解毒/シンケン



 真夜中、虫たちの声がどこか遠い。寝具に横たわり、丈瑠はぼんやりと天井を仰いでいた。わずかに痺れの残る体をもてあます。
 神経がちらつき、疲労は深いというのに一向に眠りが訪れない。時計を見やれば、すでに夜中の2時をまわっている。
 黒子に薬湯を頼むか。あるいは、木刀を振って体を徹底的に疲労させるか。
 黙考し、起きあがる。かすかに喉がうずいた。じん、と指先に衝撃が走る。
「情けないな……」
 ぽつりとつぶやきを落とした。額をぬぐう手は汗にまみれている。
 気づかずに毒茶を飲んでこの有様だ。まだ毒が抜けきらない。
 障子に淡い人影が揺れた。
「……吉野か」
 完璧な所作を持って開けたてられた障子から部屋に滑りこんできたのは、覆面を外した黒子――丈瑠の予想通り、何かと姿を見せることの多い吉野だった。
 何のためらいもなく寝所に踏みこむと、両膝をそろえて頭を下げる。
「お説教とお願いに参りました」
「なに……?」
 彼女はぬばたまの髪がつややかに肩を滑るに任せ、平伏したまま言葉を紡ぐ。
「お仲間に毒味をさせろと申し上げる気はありませんけれど」
 やや強い口調になり、顔を上げる。灯りを落とした室内で、日焼けしていない白い肌が薄ぼんやりと輝いているように見えた。
 顔だけがいやに目立つ。目元にうっすらと浮かんだ隈も。
 気になるのは黒子のお仕着せのせいだ、と丈瑠は胸中でつぶやく。心配をかけたことへの罪悪感では、断じてない。
「いくら慣れた場であっても、何の警戒心もなく飲食されるのはいかがなものかと」
「…………」
「結界で守られているわけではありませんのよ」
「わかってる」
 何もかも見透かしたようなこの黒子には、どうにも頭が上がらない。
 迂闊だった自覚もある。最近は疎遠になっていたものの、何度となく通ってきた寺だ。僧たちが良からぬ気を起こすはずもなく、警戒すべき場所でもなかった。
 だが、注意はしておくべきだった。封印の文字を知るのはこの世に丈瑠ただひとり。外道衆の追及の手は一旦は緩んだとはいえ、なくなることなどあり得ないのだから。
 わずかではあったが油断があった。認める、反省もしている。
 何より、大切な臣下や友人たちに多大な心配をかけてしまった。すぐには動けなくなるほどの大ケガも負わせてしまった。一口で気づいていれば、あそこまで事態は悪化しなかっただろう。
(……わかってる)
 とはいえ、何だか面白くない。だだをこねる子供のようだと自覚しながら、むくむくとわき上がる反発心をかみつぶす。
 感情の重しがすぐに消えてしまうのは、どこか気安い感覚があるからだろうか。
 他人という気がしない。
「腑破十臓のこともありますし」
 胸の奥にずん、と重い衝撃が走る。冷たい鎚を打ちこまれたような感覚だった。
 吉野から目をそらし、天井をにらみつける。
 腑破と相対する丈瑠を見つけ、彦馬に報告をやった黒子は、目の前のこの吉野だろうか。だとすると、あの会話も聞かれていたことになる。
 いびつ、という言葉を。
 丈瑠の警戒を察してか、吉野はそれ以上言葉を重ねることはなかった。その表情からは、聞いていたのかいないのか、判断することはできなかった。
「それだけか」
 低く問いかけると、彼女はなぜかため息をつく。
「お説教とお願いだ、と申し上げたはず」
「……それで?」
「梅盛殿には感謝しておりますけれど」
 吉野はかすかに眉根にしわを寄せる。
「あたしの頭巾を剥がそうとするのは止めて頂きたいわ。あと、あたしは生の海産物はあまり食べません」
 うんざりした言いように、柄にもなく噴きだしそうになった。腕を組んでごまかしたが、吉野はしっかり気づいたらしい。わずかに唇の端が下がる。
 そういえば、なぜか源太はこの黒子がお気に入りだった。態度を見る限り、女性だとは気づいていないらしいが、しつこくしつこく屋台に誘っているところを、何度か観たことがある。さらには、めずらしいことだが千明が仲裁に入って、吉野を逃がしているところも。
 流ノ介などは未だに黒子の見分けがつかないようだが、源太はすでにほとんどを把握しているらしい。吉野以外の黒子にまとわりつくところを見たことがなかった。
 もっとも――情けないことに――丈瑠が吉野と他の黒子の見分けがつくようになったのは、最近になってからだが。
 源太が出入りしていた頃とは、だいぶ黒子の構成も違うはずだ。それでもすぐになじんでみせたのは、ある意味千明にも共通する人なつこさがあるからかも知れない。
 丈瑠にはないものだ。
「嫌いか、寿司が」
「……海産物を生で、というのが苦手なのです」
「なぜ」
 吉野は肩をすくめる。
「あたしの共神が『貝共神』だからですわ」
 真っ正面から見据えた吉野の眼光は、おそろしく強い。
 どうやら、源太に対し、怒るに怒れず鬱憤がたまっていたようだ。
「しかも、ホタテや赤貝ばかり勧めてくるんですもの。まるで共食いだわ」
「それは……大変だな」
 笑いをかみ殺しながら言うと、吉野は頭巾をもてあそびながら、小さく頭を振った。
 何も言う気力が起きないらしい。
 少しいたずら心を起こして言う。
「そんなに簡単に見分けられるなんて、鍛錬が足りないんじゃないのか?」
「お暇を頂けるなら鍛錬し直してきますけど」
「無理だな」
 丈瑠は即答した。唇の両端をわずかに持ち上げる。
「暇はやれない。愚痴を聞かせる相手がいないと、俺も困る」
 吉野はぽかんと口を開いた。羊が人語を喋ったのを目撃したような、何とも言えない驚きの表情だ。あり得ないものを見たような――いや、聞いたような。
 ゆっくりとまばたきし、ことんと首を傾ける。恐る恐るといった体で言った。
「冗談……ですよ、ね?」
「たぶんな」
「……それを、あたしじゃなくお仲間に言って差し上げれば良いのに」
「お前は俺の母か」
「……言っておきますけど、生まれ月で言えばあたしの方が年下です」
「そう考えると、お前も源太と幼なじみみたいなものか」
 吉野は心底情けなさそうに頭を抱え、うつむいてしまった。
「言われてみればそうですわね……」
「そう嫌ってやるな」
 不意に吉野が頭巾をわしづかみにした。手早く髪をまとめ、頭巾をかぶる。
 どうしたのかと思わず身構えると、どたどたとにぎやかな足音が近づいてくるのに気づいた。千明かとも思ったが、どうやら違う。
 遠慮なく近づいてくるその音は、間違いなく源太のものだ。
 いつの間にか丈瑠の寝具を越え、床の間の方へと下がっていた吉野は、素早く頭を下げると、小さく右手を振った。軌跡に淡く虹が立ち上る。やわらかな輝きが大きな七色の弧を描き、吉野の頭上に広がった。
 覆面の向こうで表情は見えない。だが、苦り切った面差しが見える気がした。
 ぺこりともう1度頭を下げ、吉野は虹をくぐる。
 その姿が消えると同時に、本当に何の遠慮もなく障子がひらかれた。
 あまりの勢いに、反射的に立ち上がる。
「丈ちゃん!」
 飛びこんできたのは、つい先ほどまで話題に上がっていた梅盛源太。千明のところにいたらしく、腰にはなぜか熊折神がくっついていた。
 寝間着にねじりはちまきという意味不明な格好で、源太はテンション高く叫ぶ。
「夜にさ、千明んとこで寿司作るから食べに来いって言ったんだけどさ、来ねえんだよあの黒子!」
 正直、先ほどまで吉野の話を聞いていなければ、さっぱり意味のわからない内容だ。
 何だかいろいろ省かれている。
「何してんだよ源ちゃん!」
 まだ足音が続いていると思ったら、今度は千明が飛びこんできた。
「俺の熊ちゃん返せって!」
 ポケットに半ばねじこまれていた熊折神を取り返し、ほっとしたようになでる。変化した熊折神も、安堵したように千明の腕を駆け上った。やわらかそうな髪の上で、源太に憤慨したように跳ねる。
「ああもうそれどころじゃねえだろー! あの黒子来ねえんだよ、あの黒子!」
「だからって、夜中に丈瑠の部屋来て大騒ぎするとかわけわかんねーし! 黒子ちゃんだって逃げるっての!」
「だってあの黒子だけだぜ、俺の寿司食べてねえの!」
 丈瑠を置いてけぼりにして、ぎゃあぎゃあと言い争いを始める。
 これは確かに嫌かも知れない。
 第一、夜中に寿司を食べに来いというのがまずわからない。こんなに大騒ぎしていて、流ノ介に怒られなかったのだろうか。
 大騒ぎする前に出てきたのか。
 後者のような気がする。
「お前たち」
 精一杯ドスを利かせて呼びかけると、千明は面倒くさそうに、源太は至極不満そうに振り返った。
 行儀悪いとは知りつつも、丈瑠はふたりを交互に指さしたのち、廊下を示した。
「いいから出ていけ。もう2時を過ぎてるんだぞ」
 千明が大きなため息をつき、源太の肩を叩く。
「だから言ったろ? 丈瑠に怒られるだけだって」
「なんだよー、わかってくれないのかよ丈ちゃん!」
「わかるか!」
 源太は不思議な動きとともに、顔の筋肉を総動員させて不満の表情を作った。
 千明が腹を抱えて笑い出す。落ちそうになった熊折神が、慌てて髪にしがみついた。
「源太、あまり黒子を困らせるな。黒子がいるから、屋敷も機能しているんだ。荷物まとめて田舎に帰られでもしたら迷惑だ」
「けどよぉ」
 不満たらたらの源太を視線で促す。千明はひらひらと手を振って障子へ向かったが、源太はなかなか動こうとしない。
 丈瑠はため息を落とす。
「あんまりしつこくすると嫌われるぞ」
「……そっか、そりゃ困るな」
 腕組みし、難しい顔で考えこんだ源太の襟首を、戻ってきた千明が後ろからひっつかむ。
「なにしてんだよ源ちゃん。はやく戻ろうぜ。朝稽古に遅刻したら、また流ノ介にがみがみ言われるし」
「けどよぉ……」
「いいから帰れ。寿司は他の黒子に勧めろ」
 千明に引っ張られ、ようやく源太が廊下に出て行った。障子が閉まり、ふたりの声が遠ざかっていく。言い合いがどんどん小声になっていくのは、彦馬や流ノ介を恐れてのことだろうか。
 急に静まりかえった部屋に取り残され、丈瑠は小さく首を振る。
 どっと疲れた。
(遅刻したら茉子にしごかせるか)
 そう心に決め、寝具に入る。心地よい眠気が駆け寄ってきた。

 翌朝、千明も源太も朝稽古の時間には間に合ったが、稽古着のあわせを間違えていたため、流ノ介にこっぴどく叱られていた。
 木刀にもたれて眺めていた丈瑠の視界に、そそくさと庭を横切っていく黒子の一団が見えた。よそ見をした源太が、流ノ介に耳を引っ張られて悲鳴を上げた。
 セミが元気に騒いでいる。
 今日は暑くなりそうだ。

*  *  *

 夜中SHT(もちろん録画)を観ていて、不意に思いついたお話。米太郎(源太のことです)はどうにも苦手ですが、意外と動かしやすいことに気づきました。

 視点を自由視点(神の視点)から三人称主観に戻しました。こちらの書き方の方がやっぱり落ち着きます。