バスパニック/ダブル



 土まみれ、ほこりまみれで事務所に帰った翔太郎は、扉を開けた瞬間、手にしていたメットとグローブを落っことした。
 何かを一心不乱に眺めていたフィリップは、初めて気がついたように顔を上げる。
「やあ、翔太郎」
「……ありえねえ」
 生き生きと振り返った相棒は、頭の先からつま先まで、まるでチョコレートでも流しかけたかのように泥まみれだった。下の扉から事務所まで伸びていたかぱかぱに乾いた泥の靴あとは、相棒の仕業だった――翔太郎は頭を抱えこむ。
 顔と手の汚れは何とかぬぐったようだが、その他はまったく手をつけていないようだ。乾いた泥のかたまりが事務所のそこかしこにこぼれ落ち、無数の足跡が交差していた。それだけならともかく、ソファやテーブルにも泥がこすれた跡がついている。
 今朝、ぴかぴかに磨き上げて出かけたはずなのに――。
(落ち着け、落ち着け俺……)
 大きく深呼吸した瞬間、髪からこぼれ落ちたほこりを吸い、思い切りむせた。相棒のあまりにも不思議そうなまなざしに、情けないやら恥ずかしいやら。
 開け放しになっていた玄関から風が吹きこみ、乾いた泥を巻き上げる。大慌てて扉を閉めると、内側にも泥の手形がついているのを発見した。転びそうになって手をついたらしい。
 嫌がらせか。
 被害妄想に走りそうになる翔太郎を、フィリップの声が押しとどめた。
「翔太郎、あの『宅配便』というのは面白いね」
「……は?」
 砂埃をまき散らしながら、相棒が歩み寄ってくる。その手には、最近妙にお気に入りのホワイトボードがあった。小さな文字がびっしり詰めこまれている。もう少し大きいのを買ってやるかな、などと現実逃避をしかけ、慌てて首を振った。
 その間も、フィリップは宅配便のシステムについて滔々と語っている。どうやら、留守中に来た宅配便の荷物を彼が受け取り、興味を持って追いかけていったところ、通りかかった車に泥を引っかけられたらしい。
 泥まみれで追いかけていくのも面倒になって戻ってきたらしいが――顔と手を拭くことには思い至ったものの、その他までは気が回らなかったようだ。
 相棒曰く。
「泥まみれでも検索に支障はないから、気にならないけどね」
 確かに検索に支障はないだろうが、日常生活にとても支障があると思うのは、翔太郎の気のせいだろうか。もっと気にしてほしい、ぜひとも。こんな泥まみれ――今はかぱかぱになっているが――な事務所で一夜を過ごすのは、翔太郎には絶対無理だ。
 張りこみ中ならともかく。
 自分の事務所の中で張りこみをする気はないし、サバイバルスキルを試す気もない。
「や、気にしろよ。俺が気にするよ。って、ここ掃除するの俺かよ……!」
「僕がやろうか」
「……いや、お前にやらせると、余計に手間がかかりそうだ」
 途中で検索を初めて、その辺の裏紙に書きこみを始めるのは目に見えている。重要書類や報告書にまで書きこまれたらたまったものではない。
 帽子のほこりをはたきながら、翔太郎はため息をついた。これはもう、どうしようもない。見上げた時計は午後の3時。冬の陽射しは、だいぶ夕暮れに近づいている。
「お前、風呂入ってこい」
「風呂? なぜ」
「いいから入ってこい。服は洗濯機に入れんなよ。たらいにお湯はって、そん中入れとけ」
 じっくりと観察するように見つめられて落ち着かない。だが、自分なりに何かを考えて納得したのか、数秒間固まっていた相棒は、妙にすっきりした笑顔でうなずいた。
 何だか不安になってくる。
 風呂場へ向かうフィリップの背を見送り、再び大きなため息。
 本当は、翔太郎も今すぐお風呂に飛びこみたい。髪はじゃりじゃりだし、全身が粉を吹いたような感覚が気持ち悪くて仕方がない。だが、汚れの度合いで言えば、明らかにフィリップの方が重症だ。それに、一風呂浴びてきれいになったあとで、この大惨状の事務所を掃除するのはごめん被りたい。
 掃除用具を持ち出し、腕まくりをして、ついでに掃除用のエプロンを掛ける。
 そこではたと気がついた。
 フィリップは、まだ、ひとりでは風呂の用意ができない。
「……まずい」
 大慌てで扉を開け、脱衣所へと駆け寄る。ノックももどかしくドアを開けると、洗濯機の前に座りこんだフィリップが、ありったけの洗面器とたらいを引っ張り出しているところだった。
「……何してんだ」
 思わず問いかけると、床に尻の形の泥跡をプリントした相棒は、気むずかしげな顔で唇に手を当てた。
「君の言う『たらい』がどれかわからないから、検索していたんだ。翔太郎と僕、ふたり分の服をつけておくのに最適なものはどれなのか」
「……聞きに来いよ!」
 5枚も6枚も並べる前に。
 むしろ、なんで6枚もたらいやら洗面器やらがあるのか、翔太郎にはそれが不思議でならない。買った覚えはないから、おやっさんが用意したのだろうが。
 雨漏りしていた時期でもあったのだろうか。
 一抱えある大きなたらいを選んで渡すと、フィリップは興味深そうな目でたらいを見つめた。今にも検索しそうな様子に頭を抱えたくなったが、余分をせっせとしまい、給湯器のスイッチを入れ、タオルとバスタオルを用意する。
 ついでに、シャンプーが切れていたことを思い出し、新しいものを用意した。
(もー……俺はお父さんか!)
 ためつすがめつするフィリップの手からたらいをひったくり、抗議の声を無視してさっさとお湯をはった。ネクタイをむしるようにほどいて入れてみせると、フィリップもパーカーを脱ぎ、なぜか丁寧にたたんでから――もちろん、周囲には泥が飛びちった――たらいに沈める。
 ちゃんとできたよ、とでも言いたそうな満足げな視線をはいはいと受け流し、フィリップとたらいと風呂場を指さす。
「いいか? 次からは、泥かぶったりしたらすぐに服脱いで洗って、自分も洗ってちゃんと着替えとけ。風邪引くぜ」
「わかった」
 本当にわかったのかどうかは怪しいが、翔太郎は事務所に戻った。ほんの数カ月前に比べれば格段に手がかからなくなったとはいえ、常人とは明らかに視点の違う相棒は、ときに翔太郎の神経をおそろしく摩耗させる。
 あんな大きな子供を持った覚えはないのだが。

 せっせと掃除をしていると、電話が鳴った。レトロなベルの音に顔を上げると、時計は3時半を回っている。
 額の汗を無造作に袖口でぬぐい、翔太郎は受話器を取り上げた。
『翔太郎か?』
 名乗るよりはやく聞こえたのは、刃野の声。
「ああ、刃さん。こっちに電話なんてめずらしいっすね」
『馬鹿野郎、ケータイに何度電話しても出なかったから、事務所にかけたんだよ』
 掃除機の音で着信音がかき消されていたらしい。
「すんません、今、掃除中で」
『そっか、ばたばたしてるときに悪いな』
「なんかあったんすか?」
 放りっぱなしにしておいたぞうきんを取る。デスクを拭きながら問いかけると、刃野はうなるように言った。
『厄介なヤマがあってな。最近、お前さんそういうの詳しいだろ。話聞きたくてな』
「……今から?」
『ああ。あと30分くらいしたらそっち着くからな。よろしく頼むよ』
 反論する間もなく電話は切れてしまった。ぞうきんごと受話器を握りしめ、翔太郎はうなだれる。
 30分の猶予で、果たして何をするか――それが問題だ。
 刃野が来るということは、真倉も来るだろう。そのときに、こんなお掃除スタイルで出迎えたりすれば、馬鹿にされるのは目に見えている。着替えは最優先だ。となると、少なくともあと10分で掃除を完了し、15分で風呂を出て、残りの時間で身繕いをすませなくてはならない。
 タイトだ。あまりにもタイトすぎる。
 ちなみに、こういうとき、フィリップはまったく頼りにならない。隅によけておくか、ガレージに突っこんでおくのが最適だろう。
(俺のハードボイルドがためされてる……のか?)
 コーヒーメーカーをセットし、猛然と掃除を再開する。掃除機を端に寄せ、モップを力業で絞ると、端から端まで半ば走るようにして拭きあげていく。事務所前の階段はどうしようもないが、ドアは磨き上げたし、嫌がらせのように連なった壁の手形も消した。ついでに、泥のしぶきが飛び散った宅急便の段ボール箱も、ベッドの下に押しこんでおく。
 汗だくになりながら事務所を見回す。とりあえずではあるが、きれいにはなった。よく見ればまだ泥の跡が残っているが、そろそろ風呂に入らなければ、翔太郎自身が汚れの源になってしまう。
 そこではたと気づく。
「……フィリップ?」
 出てきた様子がとんとない。扉の向こうはこそとも音がしなかった。着替えている最中に、大抵1度や2度はその辺にぶつかる相棒が、これほど静かにしているはずもない。
 まさか、のぼせて倒れているのか。掃除用具をほったらかしにしたまま、翔太郎は急いで扉の向こうへと駆けた。
「フィリップ!」
 声をかけるが、脱衣所からは返答がなかった。容赦なく脱衣所のドアを開けるが、フィリップの姿はない。
 まさか。
 半透明な2枚折りドアにシルエットが映っている。バスチェアに座った後ろ姿だ。嫌な予感のその通り、少しも動かない。微動だにしない黒い頭を見て、翔太郎は頭をかきむしった。砂埃がばさばさとあふれ出すが、気にしてなどいられない。3歩で距離を詰め、枠ごと外さんばかりの勢いでドアを引き開けた。
「やあ、翔太郎」
 あけたばかりのシャンプーを手に振り返ったフィリップは、泥まみれのままだった。タオルは床に放置されたままで、泡立てられた様子はない。
「やあ、じゃねーだろ。この30分、お前は何をやってたんだよ……」
「これは初めて見るシャンプーだ」
 言って、成分表を指さす。翔太郎はシャンプーをひったくった。
「なんでもいいから、さっさと風呂を明け渡せ!」
 成分表なんか眺めて検索してる場合じゃない。
 フィリップは状況が理解できない、とでも言いたげに見上げてくる。
「ここは翔太郎の風呂だろう? 入りたければいつでも入ればいい」
「今はお前が入ってんだろ。俺の忍耐力を試してんのか……?」
「そんな無駄なことはしないよ、翔太郎」
 現時点で、翔太郎の堪忍袋の緒がだいぶ切れかかっていることには、この相棒は気づいていないらしい。
 残り時間、10分強。
 フィリップを洗って外に放り出してから汚れを落とすか、翔太郎が汚れを落としてから相棒を洗うか――いや、そんなことをしている時間はない。頭を拭けば、すすぎ残しでもこもこと泡立ちはじめるような奴の世話を焼いているような猶予は、もはや一秒たりともない。
「ああ、来る、来ちまう!」
 男の仕事の8割は決断だ――おやっさんの言葉が甦る。
 敬愛する師の言葉に従い、翔太郎は決意した。
 フィリップの首根っこをつかみ、バスタブに突っこむ。思い切り跳ねあげたしぶきにむせた相棒が抗議の目を向けてくるが、きれいに無視した。
 同性なのだ、問題はないだろう。
 何かのリミッターが吹っ飛んだような気もするが、翔太郎は気にしない、むしろ、気にしていられない。何が何でも、刃野たちが来る前にハードボイルド探偵・左翔太郎に戻らなくては。
 脱衣所に引き返し、最速で服を脱ぐ。叩きつけるような勢いでたらいに放りこむと、床に置き去りになっていたマーカーペンとホワイトボードを手に、洗い場に戻った。相棒にぐいと押しつけ、自分はシャンプーを手にする。
 ミラーに文字を書きつけはじめる手をどかし、お湯をかぶる。猛然とシャンプーを泡立てはじめた。
「客が来るから、俺は先に出る。お前はそいつで思う存分検索してな」
 刃野たちがインターフォンを鳴らしたのは、翔太郎の身繕いが何とか完了したその5秒後だった。

 フィリップを風呂場に残し、翔太郎は刃野と真倉を迎え入れた。ふたりをソファへと座らせ、ハードボイルドにコーヒーを供する。
「で、どんな話なんです?」
 翔太郎の声に、刃野はツボ押し器でこりこりと首の後ろをつつきながら、ため息まじりに言った。
「また奴ら絡みの事件みたいなんだがなあ……」
 妙に歯切れが悪い。相当厄介なのか、言いにくい事情があるのか。刃野の脇からこれでもかと言わんばかりに威嚇の視線を向けてくる真倉はきれいさっぱり無視して、翔太郎はカップに口を付ける。
 つられたようにコーヒーを飲んだ刃野が、わずかに苦笑いを見せた。
「うまいな、これ」
「こだわってますからね。今日はキリマンジャロで」
「うちの、あの出がらしみたいなコーヒーも、こんくらいうまくなってくれりゃなあ……」
 まさか、それが相談事なのか。
 翔太郎の胡乱なまなざしに気づいたか、刃野は首の皮膚を突き破るような勢いでツボ押し器を上下させ、乾いた笑い声を上げる。
「で、用向きなんだがな。こいつはまだ極秘情報だ」
「わかってますって」
「警察官ばかりを狙うドーパントが出た」
 刃野の声は暗い。どうやら、先ほどまでの明るさは空元気だったようだ。
 外部には伏せられているが、今週に入って、すでに5人もの警察官が襲われたらしい。人通りのある場所で襲撃されたにもかかわらず目撃者はなく、足を深く切り裂いたその凶器もわかっていないのだという。
 襲撃はいずれも夕暮れから夜にかけて。昼間に襲われた警察官はいないという――少なくとも、今は。
「ドーパント……か」
「多分な。何とか手口を割り出して、また情報頼むわ」
「他にもうちょっと手がかりないんすか? たとえば……襲われた警官の共通点とか」
 斜め下から見上げるように問いかけると、刃野はなぜか目をそらしてしまう。
 あまり素行のよろしくない警官が襲われているのだろうか。問いつめようと口を開いた瞬間――がたん、と扉の向こうで音がした。翔太郎は飛び上がる。
 訝しげな刑事ふたりにちょっと待て、と身振りで示し、扉の方へと飛んでいく。そっと開いた扉の向こう、脱衣所のドアから、フィリップが顔をのぞかせていた。
「着替えを忘れたよ、翔太郎」
 そこにある事実を確認するような口調で言う。着替え以前に髪を拭くのも忘れている気がするが、翔太郎はそれどころではない。ソファに座ったまま覗きこもうとする視線を背中でガードしながら、早口で告げた。
「あとで持って行ってやるから、風呂入っとけ」
「このまま出て行ってはダメかい?」
「ダメに決まってんだろー!? 俺の社会的地位が下がる……!」
 まっぱな少年が事務所に現れたりしたら、刃野たちにうっかり逮捕されかねない。これは記憶喪失で俺が保護している少年で子供みたいなものなんです、と言って、果たして信じてもらえるかどうか。
 翔太郎なら信じない。
 第一、警察にもフィリップを保護したことは伝えていないのだ。怪しまれること請け合いだろう。
 とにかく待て、と手振りで示し、顔を引っこめるのを待って扉を閉めた。
 安堵のため息と共に振り返ると、なぜか、真倉が鬼の首でも取ったようににやにやと笑っている。
「なんだ、女でも連れこんでるのか?」
 翔太郎は鼻で笑った。
「さすが、三下デカは想像力が貧困ですねえ。そんな色ボケたことしか考えつかないなんて」
「なんだとこの四流探偵!」
「なんだこの色ボケ刑事が!」
「……お前ら、毎度毎度やめろ。幼稚園児か!」
 にらみ合いになるのを、むんずと割って入った刃野が止めた。その表情がうんざりしているのは、彼の言うとおりいがみ合いが毎回だからか、警官襲撃事件が気がかりだからか。前者の比重が重い気がする。
 真倉には2度とコーヒーを出してやるものか、と翔太郎がひっそり心に誓っていると、ソファに戻った刃野が物憂げに言った。
「お前、最近なにか隠し事してないか、翔太郎」
「隠し事、ですか?」
 とぼけてみせるが、刃野はばかだな、と笑った。
「いきなり奴らの情報に詳しくなったり、妙なツール持ち出したり。ケータイもバイクも、なんか派手なのに変わったしな。おまけに、人付き合いの幅も変わってる……これで何もなかったと考える方がおかしいだろ」
「さすが現役刑事。いろいろ考えますね」
 冗談めかして苦笑いして見せたが、胸の底が冷えた。刃野を信用していないわけではないが、決してすべてをさらせる相手ではない。最後の最後、ぎりぎりの一歩を託せるほどの信頼はなかった。
 嫌な男だ、と自分でも思う。だが、おやっさんから託された子供を守るためには、いくら用心しても足りない。
 ネクタイのゴミを取るふりをして目をそらす。何気ない風を装って言葉を続けた。
「まあ、おやっさんもいなくなって……今は俺ひとりっすからね」
 刃野はつまったように黙りこむ。沈黙が落ちた。
 真倉は戸惑ったように刃野と――嫌そうに――翔太郎を見たが、どちらも言葉を発しない。刃野は翔太郎を気づかい、言葉を探している。一方の翔太郎は、風呂場のフィリップが気がかりでならなかった。
 すでに4時半も近い。のぼせているのではないだろうか。
「さて、と」
 翔太郎は立ち上がる。
「これから情報収集に入るんで。なんかわかったらまた連絡しますよ」
「そうか。頼むな、翔太郎。頼りにしてるぜ」
 刃野は不満そうな真倉を引きずるように事務所を去っていった。
 カップ類をシンクに運び、フィリップの着替えを用意する。キーワードを選別しながら扉を開けると、脱衣所のドアはぴったりと閉ざされていて、その向こうにフィリップの気配は感じられなかった。
 かなり冷えこんでもいるし、おとなしく風呂に入っているのだろう。
「おーいフィリップ」
 声をかけ、脱衣所のドアを開く。棚に着替えを載せ、2枚折りドアを軽く叩いた。
「着替え、ここに置いとくぞ」
 返事はない。だが、声は聞こえる。耳を澄ませると、マーカーペンの滑る音が聞こえてきた。それも、かなり長い文章を一気に書きつけている様子だ――長辺が50センチもないホワイトボードに書いている長さではない。
 嫌な予感がする。
「おい、フィリップ!」
 慌てて扉を開いた風呂場は、未知の世界になっていた。
「やあ、翔太郎」
 振り返ったフィリップの手にはマーカーペンがある。左手に握りしめているのは、びしゃびしゃになったタオルだった。泥を落としてすっかりきれいになった相棒は、生き生きと頬を上気させている。バスタブに立てかけられているのは、真っ黒になるまで文字を書き尽くされた小さなホワイトボード。
 そして、フィリップが膝をついているのはミラーの前――バスタブの対面の壁際だった。もちろん、その手にはマーカーペンがある。
 翔太郎は目と口を最大限に開いた。
 黙ったままの翔太郎には興味をなくしたらしく、フィリップは検索を再開する。子供のようなひたむきさだが、微笑ましいとはまったく思えない。
 なぜなら、フィリップがペンを走らせているのが、風呂場の壁だったからだ。
 他の壁面は、これでもかと言わんばかりに数式やら何かの化学式やらで埋め尽くされている。かろうじて無事なのは床と、バスタブと、たった今フィリップが猛然と文字で埋め尽くそうとしている壁だけだった。
「呪いの風呂場か……?」
 あまりの事態に思わずつぶやくと、フィリップは胡乱な目を向けてくる。
「何を言っているんだい。君は、この文字が勝手に浮かび上がってきたと思っているの」
「思ってねえし思えねえよ!」
 翔太郎の怒りを察したのだろう、フィリップは迷惑そうに眉を寄せた。
「思う存分検索していろと言ったのは君だよ」
「だからって、風呂場に落書きしていいといった覚えはねえ!」
「落書き? これは検索結果だ。この新しいシャンプーはね……」
 滔々としゃべり出した相棒の声を、耳を塞いで閉め出す。
「シャンプーの成分とかボディソープの成分とかに興味はないんだけどな俺……」
 どうせ、この掃除も翔太郎がやるのだ。こんなことなら、脱衣所で着替えて待つように言っておけばよかったと、翔太郎は根本的解決にならないことを考える。
 心ゆくまま検索をすませた相棒を何とか脱衣所に引っ張り出したときには、風呂場は、それこそ呪いのように文字で埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。
 翔太郎は決意する。
 あんな小さいのではなくて、もっと立派なホワイトボードを山のようにプレゼントしよう、と。
 秘密ガレージの壁面はあいているのだ。一面に取りつければ、相棒も満足するだろう。もし満足しなかったら、書いた端から消してやる。

*  *  *

 鳴海探偵事務所の風呂場がご無体な状態に。フィリップは、左手のタオルで壁の水分を拭き取りながら書いていたようです。
 風呂場とバスルーム、どちらを使うかで迷いましたが、文字数の短さが決め手となりました。