燧火〔すいか〕にかける/キョウリュウ 沓脱石の上にカラスがいた。若いカラスだ。そうとわかったのは、くちばしの色が薄いからだった。 5月ももうすぐ半ばなのに、寒い日が続いたからだろう。久しぶりのあたたかな陽差しを堪能するように目を細め、池に浮かぶカモのようにお腹を沓脱石にくっつけてふくふくとしている。ソウジがすぐそばにいるのに、取るに足らないとでも思っているのか、彼――あるいは彼女――にとってはその辺の立木と変わらない存在なのか、ちらりと一瞥を寄越したきり、目を閉じてしまう。 「お前、俺が気にならないんだな」 縁側にしゃがみ、覗きこむ。別に悪さなんかしないでしょ、とでも言いたげに、あくびをひとつ。 胴着姿を害のない同類と思ったわけでもあるまい。 そろそろと腰を下ろし、足を外に出してみる。カラスはそれでも気にしなかった。退屈そうに、心地よさそうに目を閉じたまま、時折思い出したように羽をつくろいながら、さんさんたる陽差しを浴びている。数十センチ先で揺れるつま先など、神経質になる必要もないほど些細で、気に留めるようなことではないらしい。 そういえば、イアンもよく眠っているなと、とりとめもなく思った。あの椅子はいつの間に持ちこまれたのだろう。気づいたときには、スピリットベースの一角に鎮座していた。いつもはイアンが使っていて、彼が不在のときは、ダイゴが寝転がっていたりする。ノブハルが作業スペースにしていたり、アミィがストレッチに使ったり。 誰もいないときは、トリンもあの椅子に寝そべったりするのだろうか。目の前のカラスとトリンの姿が重なる。小さく笑いがもれた。 うさんくさそうにカラスが顔を上げる。首をひねるようにして向けられた横顔に、こみ上げる笑みを押さえきれなかった。 「平和でいいな」 かあ、とカラスは鳴いた。 相変わらず横顔を向けたままだ。そんなに一生懸命見つめられても、ソウジはなにもしないし、お菓子やなにかを持っているわけでもない。父に先に道場へ行っているように言われてやって来て、途中で見つけたカラスを構っているだけだ。電話が終わり次第、父もすぐに来る。 出会いは偶然。ほんの些細なきっかけが精緻な鍵のようにかみあって、ソウジと若いカラスをまみえさせた。 「お前が平和でいられるように、やらないとな……俺たちが」 得体の知れない冷たい矢が体の中央を貫いたのは、その瞬間だった。 ソウジは立ち上がる。こめかみのあたりに鳥肌が立つ。背筋は蟻走感に苛まれ、心臓が音を立てて脈打った。喉元に熱が凝る。指先が急激に冷え、燃えるような熱を帯びた。 敵だ。 デーボス軍が出現した。 カラスが羽ばたいた。ソウジに驚いたか、邪悪な気配を感じたのか。よろめくように沓脱石を踏み切り、慌てたように羽音を立て、警戒するような鳴き声を上げ、不格好な弧を描き、竹林の方へと飛び去っていく。 竹林にひそむザクトルが、何事かとばかりに顔を上げるのが見えた。その鼻先をかすめ、カラスの姿が見えなくなる。ザクトルはゆっくりと首をめぐらせ、カラスを見送る様子だ。 「なにしてるんだ……」 ソウジは傍らの木刀を拾い上げた。 鍛錬をすっぽかすことになるが、明日が来ればまた鍛錬はできる。だが、光の登る朝が来なければ、鍛錬などできなくなる。 そこまで大げさではなくても、これはやらねばならないことだ。 「ソウジ」 振り返れば、いつの間にか父がいた。大海のごとき瞳が無言で語る。大きく、力強く、うなずいた。父も、ソウジも。 「行ってきます」 「しっかりな」 父は問おうとはしない。事情を話した覚えはないが、キングたちが教えたのか。あるいは悟ったのか、知らずとも大きな奔流のただ中にソウジがいることを見抜いたのか。火打ち石を切って、見送ってくれる。 無事に帰宅することを、信じ切っているまなざしで。内心は決して穏やかではないだろう。 だから、走るのだ。 * * * 地面にお腹をくっつけてぬくぬくしている鳩が可愛かったので。オチもなにも考えずに書いた結果、火打ち石に落ち着きました。 最近は頭の中が物騒なので、あえて穏やかな話を書きたくなります。 |