ダブルエフェクト/ダブル



 サイクロンメモリと共にフィリップの魂が肉体を離れる。
 ドーパントが現れたのは、フィリップの意識が剥離する直前だった。
 亜樹子は抜け殻となったフィリップを抱きとめ、静かにその場に横たえた。精一杯の虚勢を張ってフィリップを背にかばう。
 昼下がりの公園。平日でひとけが少ないのは、不幸中の幸いだろうか。
「ちょっとあんた、今出てくるなんて何考えてるのよ!」
 バッグから「なにしてんねん」のスリッパを取り出し、びしっと突きつける。
 ドーパントとの距離は、およそ6メートルほど。昨日、ダブルと交戦していたドーパントだ。動きの癖は、何となくだが覚えている。現在のこの間合いが、最小の安全圏。あと数歩――1メートルも縮まれば危ない。
 ダブルが車をかばったその隙にかろうじて逃げ出したドーパントだ。かなりのダメージを負わされていたから、まだ回復しきってはいないはず。だからといって、一般人である亜樹子にどうこうできるようなものでもないだろうが。
 ドーパントはなめてかかっているようだった。ゆるやかに弧を描くかぎ爪で頭をかき、その場で足を止める。せせら笑うように胸を反らした。
「威勢がいいねえ、お嬢ちゃん」
「あたしはこれでも二十歳、立派な大人よ! 子供扱いしないで」
 笑み含んだ声に、わざとずれた怒り方をしてみせる。これに引っかかってくれればいいのだが――焼けつくような祈りが届くはずもなく、ドーパントは一歩踏み出した。
「君が何者でも構わないよ」
 暗い黄色の目に愉悦をちらつかせ、彼は言う。
「問題はその子供だ。あのメモリ……仮面ライダーの片割れに、間違いない。今のうちに倒させてもらうよ」
「何馬鹿なこと言ってるのよ! この子が仮面ライダーだったら、あんたなんかとっくにぼこぼこにされてるじゃない! 人違いよ、調子が悪くて倒れただけなんだから!」
 2歩目を詰めてくる。亜樹子の言葉など端から無視だ。
 相対する面積を減らすため、左足を半歩引いた。これ以上は下がれない。すぐ後ろにフィリップが倒れている。
 ドーパントが背負う空は鉛色に濁っていた。今にも泣き出しそうな空模様に、亜樹子は感謝する。こんな日でもなければ、傘を持ち歩いたりはしなかった。バッグをフィリップの傍らに置き、両手で傘の柄を握る。
 ドーパントは右手を大きく横へと振った。
「邪魔するなら、お嬢ちゃんも無事じゃすまないよ。どきなさい」
「冗談じゃないわ! フィリップ君はあたしが守るんだから!」
 本心では、ドーパントは怖い。いくら弱っているとはいえ、腕の一振りで亜樹子をなぎ倒すことなど造作もないのだ。最低限の護身術は翔太郎から教わったが――これに関しては、亜樹子はフィリップよりも優秀な生徒だった――あんな付け焼き刃で対抗できると思うほど、世間知らずではなかった。
 それでも、逃げるという選択肢は亜樹子にはない。耳元で破鐘を打つように騒ぎ出す鼓動と、やけに耳につく呼吸を抑えこみ、亜樹子は叫んだ。
「あたしはこの街の平和を愛する探偵所の所長よ!」
 指先の震えが止まる。凍りつくように冷えた血液が、平素の温度へと回復していく。自身の声で宣言したことで、覚悟が決まったのかも知れない。
 3歩目を踏み出そうとしたドーパントが、驚いたように足を止めた。
 傘の半ばへ手を移動させ、ゆっくりと持ち上げる。力強くドーパントを指した。
「大切な部下のピンチなのに、ひとりでのこのこ逃げるわけないでしょ! あたしは、そんな最低な人間じゃないわ」
 圧倒的な力の差に、体がすくみそうになる。だが、ひとりで逃げ出すことを考えるだけで、胸の奥にナイフで裂かれたような痛みが走った。
(あたしは、絶対にそんなことはしない)
 万が一ひとりで逃げ出したりしたら、たとえフィリップが助かっても、亜樹子は自分を許せなくなる。他の誰かが認めたとしても、その道を選んだ瞬間、亜樹子は亜樹子ではなくなってしまう。
 亜樹子には戦う力はない。だが、それを言い訳にしたくはない。できることは絶対にあるはずだ。
 携帯電話の着信音が鳴り響いた。スタッグフォンではなく、亜樹子のものだ。
(――あ)
「仮面ライダーからだろう? 出ないのか?」
 ドーパントは馬鹿にしたように笑った。
 亜樹子は自分の迂闊さにわめきたくなった。ゆっくりとその場にしゃがみこみ、バッグの方へと手を伸ばす。
 電話してきたのは、おそらくフィリップだ。そのままでは亜樹子が気がつかない可能性を考慮して、取るはずがない――取れるはずがない電話をくれた。
 まだ戦闘も終わっていないだろうに、貴重な時間を亜樹子のために割いてくれた。
 亜樹子には傘くらいしか武器がなくても、フィリップにはある。ヘブンズトルネードの一件で翔太郎にさんざん叱られてからと言うもの、フィリップは必ず持ち歩いていた――スタッグフォンと、擬似メモリを。
 髪を払うふりをして、ブレスレットにフィリップの姿を映す。見えにくくはあったが、カットソーの裾からスタッグフォンがのぞいているのが確認できた。擬似メモリはポケットに入っているはずだ。
 足下に傘を置き、膝をつく。携帯電話を取ると思っているのか、ドーパントは動かない。
 目をそらさぬまま、自分の体で隠すように背後へ手を伸ばす。指先がバッグに触れると、慎重に表面に滑らせて、フィリップの方へと手を伸べる。何とかスタッグフォンに手が届いた。次いでポケットを探り擬似メモリを引っ張り出す。他のメモリが一緒に転送されて、スタッグメモリだけが残っていたのは助かった。
「お前……何してる!?」
(あ、気づかれた!)
 ドーパントが駆け出した。
 跳ね上がる鼓動と震える指先を叱咤し、左手に載せたスタッグフォンに、擬似メモリを差しこむ。深い緑に輝くかぎ爪が振り上げられた。目をそらしたい衝動をこらえ、スタッグフォンを放り出して傘を取り上げる。真正面から受けるのは避け、下へ滑らせるように斜めに受け流した。
 その瞬間、ドーパントの目元めがけて、黒い軌跡が鋭く走った。ライブモードへと切り替わったスタッグが飛び立ち、目の前の敵を攻撃したのだ。
 悲鳴を上げ、ドーパントが飛び退く。
「フィリップ君から引き離して!」
 亜樹子の声に硬い翅を震わせ、スタッグは再び上空から強襲した。


 翔太郎がドーパントを見つけたのは、住宅街の外れにある小さな廃工場だった。迷い猫探しのつもりで訪れたのだが、ひとりで大騒ぎしているドーパントを見つけてしまっては、放置しておくわけにもいかない。
 早速ダブルドライバーを装着し、サイクロンジョーカーへと姿を変える。
 だが、駆け出そうとした翔太郎を制したのは、場違いに冷静なフィリップの声だった。
 ――亜樹ちゃんがドーパントと接触した
「はぁ!?」
 ぎょっと身を翻したドーパントが、突如として動きを止めたダブルを訝しげに振り返った。
 今しも襲いかかってこようとした相手が突然急停止したら、誰だって驚くだろう。翔太郎だってたぶんびっくりする。
 だが、今の翔太郎は、何よりもフィリップの言葉に度肝を抜かれていた。
 ――亜樹ちゃんはたぶん逃げない。あのままだと危ないよ
「ちょっと待て、お前の体の方が危ないだろ!」
 亜樹子は自由に動けるが――もっとも、翔太郎は、亜樹子がひとりで逃げるとは思っていない――フィリップの体は抜け殻だ。十中八九、変身の瞬間も見られただろう。脅威として排除されるのは時間の問題だ。
 それなのに、相棒の関心は、残してきた体よりも亜樹子の身の安全にあるようだった。思いやれるようになったと喜ぶべきなのか、少しは自分の心配をしろと叱るべきなのか。
 頭が痛い。抱えこもうとして、柱に身を隠していたドーパントと目があった。こっそりこちらをうかがっているつもりだったのか、いたずらの見つかった子供のように飛び上がった。本人は真面目なのかも知れないが、何となく腹が立つ。
(つか、こいつさえ出てこなけりゃ……)
 八つ当たりのようににらみつけると、怯えたようにじりじりと下がる。
 このドーパントは見逃すしかないか――あきらめ半分でジョーカーメモリに手をかけた瞬間、フィリップの意識が話しかけてきた。
 ――亜樹ちゃんには助っ人を用意しておくよ
 ――はぁ? 助っ人!? そんなのいつの間に……
 ――だから、君はドーパントを倒せばいい。すぐに戻るよ
 あいかわらず話を聞かないフィリップの意識が、わずかに遠ざかった。体へ戻ったのではないことは、サイクロンジョーカーへと変じた体に少しの変化もないことからも明らかだ。
 サイクロンサイドが勝手に動く。スタッグフォンを取り出し、耳に当てた。
 携帯電話で通話する仮面ライダー――あまりに間抜けな姿に翔太郎は青ざめるが、あいにく、ガイアーマーは鮮やかな緑とつややかな漆黒のままだ。
(とにかく今は……)
 右足が自由に動かせることを確認すると、強く地を蹴って駆け出した。慌てて逃げようとするドーパントに追いすがり、強烈な蹴撃を叩きこむ。頭の中で呼び出し音が反響しているが、亜樹子が出る様子はない。
 襲われているのか、あるいは、説得しようとしているのか。
 左手で地を叩き、逆さになった体をひねる。下方から情報へと鋭い弧を描き、踵を跳ねあげた。左足、次いで右足。ドーパントが悲鳴を上げて吹っ飛んだ直後、フィリップは満足そうに意識を波打たせ、電話を切った。
 ふと気づく。
 ――お前、電話したのって……
 ――亜樹ちゃんの携帯電話さ
 ――はじめから、スタッグフォンを使わせるつもりだったんだな
 ――他に何があるの。僕にはバットショットはないよ
 内緒話めいた、意識の揺らぎによる会話。
 楽観は禁物だが、これでしばらくはもつ。亜樹子だって馬鹿じゃない。スタッグをうまく使って、何とか時間稼ぎをするはずだ。
「行くぜ、フィリップ」
 ――ああ。はやく亜樹ちゃんを助けないとね
 ――お前の体もな
 漆黒の旋風が宙を舞う。

 相手が小物で助かった。大金出してガイアメモリを買ったはいいが、何をすればいいのかわからなくなってしまい、あんなところをさまよっていたらしい。
 逆ギレして暴れ出したドーパントに軽くジョーカーエクストリームをぶちこんでメモリブレイクをすませると、ダブルはハードボイルダーにまたがった。
 交戦時間は10分にも満たなかったが、その間、心臓がずっとばくばくとせわしなく波打っていた。フィリップの意識は半身に宿るままだから、残してきた肉体も無事なのだとは思うが――。
 フィリップのヴィジョンを共有し、目的地への最短ルートを突き進む。なるべく人目につきたくはないが、緊急事態だ。多少のことには目をつぶることにした。どうせ都市伝説になっているのだ。今更逃げ隠れしても遅いだろう。
 ――フィリップ、まだ無事だろうな
 ――ああ。それより、向こうに戻ってもいいかい
 ――ダメに決まってんだろー!?
 ――なぜ? 僕も一緒に逃げたほうが、効率がいいはずだ
 そうとも限らないことに気づいてほしい。フィリップが戻ったことに安堵して、亜樹子の集中が切れてしまうことだって考えられる。気が抜けた瞬間、何が起こるかわからない。誰もが、フィリップのように揺るぎない精神――実は振れ幅が大きいのだが――を持っているわけではないのだから。
 だが、心というものがいまいちわからないでいるらしい相棒は、懇切丁寧に説明したところで理解できないだろう。そんなことをしている場合でもない。
 ――もう目的地だ、我慢しろ!
 納得したのか、フィリップはおとなしくなった。検索を始めそうな気配もない。
 小さな川をガードレールごと飛び越え、マナー違反は百も承知で、ハードボイルダーを公園内に乗り入れた。
 石畳を踏みしだき、冬枯れた芝生を巻き上げ、小さな林に囲まれた遊歩道へと向かう。
 紅葉の兆しの薄い木立の向こうに、色あざやかな服装の亜樹子と、保護色のような苔色の体色をしたドーパントの姿がかいま見えた。
 亜樹子にはケガはないようだが、かなり消耗しているようだ。彼女の傍らには、倒れ伏した相棒の姿がある。こちらも傷ひとつないようだった。
 排気音に気づいたのか、亜樹子が視線をよこす。安堵したように膝をついた。
(これが怖かったんだ……!)
 ドーパントが、よろめきながらも一歩を踏み出す。亜樹子は動かない。
「待てコラ!」
 ハードボイルダーを加速させ、一気にドーパントへとつっこんだ。ドーパントは濁った悲鳴を上げ、あっけなく吹っ飛んでいく。
「翔太郎君!」
 亜樹子が勢いよく立ち上がる。彼女の肩に、ドーパントから離れたスタッグがとまった。
 ハードボイルダーを降りたダブルが駆け寄ると、亜樹子はびしっとサムズアップを決めた。意味がわからず、呆然とする。
 間に合ったことをねぎらっているのか?
 だが、続く亜樹子の言葉は、翔太郎の予想を遙かに突き抜けていた。
「メモリブレイク、頼んだわよ」
 いい笑顔で言われ、翔太郎は思わず叫ぶ。
「嘘だろー!?」
 ふと気づけば、折れ曲がった傘が足下に落ちている。亜樹子のものだ。
 地面に転がっているドーパントは、かなり弱っているのかぴくりともしない。よく見れば、昨日メモリブレイク寸前で取り逃がしたドーパントだ。ダメージも抜けきっていなかっただろう。
 それにしても。
 いくらスタッグの手助けがあったとはいえ、亜樹子は一般人だ。弱っていたとはいえ、ドーパントをここまで追いつめてしまうとは考えもしなかった。亜樹子が強いのか、スタッグが優秀なのか――ドーパントが弱すぎたのか。
 いずれにしても、何だか情けなくなってくる。
 ――亜樹ちゃんってすごいかも
「いや、すごすぎだろ」
 すごい、ではあまりに生ぬるい。
「正直、ありえねえ」
「え、なになに、なんか言った?」
「あー……お前すごいって」
「え、そうかなー?」
 何やら照れている。
 護身術を教えるのは、もうやめにしておいた方がいいかも知れない。このままだと、ダブルなしでもメモリブレイクできるくらい強くなってしまいそうだ。
 ダブルの存在意義について悩みたくはない。
 フィリップの体を守るように背にし、明るく応援してくる亜樹子の声を聞きながら、翔太郎はジョーカーメモリを抜き取った。
「さあ、お前の罪を数えろ」
 翔太郎、フィリップ、亜樹子――3人の声が見事に重なった。

*  *  *

 dukej様リクエスト「亜樹子が活躍するお話」
 10月10日、ブログでつぶやいていた「ネタ下さい」に対して、下さったリクエストでした。長らくお待たせしてしまって申し訳ありませんorz;;
 はじめはスリッパでフルボッコの予定だったのですが、それだとあまりにも人外じみてしまうので、スタッグフォンと一緒に頑張ってもらうことにしました。