無秩序の空隙/ダブル 翔太郎の体は、ろくに動こうとしなかった。ダブルドライバーは戦意に呼応するように熱く燃えているのに、立ち上がることさえできない。 ドーパントは見下すようにあごを上げ、翔太郎を見据えていた。その向こうに、がれきの中に倒れ伏す亜樹子と、彼女の腕に守られるように倒れているフィリップの体が見える。 ドーパントには、わずかな傷もなかった。ジョーカーも、メタルも、トリガーさえも通用しなかった。 「その程度ですか」 楽しそうに彼は言う。 「噂のダブルとやらも、大したことはないようだ」 「…………」 翔太郎は死に物狂いで手を伸ばす。もっとも間近の、ジョーカーのメモリへと。 ドーパントは馬鹿にするように首を傾げた。その足が振り下ろされる。メモリをつかんだ右手を踏みつけられ、翔太郎はうめいた。痛覚がひび割れる。酸素が不足したように頭ががんがんと痛んで、視界が赤く染まった。 足はすぐにどけられたが、手に力が入らない。骨にひびが入ったのか。曲げた指先が苦悶に芝生を掻く。汚れた爪にメモリが引っかかった。血に染まった手で、何とかつかみ取る。 苛烈な圧迫感が緩んだ。顔を上げると、ドーパントはすでに翔太郎を見てはいなかった。彼に背を向け、フィリップたちの方へと歩きだしている。 「待てよ……何のつもりだ!」 「死に損ないの三流探偵に興味はありません」 続く言葉はなかったが、翔太郎は正確に理解した。端からそれが狙いだったのだ。なぜ気づかなかったのだろう。こちらの変身解除を狙うような戦い方に、もっと疑問を持つべきだった。 渾身の力で半身を起こす。全身の激痛にうなりながら、翔太郎は歯がみした。 いつか来るだろうと思っていた「その日」は、今日だったのだ。 あのドーパントの目的は翔太郎にはない。もちろん、一般人の亜樹子でもない。このままおとなしくしていれば、あの男は翔太郎に追い打ちをかけることも、亜樹子に傷を負わせることもないはずだ。 その選択肢を選べば、ドーパントが立ち去った後、鳴海探偵事務所のメンバーがひとり減らされているのは確実だが。 (させねえ……) 守ると決めた。誰かに強制されたわけではなく、翔太郎自身の意志で。 だから――何が何でも守り通してみせる。 フィリップの体が意識を失い倒れようとも、何も抵抗しないよりはましなはずだ。翔太郎の考えが正しければ、ドーパントは、フィリップの体を壊すことは絶対にできないはず。うまくいけば、3人で逃れられるかも知れない。 今にも切れそうな糸をたぐり寄せ、離れようとするフィリップの意識に呼びかける。 ――起きろよ、相棒。今ここで負けるわけにはいかねーんだ ――……無理だ、翔太郎 数秒をおいて返った声に愕然とする。普段の不敵な声音など少しも感じさせない、あまりに弱々しい声だった。苦痛をこらえるような、かすれた震えも混じっている。 ――お前……どっかやられたのか!? ――僕たちが立ち上がっても、亜樹ちゃんが ぶつん、と意識が切り離される。常にないことだった。翔太郎がドライバーを外すことで、フィリップを閉め出すことはある。だが、フィリップが自ら離れていくなど、覚えがなかった。 いや、これはフィリップ自身が望んだことなのか? あるいは、あのドーパントが何かしたのか。 霞む視界。咳きこみながら起きあがる。もどかしいほどゆっくりと。 肋骨もやられたのだろうか。呼吸のたびに胸郭が震えるように痛み、灼けたようにうずく。不安定に揺らぐ視界が暗い。貧血か。冬枯れの芝生を踏みしめ、街路灯にすがるようにして、ようやく立ち上がった。 そこで初めて、ドーパントが歩みを止めていることに気づいた。理由は明白。 「……フィリップ」 翔太郎の相棒も、時を同じくして立ち上がっていた。 半身を血に染めた凄惨な姿ではあるが、幸いにも大けがではないようだ。がれきを踏みしめる姿は意外にしっかりとしている。右の額を切っているらしい。煩わしそうにまぶたのあたりをぬぐう袖口にも、べったりと血液が染みついた。 左手にはメモリがある。落としたときに汚れたのか、色が判別できない。黄色にも赤にも見えた。どちらかと言えば黄――ルナに近いようにも見えるが、違和感がある。 ――フィリップ、いけるか 返答はなかった。やはり、意識は切れたままだ。息づかいも、気配も遠い。 ダメージのせいでうまくつなげないのだろうか。呼びかけることをあきらめ、苦労して右手を持ち上げる。何とか、一撃だけでも――。 だが、力の入らない指先は、あっけなくジョーカーのメモリを取り落とした。慌てて伸ばした左手がスイッチに引っかかり「ジョーカー」とコールされる。 胸の内が冷えた。息がつまる。翔太郎が体勢を立て直したことを、気づかれた――。 ドーパントは振り返らなかった。凍りついたように動かない。いや、わずかに後じさる様子を見せた。亜樹子をかばうように立つフィリップを見据えたままで。 「そのメモリで……何をするつもりです? 君に使えるのですか」 「…………」 張りつめた切迫感が見え隠れする。 ドーパントを見据えるフィリップの、尋常ではない眼光が気にかかった。普段のフィリップが決して見せることのない、原始的な衝動――磨き上げた闘争本能を思わせる、ぎらついた輝き。 吹き抜けた風がパーカーの裾を跳ねあげる。全身の毛穴が開くような感覚を覚え、翔太郎は硬く拳を握りしめた。 フィリップの腹部には、ダブルドライバーがなかった。 「悪魔と共食いする覚悟……あるかな」 霞がかった声でフィリップが言う。 そこでようやく気がついた。フィリップの手にするメモリが、ルナでもヒートでもないことに。 指先ではさむように持ち上げられたメモリは、褪せた黄土色をしていた。刻まれた文字は、ひび割れ溶けた「C」。メモリ全体の形状も違った。翔太郎たちの持つメモリのような洗練された印象は欠片もない。肉をそぎ落として肋骨を露わにしたようなデザインが、禍々しさを感じさせる。 まるで、人をドーパントへと変えるガイアメモリそのものだ。 フィリップの指先がガイアメモリのつまみを押す。コールされた言葉に、翔太郎は愕然と目を見開いた。胸の奥底で氷の固まりが成長していく。 出会った当初を思い起こさせる悪魔的な笑みを浮かべたフィリップは、腹部に現れた円形のバックルを持つベルトに、迷いなくガイアメモリを突き刺した。 光が沸騰する――。 世界が揺れた。翔太郎は勢いよく顔を上げる。 「……亜樹子?」 「ちょっと、電話切れちゃったじゃない!」 スリッパを握りしめた亜樹子が、デスクの端に鎮座している電話をびしりと指さす。 状況が理解できず、翔太郎はぽかんと周囲を見回した。 翔太郎が座っているのは、いつもの黒い椅子。書類の傍らに放置されたコーヒーは、すでに冷え切っていた。一口も飲んでいないのに。室内には特に変わった様子もなく、もちろん、翔太郎にも傷はなかった。 「夢……か……」 半ば呆然とつぶやく。スリッパが再び後頭部に炸裂した。 「夢か、じゃないでしょ!? 今のが大口の依頼だったらどうすんのよ!」 「仕方ねえだろ、このところろくに寝てねえんだ!」 「ちゃんと寝なさいよ!」 「眠れねえから寝てねえんだよ!」 心配事のひとつが何を偉そうに、と思わないでもなかった。だが、そんなことを言ったが最後、知りたがりの虫が全力で食いついてくるのは確実。何も言わないのが安全だ。 思い切り引っぱたかれた後頭部をさすりながら、翔太郎は半ば強引に話題を変える。 「フィリップは? どうしてる?」 「さっきまで、キッチンで何かしてたけど。ガレージ戻ったよ」 キッチンで何か、というのは気になったが、身を乗り出してみてみても、特に惨状が見えるということはなかった。おそらく、検索を終えて喉でも渇いたのだろう。水か何かを調達しに来たに違いない。 よく晴れたけだるい昼下がり。眠気が再び忍び寄ってくるのを感じながら、翔太郎は大きなあくびをひとつ。 亜樹子は翔太郎を相手にしないことに決めたらしく、買いこんできた食材を、せっせと冷蔵庫に詰めはじめる。プリンやらモンブランやら果肉入りゼリーやらがてんこ盛り見えた気がするが、突っこんでも言い負かされているのは目に見えている。それなら、翔太郎もご相伴にあずかる方がよっぽど建設的だ。 亜樹子の奮闘――いや、翔太郎の奮闘で、このところ事務所の収入も多少増えていることだし。 「なんか嫌な夢でも見たの?」 戻ってきた亜樹子の手には、ふたつのコーヒーカップがあった。そのうちひとつを手渡される。礼を言って受け取る。亜樹子のいれるコーヒーも、だいぶおいしくなった。事務所で暮らし始めた頃の、色つき熱湯を思えば大した進歩だ。 翔太郎が答えないでいると、そばに椅子を引っ張ってきた亜樹子が神妙な顔で言った。 「すごい顔して寝てたけど。なんかうなされてたし」 「うなされてた? なんか……言ってたか?」 「そこまではわかんないけど」 亜樹子はコーヒーに角砂糖を入れ、くるくるとかき回す。ミルクとコーヒーが螺旋を描いて混じりあった。 「あ、フィリップ君呼んでた」 「そっか……」 「君たち、ふたりでひとりなのはわかるけど、夢の中でまで呼ばなくてもいいんじゃない?」 「……フィリップがドーパントだった」 「え」 亜樹子の動きが止まる。 「……って夢を見た」 亜樹子はがっくりとうなだれる。 「もー、変なこと言わないでよ! フィリップ君がドーパントのはず、ないじゃない」 「だよな」 考えてみれば、夢に現れたメモリを見た覚えもない。あまり物欲がないのか、フィリップの私物はごく限られているし、事務所に連れてくる前に持っていたものと言えば、ダブルドライバーと6本のメモリが納められたアタッシェケースだけだ。 妙な夢を見たのは、寝不足のせいだろう。 そう結論づけ、カップを傾けた。 やがてフィリップも事務所に顔を出し、3人でコーヒーブレイクとなる。 カオス――解放に歓喜するその声は、いつまでも耳の底にこびりついて離れなかった。 * * * なぜか夢オチばかりな謎。そして、ハイパー捏造展開。 フィリップが園咲家の人間なら、彼もガイアメモリを持っているのかなあ、という空想から生まれた作品。 フィリップが持っていそうなのは知識とか愚者とかかしら→でも、最初に使ったのサイクロンだし「C」がつきそう→テラーとかタブーとかに矛盾しないもの→なんかいろいろ知っているし、空白もあるし→カオス、となりました。 |