フラッシュバック/ダブル



 青い闇に曙光の兆しが混じる。
 眠りともつかない意識の揺らぎにおぼれる翔太郎は、息苦しさに耐えかねてあえぐように息をついた。まばたきのたびフラッシュバックするのは、いくつもの弾丸に撃ち抜かれ、翔太郎に愛用の帽子をかぶせて事切れたおやっさんの姿。
(なんで……なんでおやっさんが……)
 同じ言葉ばかりが繰り返される。体は疲れ切っていて、脳は眠ることを要求しているのに、眠気は一向にやってこなかった。
 喉の奥が締め付けられるように重い。窒息しそうだ。まるで中毒のような息苦しさ。喪失という猛毒が全身を蝕む。目の奥の痛み、灼けるような熱――眦からこぼれた涙がこめかみを伝い、髪に吸われて消えた。声帯が震える。こぼれ落ちるのははかすれたうめき声。心臓を守るように寝返りをうった。
 拍動がひとつ。ひときわ大きく心臓を鳴らす。耳管のあたりが痺れるようにうずき、再び涙があふれた。
 枕の向こう、青白い闇に沈むソファベッドに少年がいた。膝を抱えて床を見下ろしている。
 ほんの数時間前まで、翔太郎の中には欠片もなかった存在。彼を得る代わりに、かけがえのない人を失った。
 心臓が、ことん、と嫌な音をたてた。耳の奥で血潮がざわめく。瞼裏が赤く染まった。発作的な焦燥感に駆られ、翔太郎は飛び起きる。
 傍らの少年がゆっくりと振り返った。古木の虚を覗きこんだような、どこかに絶え間なく脈打つ命を隠したようなまなざしが、嫌でもおやっさんの死を意識させる。あの化物が打ち砕いた穴の中へ、おやっさんは吸いこまれるように落ちていった。葬儀を出すことさえできない。
 失われてしまった。永遠に。
「お前……なんなんだ」
 問いかけに、少年は答えない。物言いたげに唇は開いたが、すぐに閉ざされた。
 目障りな白――それは、少年に貸し与えた翔太郎のパジャマの色。目を閉じることさえできない。魅入られたように、罪悪感を貫く色彩が網膜に焼きつけられる。
 ふたりで向かい、ふたりで戻った。おやっさんと翔太郎、翔太郎と魔少年。
 翔太郎がもっと警戒していれば、おやっさんは助かったかも知れない。もっとはやくおやっさんの元にたどり着いていれば、撃たれることはなかったかも知れない。いや、あそこに行くことがなければ、おやっさんは殺されることもなかったし、翔太郎にトラウマが穿たれることもなかった。
 そうだ、こいつさえいなければ――。
 倒れ伏すおやっさん、血に染まった手が、帽子をつかむ――いらない、そんなものいらない。あなたと共に歩み、もっと多くを学びたかった。共に在った時間は、あまりに短い。
 この少年の存在が、翔太郎から尊敬する師を奪い去ったのだ。おやっさんからは、そのかけがえのない命を。
 八つ当たりだ、逆恨みだ。わかっている。
(こいつの……せいで……)
 激情が理性を焼き切った。感情が手綱を振り切り、自制の水面が一瞬で突沸した。
 手を伸ばす。少年をベッドに引き倒し、馬乗りになった。首に手を掛ける。全体重を載せ、未発達な喉仏を潰すように首を絞めた。死海の水のような瞳が見上げてくる。感情の揺らがない、諦念も疑問さえも存在しないまなざし。そのすべてを振り払うように、渾身の力をこめて締めつける。
 少年は身じろぎひとつしない。苦しみを表すことも、声を上げることもない。その体から力が抜ける。最後の吐息を絞り出すように目を閉ざした少年の姿に、翔太郎は悲鳴を上げて飛び退いた。

 けだるい水面を突き破り、翔太郎の意識は覚醒する。布団をはねのけ、飛び起きた。室内は薄青い。金の光がわずかにまじり、夜明けが近いことを知らせていた。
 脈打つ音がやけに耳につく。握りこんだ拳を左胸に当てると、おそろしいほど鼓動がはやい。全身に嫌な汗が浮いていた。喉の奥がしみるように痛む。跳ね上がる呼吸を整えながら恐る恐るソファベッドへと目をやった。
 名も知らぬ少年は、膝を抱えて視線を天井にさまよわせている。
(夢……か……)
 なんて夢だ。己を失い、少年をくびり殺すなんて――。
 彼は何もかもを奪われ、あの装置に閉じこめられていた。罪などない、責任があるわけでもない。恨んではいけない、憎んではいけない。それは、おやっさんを否定することになる。
 助けに行くと決めたのは、おやっさんだ。事情のすべてを知らされることはなかったが、翔太郎もそれに従った。後悔などしてはいけない。絶対に。
 片膝を立て、抱えこむように息をつく。
「お前、なんであんなところにいたんだ」
 視線だけを向けて問いかけると、少年の目が翔太郎に向けられる。
「さあ」
「…………」
「僕がなぜあそこにいたのか、何者なのか。それは僕も知らない。僕が知りたいくらいさ」
 感情の上辺をなぞるような、深みのない声音。打てば教会の鐘のように響くように思えるのは、空洞だからだ。それが今まで彼の居場所だったのだと思うとぞっとする。
 感情の薄いまなざしが、最低限の興味も失ったように翔太郎を離れる。その喉元に鬱血のあとを見つけた気がして、心臓が跳ねた。よく見ればそれは、カーテンを透かして降りそそぐ夜光の、髪に吸い取られた翳り。
 不意に気づく。
 喪失は、翔太郎だけのものではない。この少年も失ったのだ。安心して身を預けられる居場所――その唯一の存在となり得た鳴海荘吉を。何一つとして状況を知らぬまま、事情すらわからぬまま連れ出され、探偵助手ひとりに連れられて、見知らぬ事務所で心細い夜を迎えている。
 彼にはそこまでの感受性はないのかも知れない。感情の発育する環境、いや、情緒の育まれる世界の一切をはぎ取られ、人間らしさの欠片を取り除くように生かされてきたのだろうことは、想像に難くない。翔太郎の考えがただの空想に過ぎず間違っていたとしても、実態はそう遠くないところにあるだろう。
 彼は、自身の異常を知らないのだ。
「お前、名前はなんて言うんだ」
 意識して、声を和らげる。少年はことりと首を傾げた。
「僕には名前などない。それは、誰かに与えられるものだろう?」
「そっか。じゃあ、俺が考えてやるよ。そうだな……」
 布団を被り直し、天井を仰ぐ。わずかに戸惑ったような気配が空気に混じるが、あえて視線を向けなかった。
 翔太郎が再びしゃべり出すのを待っているらしい律儀な沈黙に、胸の底から笑いがこみ上げてきた。まるで、犬を拾ってきたような気分だ。
 ふと思う。
 おやっさんも同じような気持ちだったのだろうか。

「フィリップ」

「呼んだかい、翔太郎」
 ふと気づくと、傍らに魔少年がいた。パーカーの裾に何かよくわからないもの――おそらくほこりの山だ――をくっつけ、なぜか誇らしげな顔で翔太郎のベッドに乗っかっている。
「……フィリップ?」
「他に誰がいるというの」
 気まぐれな子犬は、ほこりの固まりをベッドに残してするりと床に降りた。
 翔太郎はあっけにとられ、目をしばたたかせた。
 空気のにおいが違う。悲愴を含んだ夜の気配は消え、明るい朝の陽光が部屋いっぱいに降りそそいでいた。開かれた窓からさわやかな風が舞いこみ、レースのカーテンを躍らせる。
(そうか、夢か……)
 あの夜を夢に見るのも久しぶりだ。胸の内が凍りつくような感覚は、何度見ても忘れられられない。
 だが、現実は余韻にも浸らせてくれなかった。
「今日はもんじゃ焼きに連れていってくれる約束だよ」
 時計を見やれば朝の8時だ。
 足取り軽くクローゼットに近づき、勝手に扉を開ける後ろ姿を目で追いながら、小さくため息をつく。腹筋を使って勢いよく半身を起こした。
「お前、いいから着替えてこい」
「なぜ?」
「裾がほこりまみれだろ。またどっかその辺に座りこんで、一晩中検索してたな」
「よくわかったね、翔太郎」
 わからないはずがない。目の下にはうっすらと隈が浮いているし、多少の疲れは見えるものの明るい顔色は、検索して満足な結果を得られたときの表情そのもの。
 これ以上ほこりを散らかされたら面倒だ。さっさと部屋から追い出しにかかる。
 だが、フィリップはベッドの隣のソファに腰を下ろした。邪険な扱いにも特に不満そうな様子はない。いつも手にしている本を開き、一心不乱に読み始める。
「俺は着替えたいんだけどな」
「どうぞ。僕は君の着替えに興味はないから」
「…………」
 1ミリも興味などなさそうな――むしろ迷惑そうな面差しで言うくらいなら部屋から出て行けと怒鳴りたい気持ちでいっぱいだったが、ため息で感情を紛らわせる。
 朝から怒っていても、いいことなど何もない。
 喪失の夜から、もうすぐ1年がたつ。
 時折これ以上ないほど神経を逆撫でしてくれる相棒は、無機質な印象がそげ落ちてだいぶ人間らしくなった。翔太郎も、当初のてんやわんやの日々から解放されて、それなりに余裕も出てきた。食事から何から世話しなければならなかった頃が嘘のようだ。
「行く前にパーカー着替えてこいよ」
「大丈夫さ、翔太郎。それくらいわかってる」
「とか言っといて、この間、ほこりまみれで出てっただろ」
 フィリップは肩をすくめるが、てきぱきと着替えを進める翔太郎には目もくれない。何をそんなに読んでいるのかと覗きこんでみたが、さっさと着替えてよと、嫌そうな顔で押しのけられた。
 ネクタイを締め、ベストを着こむ。
「こんな時間じゃどこも開いてないな。どっか寄ってから行くか」
「市場、というものに行ってみたいな」
「……市場ねえ。探しがてら行ってみるか。ほら、着替えてこい」
 今度は素直に立ち上がり、ガレージの方へと向かう。
 身繕いしながら、翔太郎は心の中で苦笑した。
 あの頃、あの夜は、こんな風に仲間として接する日が来るとは少しも考えなかった。共倒れの日を恐れ、喪失の痛みに苦しむばかりだった。
 だが、今は違う。違う、と言いきれる。
 傷は癒えたわけではないけれど、ひとりではないから。ひとりでは半人前でも、ふたりなら一人前。あの夜出会った翔太郎とフィリップならば、きっと、ガイアメモリから風都を守ることができる。
 翔太郎は、そう信じている。

*  *  *

 多少の軋轢はあったでしょう。表に出たか出ないかはさておくとしても。
 前半のバイオレンスな表現の数々(怒りとか喪失)を考えるのが、ちょっと楽しかったです。