花/シンケン



 庭の隅のあまり陽の当たらないところに、雪柳がちょこんと丸まるように並んでいる。ちらちらと白い花を結ぶさらに奥に、とても小さな株があった。
 花はほんの数個ほころんでいるだけ。哀れなほど小さくて、葉の色も薄く、枝振りも悪い。
 その前にしゃがみこんだ千明は、ショドウフォン片手に首をひねっている。
「あっれー? なんでダメなんだ……?」
 花、と勢いよくショドウフォンを振り抜くが、葉に触れる前に、ほどけるように消えてしまう。
 最近こっそり持ち運ぶようになった小さな漢字辞典を確かめながら、今度はゆっくりと丁寧に文字を引いていく。力強い草冠に、跳ねの雄々しい「化」の字。淡い緑に輝いた文字に、千明は小さく歓声を上げる。
 だが、それもすぐに消えてしまった。水滴のように緑のしぶきが落ち、葉の表面を流れ落ちていく。
「……なんで?」
 しゃがみこんだまま髪をかき回す。あっという間に髪はぐしゃぐしゃになり、ショドウフォンから解きはなたれたでたらめなラインが、うにょうにょとよくわからない動きをしながら、木立の向こうへ逃げ出していく。
 書き順は、間違っていない。モヂカラも、たぶん足りている。
 他に何が問題なのか、さっぱりわからない。
 頭をひねっていると、背後で微かな音がした。振り返ると、深々とお辞儀している黒子と、不思議そうな顔をしたことはが立っていた。
「千明、何してはるの?」
 千明はぼりぼりと頭をかく。
「やー、こいつ咲かせてやろうと思って」
「雪柳? こんな隅っこで……頑張ってるんやね」
「でもさ、全然咲かねーんだよ……書き順あってるはずなんだけど」
 花、と書いてみせるが、やはり雪柳はぴくりともしなかった。首をひねる千明の隣で、ことはもうーんと首を傾げる。
 ふたりから少し距離を置いて立つ黒子は、実に微笑ましい気分でふたりの後ろ姿を見守っていた。
「千明じゃなくて、うちなんかな」
「はぁ?」
「必要なの、木ぃやなくて、土なんかな……」
 ショドウフォンを抜いたことはが、きまじめな顔で、空気に文字を書きつける。さらりと風になじんだ「花」の字だったが、やはり、雪柳に触れる前にくずれて消えてしまう。
「あかん、うちのもダメや……」
「っつーか、花咲かすのは土じゃなくて木だろ……」
「あ、じゃあ、こんなんどうかな」
 ことはが迷うことなく書きつけたのは「壌」だった。力強く輝きながら、雪柳の根元に降りかかる。
「あかん……かぁ。これなら……」
 次いで描き出されたのは「饒」。だが、これも浸透せずに消えてしまう。
 千明は目をむいた。
「なんだよ、今の!?」
「土を豊かにしたらええかなーと思って。でも……」
 残念、とため息をつくことはとは対照的に、千明は口を半開きにして、ことはと雪柳を見比べていた。
 読めない字ではない。だが、書けと言われても絶対に無理だ。まず、文字がどんな形をしているか、思い出すことさえできないだろう。いざ書き始めたとしても、書き順がわからない。
 こいつすごすぎだろ、とじろじろ見ている千明の視線などまったく気にした様子もなく、ことはは髪を揺らして振り返った。
「殿様に訊いてみるのはどうやろ?」
「ぜってぇ訊かねえ! 馬鹿にされんだろ!」
「殿様はそんなことせんって。きっと、笑って協力してくれはる! 花が咲いたら、殿様も嬉しいはずやもん」
「笑ってって……そりゃねえだろ、いくらなんでも!」
 花が咲いて喜ぶ丈瑠なんて、千明には想像もつかない。ことはの純粋さが、少々おそろしくなってきた。
 自分にもこんな時期があっただろうか――いや、たぶんない。幼少期から今に至るまで、いつでも反抗期真っ盛りだったような気がする。侍の修行が遅れているのも、もしかしたらそこに原因があるかも知れない。
 ぽーんと飛んだ両親だったから、というのももちろん理由ではあるのだが。
 あまり考えすぎると打ちのめされそうなので、斜め後ろ向き思考はとりあえずストップさせる。
「殿様がダメなら、茉子ちゃんか流さんに……」
「ねえさんはともかく、流ノ介はやだ」
「じゃあ、茉子ちゃんに……あ、あかんわ。今日は料理したい言うてた」
「料理!?」
 素っ頓狂な声を上げた瞬間、衣擦れが近づいてきた。
 振り返ると、黒子が深々と頭を下げ、何か描くような仕草をした。ふたりにもわかるよう、側の木に書きつけるようにして。
 偏に小さく「口」を書いて、作りには――。
「……『咲』?」
「『咲』く!? そうか、こいつらつぼみつけてるし、あとは咲かせりゃいいのか!」
 目の前で書いてもらったし――黒子の筆順さえ間違っていなければ――書き順もバッチリ。
 千明は嬉々としてショドウフォンを構えた。一画ずつ、丁寧に、力強く線を引いていく。角はしっかり止めて、払いは伸びやかに。
 輝いた文字が弾け、雪柳に降りそそぐ。慎ましやかに閉じていたつぼみに浅い裂け目が入り、ゆるゆると小さな花びらが開いていく。
 数秒ののちには、可愛らしい花を並べた房が、いくつも垂れ下がっていた。風に揺られ、気持ちよさそうにそよぐ。
 千明は拳を突き上げた。
「っしゃ!」
「わあ、きれいやねえ」
「サンキュー、黒子ちゃん……あれ?」
「あれ? どこ行かはったんやろ……」
 ふたりが振り返ったときには、黒子の姿はなかった。今まですぐ後ろにいたことが嘘のように、影も形も残っていない。
 立ち去ったことにさえ気がつかなかった。
「何しに来たんだ、あいつ……」
 首を傾げてつぶやく千明に、ことははぽんと手を打ち鳴らした。
 純真きわまりない笑顔を見て、千明は反射的に後ずさりしたくなった。絶対に何かある。何か良くないことが待っている。
「そうや。うち、千明探してたんよ。そしたら、あの黒子さんが案内してくれはって」
「……で? 俺はここにいんだけど?」
「うん、茉子ちゃんがね、ちょっと味見してほしいて」
「うえぇええぇ!?」
「こないだごちそうになったから、お礼作るって言うてはった。おみそとお醤油、どっちがいいかようわからんから、って」
 逃げるべきか、おとなしく連行されるべきか。どちらにしても究極の選択だ。流ノ介とは違って、千明がどれだけ根性出したとしても、茉子の料理を完食できる自信はない。
 というか不可能だ。
 へにゃへにゃとその場にしゃがみこむ千明と、慌てて支えようとすることは。
(俺、なんか悪いことした……?)
 泣きたい気持ちで、千明はがっくりと肩を落とした。

 庭を掃いていた鶸は、近づいてくる朝影に気づいて顔を上げた。なぜか楽しそうな足取りだ。
 周囲に誰もいないことをしっかり確認し、朝影がそっと顔を寄せてくる。
「めずらしいね、口出しするなんて」
 どうやら、しっかりばれているらしい。鶸は内心で苦笑する。
「あんなに隅っこの花にまで気をかけて下さるのが、とても嬉しくて。つい出過ぎた真似を。僕が書くわけにもいきませんからね……」
「ほんとは書いてやりたかったんでしょ。『花』って」
 これには、覆面の下で微笑するだけで答えなかった。何を言っても嘘になりそうな気がした。
 千明のモヂカラは、どちらかといえば「葉」や「草木」に働きかける力だ。だから、「花」にはなかなか浸透しなかった。思いを無駄にしたくなくて、そっと力を貸した。
 黒子に徹さずに。
「そだ、お台所の監督、吉野さんに頼んだから、ちょっとは無事だと思うよー」
「茉子さんのお世話って、君の仕事だったような気がするんですが……」
「お台所は無理」
 明るく言い切る年下の同僚に、鶸は苦笑するしかなかった。

*  *  *

 我が家の雪柳がとてもきれいに咲いていたので。

 ちなみに。
 鶸→男性陣(池波、千明)のお世話、朝影→女性陣(茉子、ことは)のお世話、吉野→殿のお世話と雑務、鏑→旗手と警邏、となってます。