真夜中の白い虹 1 / ダブル



 目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。ぼんやりと見上げる。何かが足りない気がしたが、それが何かはわからなかった。
 真昼へ登りゆく途中の陽光は淡く、部屋の隅には薄暗がりがわだかまる。風車の揺曳は、夢のような陰影を瞼裏に揺らした。人の声が近づき、また遠ざかる。それきり音は途絶えた。きぃん、と小さな耳鳴りが鼓膜を震わせる。
 どこか現実離れした感覚。そばに人の気配は全くない。
 薄く開いた唇の隙間から、冷たい空気が滑りこんでくる。吐き出すように口を開いた。
「――……」
 フィリップ、と。
 そう呼んだつもりで、声が出なかった。
 がちん、と胸の奥で氷の塊がはぜる。微睡にも似たぬるんだ空気が消し飛んだ。深い水底から引きずり出されるように、紗のように思考を覆っていた見えない幕が切り開かれる。
 翔太郎は目を見開く。早鐘を打つ心臓の上に拳を押し当て、速い呼吸を繰り返す。
 一瞬、状況が理解できなかった。素早く目を左右に動かす。左にはデスクが、右手には壁が迫っている。
「俺、なにやってんだ……?」
 床に転がっている心当たりがない。首をねじ曲げて頭上を見やれば、窓辺に押しやられた椅子が、こちらに座面を向けて白い光を撓めている。
 深呼吸をひとつ。包帯ぐるぐる巻きの右足を引き寄せ、ゆっくりと半身を起こした。右手をついたとたん、手首に激痛が走る。けたたましい自己主張に転げそうになり、慌てて左手で支えた。硬い布地が手に触れる。振り返ると、お気に入りの帽子を下敷きにしていた。
 慌ててお尻の下から引っ張り出したが、哀れなほどひしゃげてしまっている。
「あーあ、こんなになっちまって……」
 左手と不自由な右手でなんとか立て直そうとするが、帽子は頑固にぺしゃんこのままだった。これは自力では直せそうにない。フィリップに直し方でも検索してもらおう。
 がっくりとうなだれる。落としたため息は途中で止まった。
 目を見開き、息を呑む。
「なん、で……」
 喉の奥が震えた。祈るように瞑目し、ゆっくりと目を開く。その光景が、たちの悪い見間違いであることをがむしゃらに願って。
 だが。
 事態は何も変わらなかった。見間違いなどではない。そこに確かにある現実。
 淡く光を跳ね返し、その存在感を示すダブルドライバー。ボディサイドにはジョーカーメモリが挿さっていた。
 全身の血液が足下へと流れ落ちる音が聞こえる。みるみる青ざめていくのが自分でもわかった。視界が翳る。ごとん、と嫌な鼓動が聞こえた。
「フィリップ……」
 冷たいかぎ爪が心臓を鷲掴みにする。
 衝撃は唐突だった。翔太郎はわけも分からぬまま身を強ばらせる。
 表面のざらついたおそろしく冷たいものが、体の奥底に分け入る。凍る闇が迫り――ゆるやかに波打つ気高い魂との架け橋を、無造作に叩き割った。穏やかな熱が引きはがされる。痛覚が爆発する。隣り合う魂の五感が、堪えきれずに消し飛んだのを悟った。喉も裂けんばかりに放たれた悲鳴が、翔太郎の奥深くに容赦なく突き刺さる。
 翔太郎がむりやり引き抜かれた衝撃をまともに食らったフィリップは――ファングジョーカーは硬直した。背筋をわずかな痙攣が走り、仰向くようにのけぞる。
 翔太郎が伸ばした手は届かない。届かない、届かない。どんなに伸ばしても届かない。声も、手も、何もかもが遠くて。
 隣り合う魂が分かたれた瞬間、隔絶されたふたつの魂の距離は、限りなく引き離された。目の前にいても、すぐ目の前にあっても、もう、何もできない。何も、できない――。
 衝動的に叫ぶ。
「フィリップ、聞こえるか!? フィリップ!」
 その声を切望する。「どうしたんだい、相棒?」と、何事もなく返される少し皮肉な少年の声を。
 だが、無情にも、返ったのは沈黙だった。意識の揺らぎさえなく、ドライバーの向こうに確かに存在するはずの気配を、まったく感じ取れない。
 ダブルドライバーをつかんだ手が震えた。全身が心臓になったように、嫌な心音がそこかしこで響く。噴きだした汗が気持ち悪い。
 シャツの胸をつかむ。指先がじんと痛んだ。
(嘘だ……そんなの、認めねえ)
 全身が瘧のように震え出す。
 再びのフラッシュバックが、頭の先からつま先までを稲妻のように駆け抜けた。
 無慈悲な手が翔太郎の魂を鷲掴みにした。こことは違うどこかできしむ痛覚。むりやり引きずり出される喪失感に、翔太郎もまた、絶望の叫びを上げた。もがいても暴れても、もうフィリップの中には戻れない。
 目の前で見せつけられた。
 ガイアーマーが霧散する。戦士へと変じていた肉体が、元の少年の姿を取り戻していく。見開かれていた目が閉ざされ、青ざめた頬に無念を残して、力なくその場に崩れ落ちた。地に落ちたファングが胸をえぐるような声を上げる。頭を下げ、勢いよく地を蹴るその姿に、悲愴な覚悟が透けて見えた。
 哀れなファングが地に叩きつけられ、踏みにじられるその姿を最後に、翔太郎の意識は途切れている。
 見上げた時計は、午前10時過ぎ。ドライバー装着から1時間近くが経っている。
(あいつは……ドーパントの目の前で……)
 変身解除、した――させられた。無事でいるとは、どうしても思えない。少なくとも意識は失ったままだ。重傷を負っている可能性もある。あるいは、最悪の事態だって――。
 ぶるりと体が震えた。床の上で縮こまるように自身を抱きしめる。痛みを感じるほどに奥歯を噛みしめ、目を閉じた。
 風車に絡まる風の音。しんと冷えた空気がわずかに揺らぐ。おそろしいまでの静けさの中、翔太郎の鼓動だけが耳障りだった。
 どこかで、ファングの声が聞こえた気がした。はっと周囲を見回すが、見える範囲には、すばしこく動く白い体躯は見あたらない。
 そうだ、ファングがここにいるはずがない。彼――だと翔太郎は確信している――がフィリップを置いて逃げるはずがないし、勇敢に戦ったのなら無傷ではすまないはずだ。ここまで戻ってこられる余力があるとは思えない。
 ふっと小さく息をつく。天井を仰げば、のんきな小鳥の影が迷いなく窓辺を突っ切っていくのが見えた。
「こんなんじゃ……」
 ぽつん、と声を落とす。
「相棒失格だよな、相棒」
 答える声は、ない。
 ゆっくりと右手を握りしめる。手首がびりびりと痛んだ。
 この手のせいで、タイプライターを打つのも一苦労だった。だから、このところ報告書に手をつけていなかった。昨日になってやっと始めたのは、一昨日、左足を挫いてしまい、他にできることが何もなくなったからだ。
 メモさえろくに残していなかったから、フィリップの記憶を頼りにして、口述筆記のように報告書をまとめた。亜樹子がうきうきと出かけていったのは、フィリップの髪から外れかけたクリップを翔太郎がなおしてやったその少し後。スタッグフォンが鳴き出したのは、めずらしくも相棒がお茶を――買った覚えのない梅昆布茶だった――入れてくれた、その直後だった。
 刃さんからの電話は、ドーパントの情報だった。ここ1年近くに渡って風都を騒がせているドーパントの居場所の目星がついた、という内容。追いかけてはいたが、おそろしく巧妙に痕跡を消していくドーパントに、フィリップの検索も追いつかなかったのだが。
『僕が行こう』
 駆け出そうとして勢いよくついた右足は、翔太郎の体重を支えることができなかった。
 派手にすっころんだ翔太郎に手を貸して立ち上がらせ、フィリップは頼もしく微笑んだ。
『心配せずに待っていたまえ』
 この足のせいで、バイクにも乗れなかった。ブレーキ操作が一切できないなんて、怖すぎる。徒歩にしても、時間がかかりすぎる。だから、フィリップが向かった。ファングを連れた後ろ姿を見送って――ダブルの魂は、引き裂かれた。
「相棒……」
 小さな衝撃が脳天に弾けた。目の前に火花が散る。
「なんだ?」
 鼻先をかすめて落ちてきたのは、デスクに置いてあったスタッグフォンだった。デスクの真ん中あたりに折りたたんだ状態で置いておいた。翔太郎が倒れたときの衝撃があったとしても、端まで移動するとは考えにくい。擬似メモリは挿していないのだから、勝手に動くはずもない。
 だが、現実に、スタッグフォンは落ちてきた。
「腰抜けになるなって言ってんのか?」
 スタッグフォンが答えるはずもない。鈍い輝きを宿し、翔太郎の左手の中にお行儀よく収まっている。
 小さく笑みがもれた。動けないはずのスタッグフォンが、不可能を覆して翔太郎を励ましてくれた――そう思えた。
 目をつぶる。耳を澄ませるようにして、胸郭の奥に意識を集中させる。不規則な呼吸、少しも落ち着かない鼓動をかき分け、たったひとつの痕跡を探す。奥へ、さらに奥へ、もっともっと奥へ――。ひたすら感覚の奥地へと分け入り、心を研ぎ澄ます。
 未だつながっていることを信じて。
(いるよな、相棒?)
 その声に答えるかのように、ことん、と何かが小さく脈打った。あえかな気配のその方向へ、翔太郎はさらに気力を集中させる。一歩を踏み出すたびに大きくなるその音律は、命の熱の歌だ。少し気まぐれな音色は、相棒のものに相違ない。
 意識の海の深淵、穿たれた深い亀裂のさらに奥にかろうじて引っかかっていた。焦がれるように集中しなければ決して見つけることのできない、はずれの縁のその向こう。
 大丈夫。フィリップは生きている。ファングが――おそらくは――無事ではない状態で生かされているのだ。ドーパントには、フィリップを殺す気はないのだと考えるべきだ。
 スタッグフォンを握りしめ、翔太郎は低くつぶやく。
「絶対に助けてやるからな、相棒」
 当面の問題は、フィリップの居場所がわからないこと、たとえわかったとしても翔太郎ひとりでの奪還は難しいことだ。事情を話して呼び戻せば、亜樹子は勇んでやって来るだろうが――あまり巻きこみたくはない。
 刑事よりよほど肝が据わっているが、彼女は一般人で、おやっさんの娘だ。危険にさらしたくない。
 小さく笑いがこみ上げてきた。やるべきことはひとつで、そのために迷う気はないし、立ち止まっているつもりもない。
 床に散らばった書類をざっとかき集め、手探りでデスクに置く。左手で体を引き上げると、苦労して椅子を引き寄せた。勢いよく腰を下ろすと、細かなほこりが舞い上がり、淡い陽光にちらちらと輝いた。
 視界の端に映りこむ、走り書きの「replace」の文字。
 左手でこめかみをもみほぐしながら、肺の空気をすべて絞り出すように、深く長い息をついた。頭の底でうずく頭痛を押し流せるような、胃が焼けるほど濃いブラックコーヒーがほしい。だが、今の体調では、コーヒーメーカーまで移動するのも億劫だった。
(さて、と)
 目を閉じ、断片的な情報を列挙する。
 まずは、ひとつ。
(何で俺が生きてるか、だ)
 少なくとも、リプレイスドーパントにとって、翔太郎は邪魔者のはずだ。捕まえた魂を握りつぶしてしまえば、翔太郎は確実に命を落としていた。ドーパントにとって、邪魔者が減るのは望ましいはずだ。
 腹の上で軽く指を組む。とんとんと指先で手の甲を叩いた。手首がじわりとうずく。
 翔太郎は小さく鼻を鳴らした。
(フィリップのダメージを減らすため、だな)
 ふたつの魂がひとつの体に存在していることを、一目で見抜いたくらいだ。引き抜いた魂がもうひとつの魂と固い結びつきを持っていることなど、すぐにわかっただろう。
 その場ですぐに握りつぶせば、確実に残された方にも深刻なダメージが行くことも。
 そうなれば、フィリップが生かされているらしい理由も簡単に想像がつく。
 リプレイスドーパントは、フィリップを「我が子」とするつもりだ。記憶を削り取り、ドーパントにとって都合のいい記憶で埋める――そうすることで、入れ替わるつもりだ。
 彼女の能力の真骨頂は「入れ替わり」にこそある。
(あんまり……余裕はねえな)
 侵蝕が始まれば、その余波は翔太郎にも及ぶ。どれほど相棒が持ちこたえられるかはわからないが、できるだけはやく助けてやりたかった。
 翔太郎が戦えなかったのは、不幸中の幸いだったかも知れない。正確な年齢は不明だが、一目で未成年であるとわかるフィリップとは違い、翔太郎はどこからどう見ても20代半ばだ。変身解除してドーパントの前に放り出されたのが翔太郎だったら、あっさり殺されていたかも知れない。今のところ、そういった被害は出ていないようだが。
 くわえて、フィリップの面差しは、彼女が亡くした息子とどこか似通っている。たとえ、邪魔者の命を奪うつもりでいたとしても、顔を見てしまえばそれは難しくなるだろう。
「さーて、どうするかな……」
 選択肢は少ない。勝ち目がないとわかっていて単身向かうか、照井に協力を求めるかだ。
 前者はあまりに無謀だし、無意味だ。リプレイスドーパントは、メモリの特性上、戦闘は得意ではないはずだが、妙に慣れた動きをしていた。ガジェットを効率的に使ったとしても、撃退するのは難しいだろう。
 照井に助力を求めるのは悪くない案だし、彼もフィリップのためとなれば快く手を貸してくれるだろうが――。
 どちらを選んだとしても、フィリップの現在地がわからないのではどうしようもない。
 ぐずぐずしていては、記憶の侵蝕が始まってしまう。
 この間、リプレイドーパントによって連れ去られた3人の少年少女が、風都警察によって保護された。彼らは今、隔離病棟に入院させられている。助けに来た警官たちを「母を狙う敵」だと完全に思いこみ、母を守ろうとして小さな拳で果敢に殴りかかったからだ。
 自我が戻る見込みは――今のところ――ないという。リプレイスメモリをブレイクしてつながりを絶ちきらない限り、好転の可能性はないだろう。
 無人の病室を心許なそうに歩き回り、舌足らずに母と呼ぶ姿を納めた映像を、翔太郎も目の当たりにした。哀れなまでに澄んだ瞳に、人間の姿は得体の知れぬ魔物としか映らないのを知って、ひどく胸が痛んだ。
 リプレイスドーパントに拉致される前、彼らは虐待を受けていた形跡があった。そのこともあって、異形ではあっても――記憶をむりやり書き換えてでも我が子として慈しんだリプレイスドーパントを、母と慕うのだろう。
 肉親は彼女しかいない、愛してくれる存在は彼女だけだと信じ切って。
 それは、洗脳と言うにはあまりにもやりきれない光景だった。
「相棒に……そんなことさせねえ」
 差しこむ陽光をにらみ返す。
 もし、リプレイスドーパントがフィリップの利用価値に気づけば――考えたくもない大惨事を引き起こしかねない。他の子供たちに比べて洗脳はしにくいだろうが、一度強固に植えつけられてしまえば、おそらく手に負えなくなる。
 何とか、居場所を探る手だてはないものか。フィリップが意識を取り戻してくれれば、打つ手はいくらでもあるのに。
「GPSでもつけときゃよかったよなあ……」
 思わずぼやく。
 刹那、がちん、と扉が鳴った。反射的に立ち上がるが、バランスを崩してデスクに手をつく。
 余計な期待は、一切抱かなかった。
 顔を上げる。
 開いた扉から姿を現したのは、真っ赤な上下に身を包んだ照井竜だった。デスクにはいつくばっている翔太郎の姿に、不機嫌そうに目を細める。その懐が、不自然にふくらんでいた。
「何をしている」
 座り直した翔太郎に、ハウリングを起こしそうな低い声がぶつけられる。
 皮膚が切り裂かれそうなほど剣呑なまなざしに、翔太郎は軽く目をすがめた。どうやら、翔太郎の抱える問題に気づいている様子だ。
「お前、何を知ってんだ?」
 照井は答えなかった。デスクの前で歩みを止め、翔太郎の手首の包帯と自分の懐と、視線を一往復させる。
 照井は無言のまま懐に手を突っこんだ。いたわるような手つきで取り出したのは――。
「ファング!?」
 小さなあごを上向かせ、白い恐竜型メモリは弱々しく声を上げる。
 照井の手から逃れることもできずにおとなしく横たわっているファングは、無惨にも傷だらけだった。強固な装甲には大きな亀裂が幾重にも走り、無惨にもケーブルがはみ出している部分もある。どれほど念入りに破壊したのだろう。
 わずかな希望をつみ取るために――自分がつけいりやすくするためだけにファングをここまで破壊したのだとしたら。
 胸の内が凍る。
 ファングは、こんな哀れな姿になるまで戦ったのだ。主を守るために。
 あまり無理をすれば、メモリとしての機能にも支障を来す可能性がある。だが、それを恐れもせずに戦ったのだ。
 ファングを翔太郎のひしゃげた帽子の中にそっと横たえ、照井は口を開いた。
「フィリップに何があった? やられたのか」
 確認するような口調は、ダブルドライバーを認めてのことだろう。翔太郎は唇を引き結び、うなずいた。
 照井は視線をそらす。考えこむように時計を見上げた。
 翔太郎はそっとファングをなでた。いつもならばふざけるなとばかりに威嚇してくるのに、今日のファングは物憂げに小さく声をもらしただけだった。前足がわずかに上下し、何かを懇願するように翔太郎の指先をつかむ。
「どうした? ファング」
 頭部のセンサーアイがちらちらと赤く瞬く。あごがわずかに上下するが、こぼれた声はひどくきしんでいた。
「なんだ、何を言ってる?」
「……わからねえ。俺じゃわからねえんだ」
 何かを伝えたいのだということはわかる。そのために、ファングが必死に翔太郎に語りかけてきているのもわかる。だが、フィリップのように、ファングと脳波でつながることはできない。
 こんな姿になってまで戻ってきてくれたのに――その意志を、受け取ることができない。
「フィリップが戦ったのか。リプレイスドーパントと」
 ファングを気にしながらも、照井は低く問いかけてきた。眉間のしわはいつもよりも深く、目元は緊張に青ざめている。
 翔太郎は襟元をゆるめた。小さくため息をつく。
「やっぱり知ってたんだな。刃さんが俺に電話よこしたのも……」
「俺の指示だ。子供のひとりがドーパントになって、手が離せなかった」
「子供が、ドーパントに!? 所持品検査は……」
「無論、した」
 それでも子供がドーパント化したということは――。
 息を、呑む。胸の奥で空気がつまって、今にも窒息しそうに思えた。奥歯を噛みしめる。握りしめた左手を、思い切りデスクに叩きつけた。
「子供を……なんだと思ってやがんだ……!」
「……体内に、メモリを隠し持っていた。おそらくな」
 それがリプレイスドーパントの指示だったのかどうかはわからない。確実に言えるのは、風都にガイアメモリをばらまく組織が、彼女に他のメモリも与えた、ということ。おそらくは、実験のために。
 我が子を取り戻すためにメモリを使用したリプレイスドーパントが、ようやく「我が子」とした子供にメモリを使わせるとは考えにくかったが――組織に強要された可能性はある。
 とん、とん、と。リズムを取るように指先をデスクに叩きつける。考えこむように腕を組んだ照井が、時計をかけた柱に寄りかかった。
 もう一度、心の奥底に意識を集中させる。目を閉じると、さまざまな光が瞼裏に弾けた。閃光をかき分け、一気に深層へともぐっていく。だが、いくら呼びかけても、フィリップの意識は揺らぎもしなかった。
「あーくそ!」
 頭をかきむしり、デスクに突っ伏す。
「ファングが何言ってるかわかりゃ、何か手がかりがあるかも知れねえのに……!」
「フィリップとはまだつながらないのか」
「意識取り戻さないように、何かされてるのかも知れねえ」
「だとすると……厄介だな」
 下手に警察の力も使えまい。相手はさらに慎重になっているはずだ。接近を気づかれれば、ドーパントがどんな手段に出るか、予測できない。
「手がかりはファングだけか……」
 顔を上げると、目の前にファングがいた。センサーアイが苛立たしげに明滅する。
 思わずのけぞるのと、ファングが首を伸ばすのがほぼ同時。ファングのあごは空中を咬み、がきん、と嫌な音をたてた。
「お前……俺の頭もぐ気か!?」
 つまみ上げると、ファングは不本意そうにじたばた暴れた。自由落下する翔太郎を軽く支えられるほど頑丈なあごの持ち主に思い切り咬まれたら、いくら石頭でも無事ではすまないに決まってる。
 まさか、頭を使えとでも言いたいのか。
 胡乱なまなざしを向けると、ファングはぴたりと動きを止めた。にらみ返すようにこちらを向いていたが、ふんっとばかりにそっぽを向いてしまう。
 ファングの言葉がわからなくてよかったと、そんな場合でもないのに心底思った。おそろしいほどの罵詈雑言の嵐が吹き荒れそうだ。しばらく横顔をにらみつけていると、ファングがまた暴れ出した。大きく体を一振りし、翔太郎の手を逃れる。
「ファング!」
 デスクにぼとりと落ちたファングは、半ば体を引きずるようにして動き出した。照井が顔を上げる。ふたりの見守る前で、ファングはスタッグフォンに歩み寄った。いらだったようにあごをぶつけ、その場に転げる。
 翔太郎がスタッグフォンを取り上げた瞬間、着信音が鳴り響いた。
 思わずスタッグフォンを取り落とす。すかさず照井が拾い上げ、フリップを開いた。ディスプレイを確認し、何かを堪えるように眉根をきつく寄せる。
「フィリップだ」
 差し出されたスタッグフォンを、奪い取るように手にする。通話ボタンを押して、ハンズフリーにした。デスクに戻す。照井にも聞く権利があると思った。
「……フィリップ?」
 恐る恐る。声を、かける。ざりざりと空気の流れる音がする。雑音まじりのスピーカーの向こうで、誰かの吐息を確かに聞いた気がした。
 もう一度、声をかける。
「フィリップ?」
『翔太郎……』
 ささやくような声が返った。ひび割れ震えた相棒の声。ざわりと全身が粟立った。
 唇を引き結び、瞑目する。
「フィリップ、無事なんだな?」
『これを無事といえるならね』
 何とも可愛くない返事だったが、軽口を返せる余裕はあるらしい。微かな安堵が胸底をかすめる。
 だが、次の言葉で凍りついた。
『あなたがこの子の半身? 相棒、ね』
 子供をあやすような口調の、ひどく落ち着いた女声。リプレイスドーパントの声だった。
 胸の中央を荒いヤスリでなで上げられたような、強烈な違和感。くつくつと喉を鳴らすような声がもれ聞こえる。そう、彼女は笑っていたのだ。これ以上ない素敵ないたずらを思いついた、無邪気な子供のように。
「……相棒を帰してもらうぜ、ドーパント」
『それを決めるのは私だから。こっちに来ない? 会いたいでしょう。ねえ?』
 胸の底を警戒の炎が炙る。照井に視線を向けると、彼もまた、厳しいまなざしで翔太郎を見ていた。固い視線がかみあう。照井がうなずき、翔太郎はため息をついた。
 どう考えても、罠だ。
 あえて問う。
「そりゃ罠のお誘いか?」
『何もしないからなんて言っても、信用しないでしょう?』
「確かに、信用できないな」
 照井が低くつぶやく。
 翔太郎は照井に視線を向け、ダブルドライバーを指さして見せた。即座に意図を察した照井がうなずく。
「その少年を帰す気はあるのか」
『さあ、どうでしょう』
 翔太郎は目を閉じる。心の深層へと飛びこんだ。
 ――相棒、そこがどこかわかるか?
 驚いたような揺らぎが返る。素早く周囲を見回すような気配と、激痛を堪えるようなめまぐるしく明滅する波が見えた気がした。
 首を振った気がした。わからない、ここがどこか知る術はないし、情報もない、と。
 ――相棒?
 むずかるような気配。嫌々口を開くような様子。
 ――ドライバーで話すのは危険だ
 あまりにも余裕のない口調に、心臓が凍る。
「やはり、ドーパントの言うことは信用できん。この男を狙っているのか」
『興味ないかな。ただ、この子と会わせてあげたいだけ』
「連れ去ったのはお前だろう、ドーパント」
 くすくすとドーパントが笑う。あまりに無邪気な声に、照井がわずかにひるむのが視界の端に映った。
『だから、会わせてあげたいの』
 ――リプレイスドーパントには、僕たちの会話が聞こえるかも知れない
 ひどく追いつめられたような早口だった。
 ――なんだって? そんな馬鹿な能力……
 ――もう、僕の中にいる
 その言葉は、絶望的な残響を伴って、胸の底へと転げ落ちた。
 ――内緒話はなし。ねえ?
 フィリップのものとは明らかに違う、どこか虚ろな声音。
 ばちん、と激しい音をたててダブルドライバーが火花を散らした。指先を焼く激痛に、添えていた手を反射的に離す。衝撃は心臓を突き抜け、頭の奥で破裂した。脳みそを素手でつかんで揺さぶられたような強烈な吐き気に、翔太郎は口元を抑えた。
 内臓がせり上がるような、体をねじ切られるような――痛みを越えた衝撃。
 拍動は破裂しそうなほどはやい。全身に冷たい汗が浮いた。浅く速い呼吸を繰り返し、翔太郎はデスクに突っ伏した。
「どうした」
 照井の手が肩をつかむ。だが、何も言えなかった。
 不意に気づく。
 この生きながらに解体されるような圧倒的な波紋は、ダブルドライバーの向こうから発せられている。目をこらせば、必死にあらがうフィリップの姿が見える気がした。この数倍もの圧力に耐えて、フィリップは何事もないかのように必死に取り繕っているのだ。
 ダブルドライバーの中のガイアフォースの流れを堰き止めて、少しでも翔太郎に感づかれないように。
 照井の手を振り払い、スタッグフォンにかじりついた。
「フィリップ、余計なことすんな!」
『余計なこととはなんだ! 僕は僕のためにこうしてるだけさ』
「こういうときばっかり無駄に意地張るな!」
『意地なんか張ってない! 僕ひとりで何とかできる。君が来る必要はない!』
 叩きつけるような語尾に、余裕は一切ない。
 スタッグフォンを握りしめ、思い切り怒鳴った。
「行く必要があるから言ってんだ! 俺はお前の相棒だろ。違うか!?」
『だから……来るなって言ってるんだ』
「相棒だから来るな? 馬鹿言うな。相棒ひとり守れないような男が、この街を守れると思ってるのか!?」
 肩に小さな衝撃が走る。顔を上げると、すぐそばに照井が立っていた。もう一度肩が叩かれる。その面差しはあまりに静かだった。翔太郎の手からスタッグフォンをむしり取り、デスクに戻す。不安そうに頭をもたげるファングを照井の手がそっとすくい上げ、ひしゃげた帽子の中に戻した。
 その様を直視できずに視線をさまよわせる。
 こんなにぼろぼろになってまで戻ってきてくれたファングの存在を、今の今まで忘れていた。フィリップが心配でたまらないのは、ファングだって同じはずなのに。
 目元を覆う。目の奥に走る痛みを堪えるようにうつむいた。
「フィリップ」
 照井が静かに語りかける。
(そうか、照井には……)
 ガイアフォースの奔流が感じ取れていない。だからこそ、感情を押し殺して語りかけることができる。
 つながっているのは自分なのに、敗北感に似た苦いものがこみあげた。
「お前は以前、俺を心配してくれたことがあったな」
『……なんのことだい』
「あの時、こいつが言っただろう。『少しは自分を心配している奴のことも考えろ』」
 息を呑む気配。
『僕は……心配してほしくなんか……』
「俺たちに、直接それを言えるか? 俺たちの前で、目を見て」
 答えは、ない。
 そんな場合でもないのに、何だか面白くない。翔太郎は頭をかきむしった。
 照井は冷静だ。少なくとも、表面上は翔太郎よりも。
 視界がどんどん狭くなって、他には何も見えなくなって。まともな言葉も思いつけずに感情のまま叫んだって、届きやしない。論理のかたまりであるフィリップは、一度齟齬を来せば翔太郎の手には負えなくなる。そうなれば、検索の暴走特急よりももっとたちが悪い。
 鼓動が平静を取り戻す。額の汗を手の甲でぬぐうと、袖がぐっしょりとぬれた。
「ドーパント。居場所を教えろ」
 照井が言う。顔を上げると、照井の焼き切るような眼光に行きあった。翔太郎はうなずく。大丈夫、今は平静だ。
 スタッグフォンの向こうの相棒に誓った。
「……相棒、絶対に助けてやるからな」
『来るな!』
 男の仕事の8割は決断だ。はじめから決断していたのだから、何を迷うことがある。
「場所を教えろ、ドーパント。相棒に会いに……いや、相棒を助けに行く」
『いいわ、教えましょう』
 その声は、なぜか安堵を含んでいた。わずかな違和感が胸の底を炙る。だが、続く声にかけらも残さず吹き飛んだ。
『必要ない!』
「あのなあ、相棒……」
『あなただって、本当は助けに来てもらいたいでしょう。ねえ?』
『来るな、翔太郎! 君を死なせてしまう!』
「なに馬鹿なこと言ってんだ、相棒。あの時言ったよな。『地獄の底まで悪魔と相乗りしてくれ』ってさ」
 言葉につまったような沈黙。フィリップの呼吸が乱れ始めた。喘鳴にも似た震えが、スタッグフォンからもドライバーからも伝わってくる。
「そんなこと言われたってのに、おとなしく引き下がると思うか? お前でさえ俺を助けに来たろ。俺だって、お前を助けに行く」
『状況が違う! あの時はファングが……』
 悲鳴じみた語尾がくぐもった。
 息苦しい感覚が胸の奥を衝いた。鼓動が早回しのように激しく暴れ出す。今にも胸郭を突き破りそうだ。息苦しさは、瞬く間に圧迫感に変わった。
(まさか……始まったのか!?)
 激しい意識の揺らぎが、ダブルドライバーの向こうで破裂した。苦痛に耐えかねたかのように、悲鳴まじりの暴風が押しよせる。
 胸を押さえ、前のめりになる。勢いがつきすぎて、デスクに体を打ちつけた。視界が深紅に染まる。脳裏に飛び散る激しいスパーク。書類が宙を舞う。積み上げられた本をなぎ倒し、タイプライターを薙ぎはらい、翔太郎は椅子から転がり落ちた。
「しっかりしろ」
 照井の腕にすがり、上半身を引き起こす。翔太郎の手を離れたスタッグフォンは、デスクの下に滑りこんだ。インフォメーションウィンドウのあえかな光が、薄暗がりの中で不吉に明るい。
 ざり、と不快なノイズが混じる。
『いいかい、翔太郎。君が来たら、僕は死ぬよ!』
「馬鹿言うな!」
『脅しじゃない。僕は本気……』
 ぶつん、と通話が切れた。明らかにフィリップの意志ではない。ドーパントが切ったのだ。かけ直してみるが、電源そのものが落とされたらしく、まったく反応がなかった。
 全身が瘧のように震えた。締めつけられるように呼吸が苦しい。
 痛覚を押しつぶす衝撃は絶えた。
「フィリップ! おい、フィリップ!」
 ダブルドライバーの向こうへ呼びかけても、答えはない。激痛の嵐さえも嘘のように途切れ、ただ、押しつぶされるような静寂が重くのしかかる。
 目がくらむ。血液が足下へと流れ落ちて、失われていく錯覚。
 祈るようにこぼした名前は、声にならなかった。

*  *  *

キリ番 80000 / singing sea様リクエスト

 お題は、
●実は翔太郎の人間味をこそ興味深く思っているが、なんとなく認めたくないので、フィリップの有能さを言い訳に事務所に入り浸る照井。
フィリップを引き抜くネタをダシにして、翔太郎の内心動揺しきりな様子をおもしろがっていたらいいなとか。

●またぞろ極めてハーフボイルドな理由で、どこかとてつもなく危険なシチュエーションに飛び込もうとしている翔太郎。
それを必死で引き止めるフィリップの葛藤。
変身拒否も辞さない、それでも君は行くのかい? というシチュエーション。
(でも変身できなかろうが行く時は行ってしまうんだろうけども、翔太郎は)
 でした。