囚われ人/キバ どうにも面白くない。 目の前のドッガは不機嫌そうに押し黙り、じっとチェスの盤面を見据えたままだ。まばたきもほとんどしていないような気がする。 「おい、いつまで黙ってんだ」 「……」 「おーい」 「……」 何度目かのコミュニケーションを図ってみるが、見事に黙殺される。ため息とともに、ガルルはカップを口に運んだ。最後の一口をぐっと飲み干す。 ドッガは固まったままだ。 バッシャーに何連敗もしているのが気にくわないのだろうか。それとも、コマが食われまくるのが嫌なのか。あるいは、盤面を見てもいないのに、遠くから自在にコマを動かしてしまう――もっと言うならば、見ていなくても盤面を把握できてしまう能力に、釈然としないものを感じているのか。 どれも腹立たしく思ったところでどうしようもないと思うのだが。 チェスをやろうと言い出したのも、ルールを教えたのもバッシャーだ。その中には、別に、コマがコマと食べると負けとかいうルールはなかったと思う。 (普通は食べないんだろうが) そこまで考えて、ふと気づいた。 ドッガは、久しぶりに外に出た――もっと言うなら、戦いに呼ばれたバッシャーが心配で仕方ないのだ。 (過保護な奴) 今は子供の姿でも、元はモンスター。戦闘力で言えばそれほどガルルたちに引けを取るわけではないのに。 何と言っても、ファンガイアの襲撃から生き延びたくらいなのだから。 「心配性だな」 もちろんドッガは答えなかった。 空になったコーヒーカップをもてあそんでいると、窓辺に翠の光が落ちた。光は溶け落ちるようにバッシャーの姿となり――現れた彼は、ふらふらと床に崩れ落ちた。素早く手足をついて倒れることは免れたが、すぐには立ち上がれないようだ。 ドランからの射出や食われる衝撃は、彫像状態でも小さな体に堪えるのだろう。床に膝をついたまま、じっとしている。 即座に立ち上がり、つかつかと歩み寄るドッガ。力強い腕で抱き起こし、いたわるようにセーラー服に包まれた背をさする。ガルルも立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。 バッシャーは顔を上げた。窓辺の強い光の中で陰影をくっきりと浮かび上がらせた顔は、外見上の年齢よりもひどく大人びて見える。 「あいつをやったよ」 浮かんだ笑顔のあどけなさと、つぶやくように落とした声のギャップ。 「水に巻きこんで、砕いてやったんだ」 「そうか」 ドッガが言い、バッシャーに肩を貸そうとする。 「お前が肩貸してどうする」 ガルルはドッガにどくよう身振りで示し、バッシャーに肩を貸した。ひどく無表情のままガルルの肩にすがり、立ち上がるバッシャー。噛みしめるように引き結んだ唇から、小さな息がこぼれる。 今はあの小さな城主もいないのだから、なんでもないふりを装う必要もないのに。 ソファに座らせると、普段の明るさはどこへやら、背もたれのクッションにぐったりと身を沈ませた。天井を仰いだ目は、何を見ているかわからない。 心配そうなドッガがバッシャーの隣に腰を下ろす。それだけでクッションは大きく沈みこんで、バッシャーが揺れた。彼はそのままドッガに寄りかかり、嬉しそうに笑った。ドッガがそっと前髪をなでつけてやる。 母親かお前は、と突っこみたくなるのを抑え、ガルルは腕を組む。 「水でも飲むか?」 ガルルの声に、バッシャーはわずかに考えこむ様子を見せた。 「僕が入れたコーヒーが飲みたいなぁ」 「もうねぇよ」 「なぁんだ。じゃあいいや」 「いいのかよ」 「外は明るかったなぁ。いろいろなものがあったし、きっと退屈しないよね」 あくまで明るい口調と、かすれた声と。 椅子に座り直しながら、ガルルは苦い思いでその言葉を噛みしめた。 中は退屈だ。20年もの間同じ顔をつきあわせていれば、いい加減飽きも来る。監視がないとはいえ自由もなく、行動は大幅に制限される。元の姿に戻ることはもちろんできないし、彫像などという姿にされてもいる。 おまけに、閉じこめられているのは3人が3人とも恐ろしく長命な種族だ。このままあと何十年という時間を過ごさなければならないというのは、笑えるくらいに退屈なことだった。 チェスのコマが暇そうに並んでいる盤面を見下ろし、ガルルは口元を歪める。 結局、どれほどの力を持っていようとも、あの城主に開放の意志がない限り、ここで飼い殺しにされるだけなのだ。自らの意志で戦いに赴くことも、自由に戦うこともできない。戦いに散ることも――。 ふと、異様な圧力を感じた。言葉では言い表せない衝撃。胸の奥底で何かが震える。 ぎょっと振り返る。 「お前……」 呆然と声を上げたのはドッガ。 ガルルもまた、呆然と立ち上がった。 ドッガが唖然とのばした手をはじき、バッシャーが立ち上がる。 喉元に集中する翠の光。開いた瞳に深紅の輝きが灯る。波紋を描いて広がる光と、小さな姿に重なる翠に彩られた異形――。 空気を押しのけ、空間を押し広げるように具現しようとする。 胸の奥底が冷えた。視界の端のドッガも、ひどく青ざめている。 バッシャーが本性に戻ろうとしている。封印が切れたわけでも、枷が外れたわけでもないのに――自らの意志で。 「バカかお前!」 抑え込もうと飛びつくガルル。ドッガも本気の表情でその腕を伸ばした。だが、激しいスパークがふたりを吹き飛ばす。 「くっそ……!」 チェスボードをなぎ倒し、ガルルは悪態をついた。ドッガはうまく着地できたらしく、バッシャーに駆けよろうとしている。 翠の嵐の中、バッシャーが口を開いた。 だが、こぼれたのは言葉ではなく――エメラルドのしぶきだった。口元を押さえ、崩れ落ちるバッシャー。光が砕けるように消え、全身に細かな傷が走る。 激しく震え、苦しみをこらえるように体を曲げながら、次々と吐き出す翠の血の塊。口を押さえようとわななく手は凄惨な翠に染まっているのに、バッシャーは笑っていた――。 薄ら寒いものを感じながら、ガルルはとっさにテーブルのグラスに手を伸ばした。ドッガが抱き起こすバッシャーに差し出すが、他ならぬバッシャー自身がその手でたたき落とす。 澄んだ音をたて、グラスが砕け散る。飛び散る破片と水しぶき。さも面白いものを見るかのような目で、苦しむバッシャーは眺めていた。 ひときわ大きく痙攣し、その体から力が抜ける。 ふたりは顔を見合わせ、安堵と困惑のため息をついた。 「ドッガ」 みなまでいわずとも、ドッガは大きくうなずいた。バッシャーを抱きかかえ、ゆっくりと遊戯室を出て行く。 残ったガルルは、口の中で悪態をつきながら部屋の片づけを始めた。側にいるのはドッガの方が安心するだろう。そう考えたから行かせたが、自ら後かたづけという貧乏くじを引いた気もする。 ようやく片づいた室内で、ガルルは深いため息をついた。 ドッガは戻ってこない。しばらく――いや、意識を取り戻すまで側についている気なのだろう。 それにしても、とため息をつく。 (あいつ、何のつもりで……) まさか、久しぶりに外に出たことで、自由になったと勘違いしたわけではないだろう。見た目は子供でも頭はいい。下手したら、自分たちよりも。 戻れないと知りつつ本性へ戻ろうとした。しかも、あんなになってもまだ笑っていた。 「ばかなガキだ……」 (違うな、あれは頭が良すぎるんだ) つぶやいた言葉に、奥底の声が答えた。 どちらでもいい。問題は、あの小さな城主が処罰に来ないかどうかだ。何事もないことを祈ろう。 バッシャーが目を覚ませば、また退屈な毎日が戻るだろう。ときどき戦いに呼ばれることもあるが、それ以外は至って暇。チェスで時間を潰しながら、壁一枚むこうの決して届かない外界を眺めて過ごす。 そうなる、はずだ。 ため息とともにカップを口に運び、ガルルは舌打ちした。飲み干したことをすっかり忘れていた。忘れていたことにも舌打ちし、深く椅子に腰掛ける。 バッシャーが何を思って本性へ戻ろうとしたのか――結局、わからないままになるだろう。目覚めた彼は何事もなかったかのように活動するに違いない。自ら語ることなど考えられない。 袖口に染みついた翠の血を眺め、ガルルは目を閉じた。 目覚める頃には、ふたりが戻っているといい。 * * * バッシャーフォーム登場記念。 |