襲撃/キバ



 次に通った人にしよう。そう決めて、ラモンは膝を抱えて座っている。
 あまり人が通りかからない公園を選んだのは、捕食の際に邪魔が入らないようにするためだ。「バレると面倒」という次狼の言葉が気になっていたのは事実だが、意地を張っていたわけでもなく、こだわりがあったわけでもない。だが、気がついたときには、ライフエナジーが底をつきかけていた。このところ、頻繁に変身を繰り返していたせいもあるだろう。そのくせ、捕食していない。
 取り逃がしたくはないのだ。今は、余力がほとんどない。道に背を向けているのは、側まで来る人間を待っているから。今のラモンは、幼い姿を利用しなくては、狩りさえもできない。
 ウッドデッキのベンチに座り、膝を抱えて池を眺めている。全身が重く、だるい。薄ぼんやりとした視界は夕暮れのせいではなく、エネルギーの枯渇によるものだろう。鋭敏な感覚がだいぶ弱まっているのを感じる。外灯の光さえ、ほとんど刺激にならない。
 目を閉じると、うとうととまどろんでしまいそうだった。
 不意に、気配が近づいてくる。顔を伏せたまま目を開けた。気配は若い女性。ラモンに警戒心は抱いていない。
(狩れる……?)
 振り返りざま襲えば、逃げられないだろう。命をつなぐことができる。同胞たちの復活を叶えるために――。
「あなた、どうしたの?」
 背後からかけられた声に絶望した。
 おそるおそる振り返ると、そこに立っていたのは、次狼が守っていたカフェの女だった。今は次狼の姿は見あたらないが、おそらく近くにいるだろう。
 襲うわけにはいかない。
 彼女は心配そうに顔をのぞき込んできた。
「人を待ってるんです」
「待ってる……? もう暗くなる。夜は危ない」
 何日か前に同じようなことを彼女に言ったな、などとぼんやりと考えながら、苦労して笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫、もうすぐ来ると思います」
「でも……こんなひとけのない場所で」
「僕は大丈夫。ありがとう」
 それだけを答えると、ラモンは再び顔を伏せた。
 彼女は心配そうにしていたが、急ぎの用があるらしく、未練を残したようすながら、急いたようすで去っていった。
 顔を伏せたまま目を閉ざし、うとうとと微睡みに落ちる。完全に眠ることはない、狩人の眠り。
 きしきしと寒気が押しよせる。空気にしめった匂いがまじり始めた。
 雨が近い。
 いつもならば水の到来に騒ぐはずの血は、ごく穏やかに流れるまま。歓喜の感情さえ起きない。現状を維持するので精一杯の体調では、ずぶぬれになれば体力を失うのは確実だ。水に生きた者が水で死ぬなど、考えたくもない。
(戻ろう……戻って……帰るときに……)
 顔を上げる。ゆっくりと足をおろし、苦労して立ち上がる。くらりと視界が揺れたのは、力が足りないから。
 のどの奥で小さくうなり、軽く頭を振る。わんわんとこだまする耳鳴りの中、ごくわずかな足音が聞こえた。足の裏に伝わる震動は頼りないが――めまいなのか自分がふらついているのかわからない――この感覚は確かなもの。
 ゆっくりと振り返る。
 背後から近づいてきていたのは、若い男だった。見知らぬ――凶暴な気配の。
 体中の血が一気に沸騰する。
 敵だ。
 あれは敵だ。
 本能が警鐘を鳴らし、全身に緊張が走る。今にもラモンの姿を振りきろうとする、バッシャーとしての闘争本能。
 意志を総動員して押さえながら、素早く状況を確かめる。
 周りに人間はいない。他のファンガイアも、モンスターもいない。1対1の状況。相手はライフエナジーに満ちたファンガイア。おそらくアクアクラス。一方、ラモンは極度の消耗状態。まともにぶつかれば勝ち目はない。最良は水に逃げることだが――。
 相手がアクアクラスならば、裏目に出る可能性も高い。
「お前、冷静だねー」
 数メートルの距離を置いて立ち止まり、男が笑った。一飛びで詰められる距離だ。どこにでもいそうなごく普通の青年なのに、その瞳は違う。殺戮に慣れた目だ。
「今もそうやって観察してる。どうやってこの危機をしのぐか。戦うか、逃げるか、対話するか」
「……」
「俺は頭の悪い奴は嫌いなんだ。頭のいい奴を殺すのが……楽しい」
 青年の下顎を覆うひび割れた模様。
(戦うしか、ない)
 ラモンの姿ではあっという間に殺される。消耗は激しくても――バッシャーとして戦うしかない。一度きりの変身。倒せなければ、あとはない。目の前のファンガイアを倒し、そのライフエナジーを奪うことができれば、命をつなげる。
 それ以外の選択肢は――ない。
 決意すれば、迷いはない。ラモンに収束する翠の光。瞳が赤に染まり、マーマン族特有のなめらかな皮膚が全身を覆う。金属光沢を放つ翠の鱗に、緑や金などさまざまな色彩に彩られたヒレ。鋭い爪は黄金に輝いている。
 恐ろしい勢いで、残り少ないライフエナジーが摩滅していく。めまいがおさまらないまま、バッシャーはファンガイアと対峙した。
「お前、マーマン族か」
 異形と化した青年が言った。
 彼は、クラゲの特性を持つメデューサファンガイア。水色を基調としたステンドグラスの模様が、腹立たしいほど美しく輝いている。
「ねぇねぇ、戦うのやめない?」
「嫌だね。せっかくモンスターを見つけたんだ。遊ばせてくれよ。そのあと壊して、武器にしてやるからさ」
 さらに言葉を重ねるような愚を、バッシャーは犯さなかった。首を狙った半透明の触手を素早くかわし、手すりに降り立つ。少しバランスを崩したが、第2撃も回避。ベンチを盾に上からの第3撃をかわし、そこでようやく反撃の糸口を見つける。
 ファンガイアが触手を振りかぶったその瞬間を狙い、炸裂水弾を放つ。アクアフィールドを作り出すほどの余力がない。これが通用しなければ、接近戦を挑むしかない。立て続けに数発を放ち、砕かれる水弾を横目に、振り抜かれる触手をかわす。
 2発ほど着弾したようだが、他はすべてかわされた。ターゲットサイトの照準が狂いはじめている。着弾した分も大したダメージにはならなかったらしい。馬鹿にするような男の顔が体表面を過ぎり、消えた。
 ウッドデッキを丸ごとえぐり取り、触手が肉薄する。吹き飛ぶ木くずをよけ、目を狙う触手をはじく。
 炸裂水弾を作り出す暇もなく、バッシャーは宙に逃れた。追いすがる触手を足の爪で断ち切り、腕に巻きついたものは手の爪で引きちぎる。ぴりぴりとした痛みは、メデューサの毒だろうか。素早く腕を振ると、傷口から勢いのない血しぶきが飛び散る。
 その瞬間起きた光景に寒気が走った。
 跳ね上がった触手が飛び散った血液をつかまえ、半透明な内部に取り込んだのだ。咀嚼するようにうねりながら。取り込まれた翠は、あっという間に消えてなくなる。
 襲いかかる触手をはねのけながら、その光景を確かに見た。
「ねぇねぇ、趣味悪いって言われない?」
「言われるとも。最高の誉め言葉だね」
「最悪だね。気持ち悪い」
 優しく吐き捨て、立て続けに炸裂水弾を放つ。
 一瞬あっけにとられたようすのメデューサは、触手を砕かれて我に返ったようだった。怒りの咆吼とともに、まとめた触手を鞭のように振り回す。
 間一髪転がってかわすが、鱗の一部をはぎ取られた。血しぶきとともに触手に飲まれた鱗が、気色の悪い咀嚼音と共に消えていく。
「ああもう、ほんと最悪……気持ち悪い」
「黙れ」
「趣味悪いって言われるのはよくて、気持ち悪いって言うのはだめなんだ?」
 メデューサは吼えた。槍のように尖った触手が、バッシャーめがけて降りそそぐ。避けることはあきらめた。致命傷となる槍を優先的に砕き、間に合わないものは無視する。
 皮膚を裂かれ、鱗を砕かれながら、バッシャーは笑った。心からの笑い声だった。
「じゃあ、何度でも言ってあげるよ。君、すっごく気持ち悪い」
 放った炸裂水弾は、届く前に壊された。
 砕けた鱗が宙を舞う。飛び散った血液が捕食される。貫こうとする触手を引き裂くと、爪がひび割れた。絡め取ろうとする触手を切り裂くと、ヒレが引きちぎれた。視界が霞み、五感が薄れていく。割れるように痛む頭と、血を吐くほどに渇いた喉と。強烈な飢餓感、急激に衰えていく力。
 限界はすぐそこにあった。
「ねぇねぇ、自覚してる?」
 あえて言う。笑う。己を離れた体の一部が消化される様を目前に仰ぎながら、動かなくなっていく体を引きずって。剥がされていく身を守る鱗も、砕かれていく戦うための爪も、すべてを嘲笑う。
「君は趣味が悪いんじゃなくて、気持ち悪いんだよ。最悪、ほんと最悪」
 ろくに声も出ない。かつて歌を奏でていた喉は、もはやつぶれかけている。その理由を考えて、あぁとようやく気がついた。
 喉に触手が絡みついている。
「気が変わった。壊して、喰う」
 ものすごい力で引きずられる。抵抗しきれない。膝が砕けた。全身を絡め取ろうとする触手を打ち払うが、一気にメデューサの眼前に引き出される。その気になれば、つかまえた時点で吸魂牙を刺すこともできただろうに、それをしない。
 最悪の痛みと屈辱の中で喰らうつもりだ。
 それがバッシャーの狙いとも知らずに。
 目の前で暗黒が開く。絡め取られて身動きできない獲物を丸ごと砕くかのように。
 細かに区切られた表皮に、馬鹿にしきった残酷な笑顔が浮かぶ。
「まずはどこがいい?」
「……腕かな」
 言うがはやいか、バッシャーは自ら右腕の鱗を脱ぎ捨てた。強制的に引きはがされた鱗が皮膚を引きちぎり、翠の鮮血があふれ出す。
 のびる触手が鱗を咬み、血を飲み込む。気色悪い咀嚼音を間近に聞きながら、わずかに肩を引く。改めて絡みつこうとする触手を咬みちぎり、メデューサの左肩に、鋼をも切り裂く手刀を突きこんだ。
 メデューサの絶叫。
 金色の爪は、まっすぐにメデューサの左肩を切り落とした。
 悶絶し、離れる触手。自由になった上半身を思いっきりひねり、今度は右腕を切り裂く。深さが足りなくて、もう一度。直後にのたうった触手に肩を切り裂かれたが、同時にメデューサの腕が落ちた。ぱらぱらと飛び散る鱗を喰らおうとのびる触手を、無造作に踏み砕く。
 絶叫し、のたうち回るメデューサ。下半身を捕らえられたままで満足に動けないバッシャーは、握りつぶそうとする凶悪なプレッシャーに耐えながら、一瞬の隙をついて、メデューサの胸元につま先をたたき込んだ。
 のたうち回り、離れる触手。ウッドデッキに転がったバッシャーは、荒い息をつきながら起きあがった。
 体は自由にならなかった。右足と右腕が動かない。右目もほとんど見えない。全身に突き刺さる、激痛を伴う悪寒に歯を食いしばり、足下に落ちていたヒレの一部を拾い上げる。
「ねぇねぇ、僕に負けちゃったね」
「待て、待て……殺すな、殺さないでくれ!」
「僕を壊して、食べるって言ったよね? 僕もね、君を壊すよ」
 手を、離す。
 まっすぐに落ちたヒレは、メデューサの額の中央を貫いた――。
 ステンドグラスのように硬化し、ひび割れていくメデューサ。
 バッシャーの姿を脱ぎ捨て、ラモンの姿を纏いながら、彼は笑った。
「でもね、僕は君を食べない」
 凄惨な翠の血にまみれ、全身におぞましいまでの傷を負いながら、ラモンはその場に倒れた。体の下でひび割れていくメデューサの残骸の悲鳴を心地よく聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。
 口元にライフエナジーの固まりがこぼれたが、歯を食いしばり、受け入れなかった。
 遠ざかる意識の中、近づいてくる気配を感じた。それが誰のものであっても構わない。今の自分はこうして意識を保つことさえ難しいのだ。
 ぎしぎしとひどくきしませ、近づいてくる足音。頭のすぐ側で止まり――動かなくなる。どんな光景があるのだろう。人間だろうか、モンスターだろうか、それともファンガイアだろうか。
 もう、それさえもわからない。
 雨が降り始めた。ぽつぽつと頬を叩く。
「気持ちいい……」
 うっとりとつぶやいた瞬間、口腔に恐ろしく熱いものがこぼれ落ちてきた。
 体を強ばらせ、限界まで目を見開く。
 暗い空を切り取り、ラモンのすぐ側に膝をついていたのは次狼だった。不機嫌きわまりない顔で、虹色に輝くライフエナジーをラモンに強制的に吸収させようとする。
 ラモンは慌てて起きようとするが、大して身動きできなかった。
「馬鹿か、お前」
 ささやかな抵抗として口を押さえるが、あっさりと剥がされた。仕方なく、苦労して声を絞り出す。
「ねぇねぇ、こんな気持ち悪い奴のライフエナジー、いらないんだけど」
「そんな理由だと思ってな、俺が一度喰った。こいつは吐き戻しだ」
 言われてみれば、先ほどとは少し色が違う。
 ラモンは流しこまれるままおとなしく寝転がっていた。冷え切って感覚の消えていた指先に、少しずつ血が通い始める。
「それにしてもまあ、ひどくやられたな」
「しばらく絶食してた」
「馬鹿だな」
「そうさせたの、誰だと思ってるの?」
「……俺か?」
 うなずいてみせると、次狼は心当たりがないようすで空を仰いだ。
 胸を圧迫していた苦痛が消えていく。痛がゆいような感覚が全身を覆い、治癒能力がようやく正常に機能し始めたのがわかった。試しに右手を持ち上げてみると、ひび割れていた爪が治っている。
「お前、それ以上やせると骨になるぞ」
「やせたかったわけじゃないよ。バレると面倒だって言ったから。ずっと考えてた」
「それで喰ってなかったのか」
「たぶん」
 次狼の手を借りて立ち上がる。
 周囲は目も当てられないほど悲惨な状況になっていた。ウッドデッキは半ば以上が吹き飛んでいるし、ベンチなどは跡形もない。戦いの巻き添えになったのか、腹を上にした魚が水面に何匹も浮いていた。
「可哀想なことしちゃった……」
「魚か?」
「うん……関係なかったのにね。あ、そうだ」
「なんだ?」
 次狼は怪訝そうにラモンの頭をなでる。その手をつかまえ、ラモンは頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
「たまたま通りかかっただけさ。行くぞ」
「うん」
 先を行く次狼はいつもよりゆっくりと歩いている。ついていくラモンは、少し足を引きずっている。
 戦いの痕を強烈に刻んだ現場からふたりが立ち去った頃には、わずかに残っていたメデューサの残骸も、池に飲まれて消えていた。

*  *  *

 ラモンの捕食シーン、結局出てきませんでしたねー。