嵐が来る / ダブル 風都の風の中を疾走する快感は何物にも代え難い。だが、こうして舟に揺られてのんびりと行くのも悪くない。ファングはそう結論づける。正確を期すならば、ファングが今おさまっているのは舟ではないけれど。 胸にストラップをつけたデンデンセンサーを提げ、バッグから顔を突き出したファングを連れた亜樹子は、肩ひもを揺すり上げて森へと足を踏み入れた。 深閑とした、薄青い空気。酷暑のさなかでも不思議な冷感を纏う小さな森。 ファングにも単純ながら好悪の感情が設定されている。この森は苦手だ。単独で近づいたこともない。センサーに入るわずかなノイズが、クリアな基礎思考回路をわずかながらかき乱す。 『亜樹ちゃんを頼むよ』 そう言って送り出した主の姿がメモリーの表層にちらついた。覚悟を決めた、という言葉がライブラリから浮かび上がる。ならば自分も覚悟をするべきだろうか――ファングにはよくわからなかった。 揺れがおさまる。 「ここにいるのね?」 その声に顔を上げる。ファングが首を傾げたのを警戒と取ったらしい。ガジェットモードのデンデンセンサーを目元にかざし、しきりと周囲を見回した。唇は強く引き結ばれている。 「シュラウド!」 亜樹子が叫ぶ。何度も、何度も。ファングはセンサーの感度をしぼらなければならなかった。 「ここよ」 その気配を、ファングは察知できなかった。突然のホワイトアウト――気づくと、10メートルほどの距離をおいて、黒ずくめのシュラウドがたたずんでいた。 言うなればファングの生みの親だが、ファングにとって重要なのは来人であるところのフィリップだ。取るべき態度を決めかね、バッグから顔を突き出したまま行方を見守ることにする。 一方のシュラウドも、亜樹子との距離を測りかねているようだった。暗いサングラスの奥から亜樹子に注がれるまなざしには、戸惑いが強い。 「なにをしに来たの」 はねつけるような固い声だった。亜樹子は首元に下ろしたデンデンセンサーの殻をそっとなでる。視線はまっすぐにシュラウドを捉えていた。 「ちょっと話したいなって思って」 「私にはない」 シュラウドはにべもない。 「フィリップ君のこと、話したかったの」 「私はもう覚悟を決めた」 体の両脇に下ろされた亜樹子の指が神経質に跳ねる。ファングはバッグの上に陣を移した。 「この2年、ずっと来人を見守ってきた。来人は幸せだった……」 「翔太郎君がいたから? あたしや、竜君もいたから?」 「……もう、充分。あの子は幸せだった」 「全然充分じゃないよ!」 亜樹子が叫ぶ。頭に水滴が弾け、ファングはあごを上げた。センサーアイをかすめ、もう一滴。亜樹子の頬を涙が伝う。体表を伝うあたたかな雫を、ファングはそっと振り落とした。 「充分なわけないじゃない……」 シュラウドは目をそらした。帽子の縁に隠すように顔を背ける。 「幸せだと思うの!? フィリップ君、消えちゃうんだよ……」 ファングにはうまく判断できなかった。地球に戻ることの不幸せと、データの肉体で生きることの幸せと。どちらがより幸福なことで、主が望んでいるのか――でも、地球になってしまったら、二度と触れられないことはわかった。同時に、地上にある限り、いつでもその存在を感じていられることもわかった。 左翔太郎はフィリップの消滅を望まない。亜樹子も照井竜も、望んではいない。だが、後者は覚悟に準ずる決意をしている。 前者は留まろうとしている。勝手な決断で敬愛する師匠を死に追いやった青年は、自らの決断で相棒の消滅スイッチを押さなければならなくなったのだ。 ファングの演算機能でも、やはり、結論は出なかった。なにが良くて、なにが悪いのか。 「やっと……やっと、あんな風に笑ったり、怒ったり、泣いたりできるようになったのに」 「あの子はもう死んでいるのよ」 「でも、今、フィリップ君は生きてるじゃない」 「……データとして」 「データでも、あれが本当の体じゃなくても、フィリップ君は生きてる。生きて、あたしたちの目の前にいるんだよ」 シュラウドは体ごとそっぽを向いた。肩がわずかに震えている。亜樹子はその前に回りこんだ。すがるようにシュラウドの肩をつかむ。 「いいはずないでしょ。ねえ、いいなんて思ってないでしょ? ほんとにそんなこと思ってたら……可哀想だよ、フィリップ君」 「…………」 「ううん、フィリップ君だけじゃない。若菜姫も、冴子さんも……みんな、可哀想だよ!」 シュラウドが手を上げた。緩く指が握られているのを観て、ファングは亜樹子の肩に駆け上がる。殴りつけるつもりなら、たとえ相手がシュラウドでも戦わなければならない。 だが、ファングの恐れをよそに、シュラウドはそっと亜樹子の手をほどいただけだった。振り払う強さもない。懇願するような弱々しさに、亜樹子の手はすべり落ちた。 シュラウドは一歩だけ下がった。 「あたし、なにやってんだろ……」 亜樹子がぽつりとつぶやいた。見上げた先で、唇がさらに強く引き結ばれる。耐えかねたように頬のあたりが震えた。乱暴に涙をぬぐう。 再びのぞいた瞳は、ぬれてはいたが強い意志を宿していた。 「あなたは、もうずっと前に覚悟を決めてたんだね」 シュラウドはうつむいた。唇のあたりがわずかに動くが、声はない。ファングのセンサーにも引っかからなかった。レースに包まれた指が組みあわされた。 「知ってたんだね」 帽子の縁にシュラウドの顔が隠れる。表情などうかがい知ることもできないのに、レンズ越しでも目を合わせるのが怖いのか。視線を地にさまよわせている気配がする。 つと亜樹子は歩み出た。下がろうとするシュラウドに両手を伸べる。戸惑うように動きを止めた背に、腕を回した。シュラウドは体を強ばらせたが、振り払いはしなかった。亜樹子の手が優しく背を叩く。 「ひとりでずっと苦しんで……受け入れるしかなかったんだね。お母さんだもん、いちばん辛いの、あなただよね……」 シュラウドの喉が小さな音をたてる。 親の愛情は理屈では計れない――ライブラリからそんな言葉がこぼれ落ちる。データの集合体となってしまったとはいえ、愛する息子が生き続けることを願わないはずもない。 シュラウドは静かに亜樹子の腕を離れた。 「笑顔が私の望み」 来人が笑顔で地球へ還ること、亜樹子たちが笑顔で見守ること。それが、望みなのだと。 彼女は本当に諦めてしまっているのだ。 「奇跡は、ないの?」 唇のあたりの包帯がわずかに浮き上がる。ため息にも見えたが、ファングのセンサーは切ないつぶやきを逃さなかった。「奇跡が、起こればいい」――。 亜樹子の耳には届かなかったようだ。拳を握りしめることもできず、すがることもできず、デンデンの殻をなでている。まっすぐにシュラウドの目のあたりを見つめるまなざしは、ガジェットに過ぎないファングの心を揺さぶるほどに強く、澄みきっていた。 今度こそシュラウドは身を翻したが、亜樹子は止めなかった。いいの、と見上げるが、ファングの仕草には気づかなかったように、去りゆく背中を見つめている。 風が吹き抜ける。哀しみの風、決意の風、運命を揺り動かす風都の風が。 この風が、亜樹子やシュラウドの望む奇跡につながっていることを、ファングは祈った。そうして、ガジェットに過ぎない自分にも祈るという行為ができることを、初めて知った。 * * * 第47話視聴して、いろいろ止まらなくなりそうだったので。1回しか観ていない(しかも、母と話しながらだった)ので、かーなーりうろ覚えですがorz 本編を見る限りでは、亜樹子がシュラウドに会いに行く時間はなさそうでしたが……。そのため、あえて時間帯の表現はなし。 ガジェット視点で書いたのは初めてかも知れません。 |