クラックビート / ダブル



 膨大な情報の海に、一筋の不協和音がこぼれ落ちた。
 フィリップはゆっくりと目を開ける。白い空間を埋め尽くす本棚が少しずつ純白の彼方に遠ざかり、羊水のように全身をくるむ思索の海面を突き破る。
 焦点を取り戻した瞳に飛びこんできたのは、無人の探偵事務所。白に灼かれた網膜を慰撫するような、昼下がりの金色の光がたゆたっている。陽光はベッドから床に伸ばしたフィリップの膝まで広がっていた。
 めずらしいことに、頭蓋の奥にわずかな痛みがあった。翔太郎と亜樹子が事務所を出たのは朝のはやい内だった――どうやら、5時間以上を地球の本棚で過ごしていたらしい。
 押しつぶさんばかりの知の集積が、脳の奥に燻っている。
 頭を軽く振って振り払い、玄関へと顔を向ける。きしむ扉が開かれ、黒の上下に身を包んだ照井竜が滑りこんできた。
「やあ、照井竜」
「他には誰もいないようだな」
 枯れた声で照井は言った。
 その服装センスはともかく――似合っているのだから文句はない――身なりをいつも整えている照井にはめずらしく、無精ひげがあごのあたりに散らばっている。顔色は蝋のように白く、中でも頬は病的に青ざめていた。目の下にはりついているのは、冗談のように濃い隈。ほお骨の高さがいやに目についた。
「頼みがある、フィリップ」
 ゆったりとめぐる風車の羽根が、いたずらに光をそよがせる。
 フィリップは目を細めた。警戒心が胸の底を炙る。
「また検索かい?」
「何も言わずにそこを譲れ」
 ふらふらと歩み寄ってきた照井が指さしたのは、フィリップが腰掛けるベッドだった。
 どうぞ、と手を伸べ、フィリップはベッドの隅に移動する。隣に座った照井は、ブーツも脱がないままベッドに転がった。
「……計算外だ」
「俺も計算外だ。だが、やむを得ん」
 心底から不本意そうな言葉に、嫌なら部屋に帰ればいいのに、と思う。何か戻れない事情でもあるのだろうか。
 何にしても、男に添い寝する趣味は、フィリップには1ミリたりともない。本格的に寝る体制に入った照井を放置して立ち上がる。だが、一歩を踏み出すよりはやく、パーカーが何かに引っかかった。振り返ると、照井の手が裾を捕まえていた。
 首をねじ曲げて睨むように見上げてくる眼光に、未だかつて見たことのない揺らぎがある。
「そこにいろ。光よけだ」
「やれやれ」
 ベッドに戻る。照井の顔に影を落とすよう角度を調節しながら、可能な限り距離をおいた。
 そういえば、訊くのを忘れていた。
「翔太郎のベッドだけど、いいの」
 照井の肩がさも嫌そうに動くが、それ以上の反応は見せなかった。居心地のいい場所を見つけるように身じろぎを繰り返していたが、その動きも間遠になり――呼吸がゆっくりと深まり、眠りへと落ちていく。
 彼は今、勤務中のはずだ。検索を依頼に来たのなら納得もできるが、眠りに来たというのはどうにも理解しがたい。照井の気質にはそぐわないように思える。
 ディアブロッサの排気音もまったく聞こえなかった。ならば彼は、徒歩で来たのだ。
(何があった、照井竜?)
 照井の腰から、そっとビートルフォンを抜き取る。擬似メモリを差しこんで起動させると、ビートルは戸惑うように室内を飛び回った。自分の腰からスタッグフォンを取り出し、手のひらに乗せる。擬似メモリを差しこむと、にぎやかな羽音を立てて飛び立った。
 挨拶するように空中で角をあわせると、2匹はフィリップの膝元に降り立った。
「彼に何があったんだい?」
 ごく小さな声でビートルに問いかける。フィリップの質問を吟味するように目をちらつかせたビートルは、小さな電子音を立てながら、しきりに何かを訴え始めた。
 予想通り、その波長はスタッグフォンとよく似通っている。多少言語形態が違うように思えるのは、フィリップ自身が組み立てたスタッグと――おそらくシュラウドが組み上げた――他者の手によるビートルとの手順の違いによるものだろう。
 雑音まじりの思考の上澄みをすくい上げ、そこからキーワードを絞りこむ。
 ビートルは何度も繰り返した。「夢」「死ぬ」、このふたつの言葉を。
 8月の連続凍結事件が苦しめているのだと、思索をめぐらせるまでもなく気づいた。
 背を向けて眠る体がわずかに上向いた。痛みをこらえるような寝顔が露わになる。寝ているときまで眉間にしわを寄せているのか、とフィリップは胸中でつぶやいた。
 唇がわずかに開く。誰かを呼ぶように動いたが、声はない。ほお骨のあたりがわずかに盛り上がった。唇の隙間から、強く食いしばられた歯が見える。心臓を守るように乗せられた左手が強く拳を握りしめ、体の向こうに投げ出された右手の指が限界まで反り返る。
 胸が激しく上下した。その呼吸は、喉を締めつけられたようなせっぱ詰まった響きを伴っている。
 慌てたようにビートルとスタッグが飛び上がった。
(悪夢、か)
 フィリップは静かに右手を伸べた。照井のまぶたの上にそっとかざす。
「それはただの夢だ、照井竜」
 ささやきのような、ごく低い声で告げる。喉の奥で空気を震わせるだけの、にじむような声音。
 引き絞られた呼吸が一気に緩んだ。手を離すと同時に、照井がゆっくりと目を開ける。
 自分のいる場所を把握できなかったのか、油断ない視線が天井を切り裂き、すぐにフィリップの姿を捉えた。物理的な圧力さえ感じられるほど、その眼光はぎらついていた。触れれば切り裂かれそうな気さえする。
「見たか」
 短く言う。フィリップは小さく肩をすくめて見せた。
 それだけですべてを把握したのだろう。照井は長い長いため息をつき、目元を左腕で覆った。呼吸は荒い。どれほど追いつめられているか、想像に難くなかった。
 鳴海探偵事務所に来たのは、この時間帯ならフィリップしかいないと考えてのことだろう。フィリップならば詮索せずに事務所に入れるだろうし、余計な口出しもしない。
 悪夢と睡眠不足に苛まれた照井は、限界の体を抱えてここに来た。仮眠室を使うこともなく、官舎に帰ることもなく、病院へ向かうこともなく。愛車を置いて、わざわざ歩いてまで。
 これが助けを求めての行為でなくて、何だというのだろう。人前で眠るなどということを簡単にする人間ではないはずだ。
 口に出せば彼は絶対に認めない。そういうところは、翔太郎ととてもよく似ている。
(あるいは、僕とも)
 事務所にやってきたばかりのフィリップを世話する翔太郎は、こんな気分だったのだろうか。頭の中が常にちりちりして、胸の中は煙が溜まったように見通せないのに、なぜか心が引っ張られる。
 照井はようやく腕を外した。敵意と殺意が少なからず入り混じった眼光を真っ向から受け止め、わずかの間思案する。
 人がもっとも安らぐのは、鼓動の音だと検索したことがある。拍動を聞かせれば少しは落ち着くのかも知れないが――あいにくと、照井に自分の心音を聞かせてやる気にはならなかった。
 そんなことのために抱き寄せるなど、冗談じゃない。翔太郎や亜樹子に対してもしようと思わないものを、どうして照井のためにできるのか。
 折衷案として右手を差し出す。フィリップの手と顔を不可解そうに見比べる照井の左耳に、半ばむりやり掌を押しつけた。
「鼓動ほどじゃないけど」
 引きはがそうとする手が止まる。フィリップのあまりに不本意な表情に虚をつかれたのか、照井がわずかに目を見開いた。
「これでも効果はあると思うよ」
「余計なことを……」
 喉の奥でつぶやかれた声には愛想は欠片もなかったが、照井はフィリップの手を振り払おうとはしなかった。
 やがて呼吸が深くなり、寝息へと変わっていく。
 うってかわって穏やかな寝顔を見つめ、フィリップは胸の内で氷の欠片がきしむ音を聞いた。
 鳴海荘吉が失われた後、その絶望に苛まれる翔太郎の悪夢を、今の自分ならば少しは引き受けられるかも知れないのに。あの頃のフィリップは、何も知らず、何もわからず、苦しむ翔太郎もその涙も理解できずにいた。
 胸の内に溜まる呼吸が苦しい。壁に寄りかかり、目を閉じる。指先が滑り、照井の腕に引っかかって止まった。
 フィリップがすべての根源と知る日は、そう遠くはないだろう。
 そのとき、自分はおとなしく刃の下で目を閉じるのか、逃げるのか――それはまだわからなかった。


 にぎやかな足音をたて、亜樹子が階段を駆け上がる。翔太郎は小脇に抱えたメットを叩きながら、最後の1段を上りきった。
 玄関扉を開けた亜樹子が、なぜかそこで止まっている。
「どうした?」
 半ば押しのけるように室内をのぞき――翔太郎は絶句した。
 ベッドに腰掛けたフィリップが壁にもたれて眠っている。それはいい。
 だが、相棒の手がなだめるように照井の腕に添えられているのはどういうことか。もっとも理解しがたいのは、その照井が、翔太郎のベッドで眠っていることだった。ブーツさえ脱いでいない。
 そばのテーブルの上に止まったスタッグとビートルが、仲良く角をつき合わせてふたりを見守っている。
 ゆるやかに撒かれた金の光がふたりの姿を縁取り、神々しささえ感じさせた。フィリップの寝顔は穏やかで、照井の肩も静かに動いている。落とされた陰影は限りなく深く、残光をあざやかに浮かび上がらせていた。
 メットを落としそうになり、慌てて捕まえた。
「仲良しさんねえ」
 亜樹子が指さし、笑いをこらえるように口元に手を当てる。
 絵になる、と一瞬でも認めてしまった自分が悔しい。
 亜樹子を押しのけ、足音高く事務所へ踏みこむ。メットを叩きながら、荒々しくベッドへと歩み寄る。照井が勢いよく飛び起き、不機嫌な眼光を向けてきた。
「なんで、お前が俺のベッドで寝てんのかな?」
「お帰り、翔太郎、亜樹ちゃん」
 照井が起きた勢いでベッドから落ちたフィリップが、ややくぐもった声で言う。
「『お帰り』じゃねえだろ!」
 照井に指を突きつけ、フィリップに詰め寄る。
「何で俺のベッドでこいつが寝てんだ! 何が悲しくて野郎なんかに俺のベッドを……」
「僕もときどき寝てるけど」
「お前はいいんだよ、相棒だからな!」
「ふうん」
「……いいからちょっと黙ってろ」
 照井に向き直る。照井は礼儀も知らないのかと言いたげなまなざしで手を振り払うと、フィリップに顔を向けた。
「世話になったな」
 フィリップの肩を軽く叩く。フィリップは笑顔を見せた。照井の目元がわずかに緩む。彼はもう一度肩を叩くと、翔太郎と亜樹子をきれいさっぱり無視して扉の向こうへ消えていった。ビートルが慌ててあとを追う。
 扉が閉まり、低い靴音はすぐに聞こえなくなった。
「そういや……なかったな、あいつのバイク」
「彼は警察官だからね」
「あん?」
「寝不足で事故でも起こしたら大変だと思ったんだろう」
 相棒の声に、きしむような響きを感じ取る。その傷ついたような声音に、胸の内に少なからぬ痛みが生まれた。
「ダブリューのメモリか」
 フィリップはうなずいた。
 状況がうまく理解できない様子ながらも、亜樹子がコーヒーの準備を始める。気遣うようなまなざしを、ちらちらとフィリップに向けている。
 照井は悪夢にうなされているのか。彼を壊そうとする傷に抗い、フィリップの元にやってきたのだろう。彼ならば何とかできる、きっとそう考えたのだ。
 翔太郎は、ベッドに座った相棒をとっくりと眺めた。その肩にスタッグがちょこんと止まる。
 本当に、変われば変わるものだ。翔太郎が1年をかけて人間らしさを磨いていき、亜樹子がやってきてからの怒濤の半年で、年相応の少年らしささえ芽吹いた。はじまりのあの夜、苦しむ翔太郎の隣で闇を見つめていた虚ろな姿が嘘のようだ。
「変わったな、フィリップ」
 隣に腰を下ろし、背を軽く叩く。驚いたようにスタッグが飛び立った。
 フィリップは何か不思議なものでも見る目つきで翔太郎を眺めると、ことりと首を傾げた。
「なんだ、君も添い寝してほしかったの」
「んなわけあるかー!」
 今の言葉のどこをどう解釈すればそうなるのか。
 亜樹子が盛大に噴きだした。鬼の形相で振り返ると、亜樹子も目尻をつり上げた。どこからともなくスリッパを取り出す。
 不意に、あたたかなものが耳に触れる。
「うわ、びっくりした……」
 振り返るとそれは、フィリップの掌だった。
「なんだ、どうした?」
「いや」
 これには苦笑するしかない。
「まあ、何でもいいけどよ。あんまり照井に好き勝手させんじゃねえぞ」
 いつか、照井は知るだろう。ガイアメモリの誕生の秘密を。どんな行動を取るか、想像もつかない。フィリップを斬ろうとするのか、あるいは、メモリを取り上げるか――何か別の選択肢を進むのか。
 ちゃかすような口ぶりの下の本心に気づいたか、フィリップは小さくうなずいた。
 物憂げな横顔を眺めやり、肩を叩く。
「報告書、まとめちまうかな」
 馥郁たる香りが部屋中に満ち、タイプライターを打つ音が軽快に空気を転がす。
 終焉の縁にたたずむ平和は、限りなく和やかだった。

*  *  *

 とりあえず、「らしくない照井(しかし、ちゃんと照井)」を書いてみようと挑戦してみました。うまくいったかどうかよくわかりませんが、少しずつ照井のキャラもつかめてきたような気がします。
 前半だけの予定が、気づいたら後半も書いていました。やはり、左を出さないと物足りないらしい。てゆか、フィリップって照井をなんて呼んでる……?
 実は、拍手コメで頂いた「枕の神様」からふくらませたお話でした。