君の名を/ダブル



 迷いこんだのは純白の迷宮。無数の本棚がつらなる、この世のものとも思えぬ空間だった。
 風変わりな図書館という表現がしっくり来ないのは、本棚が遙か頭上にまで際限なく広がっているからだろう。何一つ支えなど存在しないのに、落ちることもなければ、傾くこともない。圧倒的な本棚の群が、無言で鳴海を見据えている。
(知識の腹の中)
 そんな表現が、ふと降りてきた。生命の温もりなど何一つとして存在しないのに、有機的な気配に包まれているような感覚がある。かそけき揺らぎではあるものの、それは確かに存在した。
 まばたきの刹那、呼ばわる声が聞こえた気もするが――圧倒的な静寂に吸い取られ、あっけなく消えてしまう。耳鳴りさえも霧散するここは、一体どこなのだろう。
 来るべくしてきた場所。その確信はあった。場所もその名前も知らないが、それは確信の妨げにはならない。探し求めていたものの一端があると、本能よりも深いところで何かがささやく。
 疑念を差し挟む余地もない、揺るぎない真実。
 不可思議な図書館の奥で、誰かが呼んでいる気がする。鳴海はゆっくりと歩を進めた。姿の見えぬ床が、靴底を強く押し返す。靴音が高い音をたてるが、残響ひとつ残さずに消えていった。
 なぜか、本を手に取ろうという気にはならない。
 それよりも重要な存在が、この細い通路の先に必ずある。それを確かめるのが先だ。
 本棚、納められた無数の本、鳴海――すべてを内包する純白の空間。そこに異物を見つけたのは、歩数を数えるのをやめてしばらく経ってからだった。
 本棚の端からのぞいているのは、周囲の白よりも光沢のある布地だった。袖口らしいと見当をつける。床に座っているらしい。
「誰かいるのか」
 低く問いかける。返事はない。
 気づいてさえいないかのように、何の反応も見せなかった。鳴海がいるということを認識できていないのではないか――そんな思いが脳裏をかすめる。
 あるいは、あれは死者なのか。
「何をしている」
 人影がわずかに動いた。前方に投げ出していた足を引き寄せるような仕草を見せる。どう見ても鳴海に対する反応ではないが、生きている人間だとわかっただけで充分といえよう。どこかも知れぬ場所で、死者と対面することにならずによかった。
 どうやら、それは少年だった。郷里に残してきた娘よりも幼いだろう。もちろん、つい先ほどまで行動を共にしていたはずの弟子よりも、もっと。
「ここの主か?」
 少年のすぐ隣で足を止める。
 本棚に背を預けるようにして座っていたのは、光沢のある白色の上下に身を包んだ少年だった。真っ黒な髪はろくな手入れもされていないのだろう、好き勝手に跳ね回っている。わずかに仰向いた面差しは整ってはいたが、人間としての核を成す何かが欠けていると、一目でわかる容貌をしていた。
 瞳は、底の見えない漆黒。
 鳴海の胸中に、氷の欠片が高い音をたてて転がった。
 焦点が鳴海に結ばれたのは、ほんの一瞬。その視線は、どことも知れぬ宙へと戻っていく。異様なほど強烈な存在感を放ちながら、全くの無味乾燥な印象が、胸の底の警鐘を鳴らした。
 少年には感情が見えない。押し隠されているのではなく、表現を知らないように見えた。
 まるで、囚われた子供のような――。
 彼は望んでここにいるわけではない――直感する。他に居場所を知らないのだ。ここだけが、彼を許す。ここだけが、彼を拒まない。傷つけることも、奪うこともない。すべてを引きはがそうとする手から逃れて、彼は閉じこもっている。
 そんな気がした。
「ここがどこか、知っているようだな」
 不意に少年の目が輝きを増した。
(違う)
 それは、輝きと呼べるような陽性のものではなかった。自身が何に飢えているのかもわからない、貪欲で悲愴な眼光だ。
「地球さ」
 簡潔でいて、これ以上ない完璧な答え。
「本は地球の記憶。すべてが記録されている。ここには何でもある」
 知識の聖域。情報の監獄。司書とさえ呼べないただひとりの少年だけが存在する、知の集積極まる象牙の塔。
 絶対知さえ及ばない、唯一無二の世界。
「地球のすべてがつまった本、か。まるで地球〔ちきゅう〕の本棚だな」
 少年は静かに瞬いた。
「名は?」
 数秒の沈黙。
 探るような目が鳴海を睨め上げる。図書館の名と、少年の名、どちらを訊ねたのか、思索したのだろう。
「僕に名はないよ。必要ない」
 認められていない存在ということか。あるいは、彼が名を捨てたのか。鳴海にはそれはわからない。確かなのは、彼は平穏を求めているわけでもなく、かといって不穏を望んでいるわけでもない、ということ。
 虜囚という印象は、どうやら間違っていない。
「……本棚」
 少年は小さくつぶやいた。ゆるりと鳴海を見上げる。嵐の先触れのごとく凪いでいた瞳の表層に、歓喜の小波が走る。
「地球の……いや、地球〔ほし〕の本棚!」
 半ば叫ぶように少年は言った。平坦な表情には似つかわしくない、どんぐりを見つけた子供のような無邪気な声で。
「ここは地球の本棚。その名がふさわしい」
「名前をつけることはできるのに、自身の名には思い至らないか」
 少年の目元がわずかに歪む。
「何か問題でも? ここにいるのは僕だけだ。誰も名を呼ばない。必要ないよ」
 その目が雄弁に語る。君もすぐにいなくなる。名を呼ぶものは他にはいないのだから、そんなもの必要ない。名前だけが取り残されて、忘れようとしていたものが呼び起こされてしまう。
 鳴海は否定できなかった。
 ここがどのような場所なのかはよくわからないが、平時にたどり着けるところではないことだけはわかっている。一度去れば、二度と流れ着くことはないだろう。少年と時を共有できるのも、ほんのわずかな間。
 望めば残ることもできるのかも知れない。だが、鳴海がそれを望むことは一切ないと言い切れる。
 風都の人々、その笑顔を守るために鳴海は探偵になった。近頃頻発する怪事件を起こす正体不明の暗い影を、野放しにしておく気はなかった。
 奇跡とさえ呼べる邂逅は、この先の絆には決して結びつかない。
「君もすぐにいなくなる」
 鳴海の足下に定められた視線を追うと、足下に落ちる影が色を失い、足が消えかかっているのが見えた。
 タイムリミットのようだ。
 耳の奥で声がする。鳴海に必死に呼びかける、若い男の声。
「また会いに来よう。必ず」
 少年はわずかに瞠目した。物言いたそうに開かれた唇がきつく閉ざされ、軽く瞑目する。ふいと顔をそらしてしまった。
「……好きにすればいい」
「そのときまでに、名前を覚えておけ」
 少年はわずかに眉を寄せた。戻された視線には、怪訝な色合いが強い。
「名前?」
「俺は鳴海荘吉」
「……鳴海……荘吉」
 壊れ物におずおずと触れるような、どこか頼りなささえ感じる声。先ほどまでの非人間的な有様とはうってかわって、驚くほど子供じみた反応だった。
 こちらが本質なのだとしたら――一体何者が、彼の魂を撓めてしまったのだろう。
 そして、と告げる。
「お前はフィリップだ」
 名を与えるなら、極上でなければ意味がない。
 視界に白い霞がかかる。少年の姿がもぎ取られるように遠ざかった。いや、引きはがされているのは鳴海だ。視界が危うく揺さぶられる。驚いたように立ち上がる少年の姿が、どんどん小さくなっていく。
 少年が何かを言った。声は聞こえない。
 手が伸ばされる。遠ざかる鳴海へ向けて一歩を踏み出し、戸惑うようにゆっくりと。その手が伸びきるよりもはやく、鳴海の視界はノイズに沈んだ。

 重いまぶたをこじ開けるように目を開くと、薄暗がりが広がっていた。体に力が入らない。うめき声がもれると、慌てたような足音が聞こえた。踏みしだかれる草の音に混じって、流れる水音が鼓膜をなでる。
「おやっさん!」
 その声に顔を動かすと、若い男の顔が視界いっぱいに広がった。拾った当初よりもずいぶんと探偵らしくなってきた弟子だった。その手には携帯電話がある。今まさに、電話をかけようとしていたらしい。
 呼ぶな、と声をかける。不承不承と言った体で、翔太郎はうなずいた。
「ドーパントはどうした」
 手を貸そうとする翔太郎を押しとどめ、自力で半身を起こす。軽いめまいはあったが、頭痛も吐き気もない。脳震盪ではないだろう。うまくダメージを逃せた自信がある。
 ドーパントの頭突きを真っ向から食らったときには死を覚悟したが――そのおかげであの少年に会えたのなら、感謝すべきか。
「逃げました」
「よく追いかけなかったな」
 翔太郎は黙りこんでしまう。鳴海が気を失ってしまったことで、そこまで頭が回らなかったらしい。
「翔太郎」
 不思議そうに顔を上げる弟子に、にやりと笑いかける。
「今度、フィリップに会いに行くか」
 翔太郎は目を丸くした。救いを求めるように周囲を見回してから、ことりと首を傾げて反復する。
「フィリップ……に? 会いに行く、ですか」
 誰ですそれ、とは言えないようだった。鳴海の認める――翔太郎の敬愛するフィリップ・マーロウではないことだけは理解している。だが、それ以外に、思い当たる「フィリップ」がいないのだろう。
 当然だ。
 あの子供の存在を、翔太郎が知るはずもない。
「お前とは何もかも正反対な子供だが……助けてやれ。あの子は罪さえ知らん」
 吹き抜ける風が、きっと、翔太郎と少年を巡り合わせるだろう。
 そのとき、鳴海はそばにいるだろうか――確証のない不安が過ぎるのを、頭を振って振り払う。


 灼熱の激痛に撃ち抜かれたその瞬間、鳴海は終焉が来たことを知った。
 泣き叫ぶ翔太郎、傍らにたたずむフィリップ、そして、黒服の男たちと、赤いドーパント。
「あの子を、頼む……」
 幾重にも願いをこめ、鳴海は最後の一言を絞り出した。
 2度目の出会いが今生の別れ。
 後悔はしない。鳴海の手は離れてしまったが、翔太郎なら決して手を離したりはしないだろう。翔太郎は優しい。きっと、その深い情愛が、少年を人間に変えていく。
 町を守る切り札にして、最大の混沌、無秩序の知識――ドーパントという存在の根源とさえ言える、記憶の化身。翔太郎はそれを手に入れた。
 少年の感情の薄いまなざしが鳴海に据えられる。その唇が「鳴海荘吉」と動いた。
 それだけで充分。
 鳴海の意識は閃光を放って飛翔した。

*  *  *

 久しぶりの更新となってしまいましたorz 地球の本棚でのフィリップとおやっさんの出会いを見て、書きたいなあと思いながらエンジンスタートに時間がかかった作品。
 名前をつけたのがおやっさんだったら、という妄想です。この人は、さらっとこういうことをやりそう。真性のハードボイルド。