高く生きなければならなかった。
 温もりへの感傷は、孤独な少年に残された、わずかな子供らしさかも知れなかった。
 その場に座り込む。体を抱え、ぎゅっと目を閉じた。

 それからどれほどの時間が経ったのか。
 目を開けると、目の前に男の足があった。ぼんやりと見上げると、奇妙な表情をした次狼が立っている。
「何してんだ、お前」
 ラモンはそれには答えず、そっと手を伸ばした。奇妙な表情のまま、次狼が手をつかむ。
 引き起こす手は力強かった。
「ねぇねぇ、僕、金魚を見たんだ」
「金魚?」
「大きな水槽の中に、金魚がいたんだ。いっぱい」
「どこだそりゃ」
 ラモンの背を軽く叩きながら次狼が言う。
 普段はほったらかしのくせに、妙なところで鋭いのだ、この男は。肩を抱き寄せる手に逆らわず、ラモンは次狼に抱きつく。
 次狼の心臓の音を聞くと、少し落ち着いた。
 拍動は、力強くうねる大海の音に少し似ている。
「ペットショップか?」
「たぶんそう」
「色は?」
「僕たちの目とおんなじ」
「そりゃきれいな金魚だな」
「うん。金魚のヒレって、僕のヒレよりもすっごく薄くて、破けちゃいそうだった。きれいだった……花びらみたいに」
 目を閉じると、金魚がまぶたの裏の海を泳ぎ出す。たくさんいた、たくさん。ひとりぼっちじゃなかった。
「その中に、いたんだ」
「何が」
「破れた金魚。奇形って言うの? それともいじめられたのかな、ヒレが破れて、痛そうに体を曲げて泳いでた」
「……可哀想にな」
「でもね、仲間がいっぱいいるから、寂しくなんてないと思ったんだ。一緒に泳いで……餌を食べて……でも」
「でも?」
「みんないなくなった」
 次狼が息を呑む。
「1匹だけ残ったんだ、その金魚が」
「なぜ」
「他の金魚は、もらわれていった。でも、破れた金魚はだれもいらなかった」
「ヒレが破れてた……からか」
「僕、見たんだ。その金魚が殺されるの」
 背をなでていた次狼の手が止まる。のぞき込んでくる瞳がわずかに揺れている。その理由もわからないまま、ラモンは言葉を続けた。
「お店のおじさんがね、お店の裏側で。金魚を網に入れて、叩きつけたの。石に」
「……ひどいな」
「びくびくってして、死んじゃった」
「……お前」
「だからね、そいつを殺してやったんだ。金魚と同じように」
 次狼の指が頬をかすめる。離れた指先が濡れていた。
 驚いて頬に手をやる。指先が濡れた。
 乱暴に手の甲でこすって、早口で言葉を続ける。次狼が何かを言う前に。
「ねぇねぇ、僕もそうなのかな。いらない金魚だったのかな。だから残ったのかな。君みたいに戦えないよ。彼みたいに強くないよ。なのに残ったんだ。ねぇねぇ、ひとりだけ残った金魚はみんな殺されちゃうの? なら僕も……」
 ぱちんと額を叩かれて、ラモンは口をつぐんだ。
 見上げた先の次狼の顔が、怖い。
「2度と言うなよ」
 むき出しの猛獣の気配。獰猛な声が、突き刺さるように押しよせる。
「2度と言うな、わかったな」
「ねぇねぇ……」
「一族を復活させるんだろう?」
「させるよ、絶対」
「なら、ひとりじゃない。今は俺たちがいる」
 言うなり、次狼は歩き出す。慌ててあとを追いながら、ラモンはそっと腕にすがった。面倒くさそうに視線をよこしたが、次狼は腕をふりほどかない。
 何だか嬉しくて、両手でしがみついた。
「ねぇねぇ、面倒ってなんでなの? あそこのコーヒー、そんなにおいしいの?」
「あぁ、うまい」
「ねぇねぇ、僕も行っていいかな」
「やめとけ。声を覚えられてる」
「覚えてなかったら、行ってもいい?」
「どうやって確かめんだ、そんなの」
「電話すればいいんじゃないかな」
「やめとけ。バレると面倒だ」
「バレなかったら行ってもいい?」
「あー……もう面倒だ……勝手にしろ」
 やったぁと歓声を上げると、次狼はわずかに目を細めた。帽子ごと乱暴にラモンの頭をなでると、歩く速度を上げる。
 帽子を直しながら、ラモンは慌ててあとをついていった。また腕をつかまえる。
「お前、食ったのか」
「最近食べてない」
「行くか?」
「ううん、行かない」
「死ぬぞ」
「まだ死なないよ」
「そうか……」
 絶えて久しい同胞の声が、体の内側でこだまする。それはどうしようもなくバッシャーをあせらせ、ラモンを孤独にした。
 次狼たちとは心を許しあった仲間とは言いがたい関係だが、孤独を分かち合うことはできる。奇妙な協力関係は、しばらく崩れそうにない。
 自分が奇形の金魚でないことに安心すればいいのか、不安を覚えればいいのか、ラモンにはわからなかった。確かなのは、今そばにある温もり、そして、間違いなく孤独でありながら、独りぼっちではない――ただそれだけだった。

*  *  *

 薄暗いのは仕様です。ラモン初登場記念(過去)。