代償、あるいは罪/シンケン



 逃げ出すんですか。
 幼いその声が、いつも記憶の奥底を流れている。黒子として志葉家に戻った今も、傷ついた声音は離れようとしなかった。
 だから、これは罰なのだろうか。
 小松朔太郎――朔は、目の前の女のあまりに鋭い視線に貫かれ、ただ立ちつくすしかなかった。
 彼女は、幼いあの頃の面影とはかけ離れて美しく、凛然たる空気をまとっていた。本来の気質である――と思っていた――穏やかさは微塵もなく、冷然としている。
「本当に吉野か……? 久世〔くぜ〕の……美典〔みのり〕?」
「信じられないようね」
 口調は穏やかだが、感情は冷えている。
 ざわりと木々が鳴り、真夜中の冷たい風が吹き抜けた。
「忠義がすりこまれたものに過ぎないなんて、よく言えたものね。あなたがそれを言うの? あたしたちの使命を知っているあなたが?」
 何も言えずに黙りこむ。
 これは吉野なんだと何度も言い聞かせるが、どうしても理解できない。
 心優しい少女だった。志葉丈瑠と同じ年に生まれ、久世家と志葉家の間を行き来しながら育てられ、高度な教育を受けた娘だった。
 少なくとも、朔に対してこんなぞんざいな口をきいたことはない。
 怒りがすべてを凌駕したのか。だが、それにしては、あまりに口調が平坦に過ぎた。まるで、限界まで感情をはぎ取ったかのような、色のない声。
「俺を恨んでいるのか?」
「それ以前の問題よ」
 言うなり、吉野は自らの衣に手をかけた。躊躇の欠片もなく、上半身を脱ぎ捨てる。
 反射的に目をそらした朔だったが、吉野は首元を締め上げるような勢いで、彼の顔を自分に向けさせた。恥じらっている様子など、まったくない。どぎまぎしながら吉野に視線を向け――息を呑んだ。
 信じられないものがあった。
 脳天を木槌で殴られたような衝撃が、胸の中心を貫いた。
「それ……は……」
 吉野の右肩に、握り拳よりやや小さな模様があった。折神と似た大きさのそれは、美しい虹と雲を漉きこんだ、やわらかなラインを描く桜色の蛤の刺青だった。
 真夜中の粋を集めたような美貌にわずかな曇りも見せず、吉野は笑顔を浮かべた。
 朔は固く目を閉じる。脳裏を走ったのは、呪詛とも怨嗟ともつかぬ、どす黒い言葉の群れだった。
 なぜ、あんなものが吉野に彫りこまれている?
 理由はあまりに明白だ。
 血を吐くように朔は叫んだ。
「ショドウフォンは!?」
「……捨てさせられたわ。あたしたちをかばってくれる人なんて、いなかった。あなた以外は!」
 吉野の手が蛤に触れた。淡い月光に薄ぼんやりと輝くのは「封」の文字。
「そんなものを宿していたら……」
「死ぬわね」
「わかっていて、お前は……!?」
「殿も守れず、侍も守れず、あたしたちは生き残った。許されると思う? あたしたちは……少なくとも、あたしと鏑は死ななきゃならなかった。殿より先に」
「日下部殿はこのことを知っているのか」
 知らないだろう。許すはずがない。
 激痛をともなう結論を、吉野は首を振ることで肯定した。
 吉野は祖父母と母親を、鏑は母と妹をのぞくすべての血族を失った。先の、あの外道衆の襲来で。小さなちいさな手のひらからこぼれたものは、あまりに重く、大きかった。
 それでも、周囲はそれを認めなかったのだ。身を盾に守らねばならないはずの――しかも、それ以外に存在価値を認められていない家の――臣下の血縁が生き残り、志葉家当主が殺された。
 だから、本来ならば受け継がれるはずの朱色のショドウフォンは彼女たちの手から奪い去られ、伴侶にも等しい共神〔ともがみ〕はその力をもぎ取られ、主の体に封印された。
 封じられた共神は、命をつなぐために――存在を維持するために、主のモヂカラを食う。
 心通わせた相方が、自らの力を喰らう。日々衰えていくモヂカラは、そう遠くない未来に、吉野の命そのものを食いつぶすだろう。
 最後に残るのは、主を殺め、その存在理由を失った共神の残骸だ。
「あなたが……あなただけが、私たちを助けてくれたかも知れないのに」
 すべてを投げ捨て、朔は志葉家を出た。生き残ってしまった少女たちに降る、過酷な使命に考えを及ばせることもなく。
 吉野たちの存在を知っている黒子はほとんど生き残らなかったし、志葉丈瑠は幼くて、彼女たちの存在を知らされていなかった。おそらく、日下部彦馬もすべてを把握してはいないだろう。
 これが、逃げた代償だというのか。
「生き残ってしまったのが罪だというの? 死ぬべきなのに死ななかったから? あたしだって……生きたい、のに」
「恨んでいるのか? 志葉家を……」
「恨むわけないわ」
 吉野はあっさりと言う。本心と知れて、うそ寒いものを感じた。
「これをやったのは黒子長だもの。前のね」
「……前、の?」
 そういえば、かつて世話になった黒子長の姿がない。その息子も、見かけなかった。傷を負ってはいたが、命に関わるようなものではなかったはずだ。
「復讐なら果たしたわ」
「なんだと!? まさか、お前……」
「許せなかったのは!」
 叩きつけるような口調に気圧される。黙りこんだ朔へ、吉野は凄絶なまなざしを向けた。
「あたしと鏑ならともかく、物心つかなかった鶸にも……生まれてさえなかった朝影にもやったことよ!」
「朝影?」
「奥泉の娘よ」
「奥泉……? 影絵の娘か!」
「あの男を許せるわけないでしょう!? なんで、戦えもしなかった子供に、産まれてもなかった子供に、こんなものを刻めるの!? あたしたちは……」
「本家の侍が絶えたとき、あるいは戦えない状況になったとき、唯一代替としてショドウフォンを授けられるもの。その資格を持つもの」
 その声に、ふたりは鋭く振り返った。
 振り向いた先にいたのは、覆面を手にした青年だった。穏やかな面差しに苦笑が浮かんでいる。
 まったく気配に気づかなかった。
 柔和な面差しと愛情深いまなざしに、吉野はわずかに動揺を見せた。
 朔は、彼が恐ろしく澄んだ美貌の持ち主であることに気づいた。性別を考えずに美しさだけを問えば、吉野にも勝るだろう。
 彼は地面に落ちていた上衣を拾い上げ、吉野に手渡す。
 ごそごそと着こみながら、吉野はやわらかなまなざしを青年に向けた。
「ありがとう……鶸」
「僕はよかったと思っていますよ。この……蝶の刺青があって」
 蝶、ということは新田家の人間だ。新田は女にしかモヂカラの発現がないと聞いていたが。
 彼は数少ない例外らしい。
「あなたたちにだけ刻まれて僕になかったら……たぶん、同等とは思えませんでした」
「のんきね。まあ、あなたのそんなところが好きなんだけど」
「恐縮です」
 心許したもののみに流れるやわらかな空気は、ぎりぎりまで研ぎ澄まされていた吉野の心をなだめてくれたようだ。
 次に彼女が朔に視線を向けたとき、平坦な翳りは消え、理知的な光が宿っていた。
「あたしはあなたを恨んでないわ。許せないだけ」
「……日下部殿に」
「言ってもいいけど、解決できないと思うわ」
「せめて、共神の侵蝕を抑えるだけでも」
「できるならあたしたちでやってるわ」
「解放は?」
「殿のモヂカラじゃ、まだ無理よ。命と引き替えにするなら、ひとりくらいは解放できるかも知れないけど。意味ないでしょう?」
「封印された頃は、僕たちも幼児でしたからね。あれからだいぶ修行しましたし……少なくとも、僕たちの数倍のモヂカラがないと難しいでしょう」
 生き残るためには、モヂカラを強化していくしかなかった。だが、それ故に、共神を解放するには、ふくれあがった彼らのモヂカラをさらに上回るモヂカラが必要だった。
 業、とは言いたくない。
 このまま彼らを死なせたくない。朔が逃げ、誰も彼らを守らなかったから、共神封印という非道が行われたのだ。
 だから――。
「お前たち、いつまで生きられる?」
 小細工などせず、まっすぐに問いかけた。
 吉野は凛と、鶸は穏やかに笑みを浮かべ、異口同音に答えた。
「あと数年」
「日下部殿にも相談してみよう。お前たちの呪いを解除する方法を見つけ出す。行方不明の折神の中に、もしかしたら、解呪できる奴がいるかもしれない。……1年待ってくれ」
「1年、ね。そのつもりで生きるわ」
 その声音にぞっとした。
 1年しか生きない。吉野はそう言っている。
 朔が作ってしまったのだ。吉野の、命の期限を。自らの限界を見定め、これから先、吉野は少しの余力も残さず、モヂカラを削りはじめるだろう。
 許せないといったその言葉に、一切の偽りも容赦もない。黒子として育てられる一方、侍としての教育も受けてきたのだ。
 気遣わしげに吉野を見つめる鶸は、これまでと変わりなく生きるだろう――新田の人間は心優しい。先の襲撃の際も、他の黒子たちの盾となって死んでいった。
 その優しさを利用するしかない自分に吐き気がする。
「必ず助ける」
 ふたりを見つめ、強く言い切る。そうでもしないと、自ら言葉を撤回してしまいそうだった。
「待っています」
 鶸はやわらかに答える。
 吉野は何も言わず、頭巾を付けた。背を向けて立ち去る背中は、壮絶な使命を否応なく背負わされたとは思えないほど、気負いがない。
 助けられるはずのものを放り投げた対価が、重くのしかかる。
 何も知らないまま耳を塞いでいた頃の自分を殴りつけたかった。

*  *  *

 共神は、折神の亜種だと思って頂けると。

 こんなものをアップしていいものだろうか、果たしてシンケンジャーという括りに入れていいものかと悩みに悩んだあげく、アップしてみることに。
 だが私は謝らない by烏丸所長