真夜中の白い虹 3/ダブル



 田原有紗がそれに気づいたのは、雨音と海鳴りの中に、バイクの微かな排気音を聞いた気がしたからだった。ゆるりと立ち上がる。
 わずかなめまいを、目元に掌を押しつけることでやり過ごす。指先は思ったよりも冷え、限界を声高に叫んでいた。
(逝くのは……思ったよりはやいかも、ねえ)
 誰が信じるだろう。有紗の目がとうに覚めているなんて。
 リプレイスメモリを自身が使うと決意したときには、メモリとの相性の心配こそすれ、過剰適合状態になろうとは思いもしなかった。
 過剰適合U型。
 毒素に一切蝕まれることなく、ガイアメモリの力を本来の能力以上に引き出せる適合者――理論上、そういう人間がいてもおかしくはないという話は聞いたことがあったが、それが他ならぬ有紗自身とは考えもしなかった。
 ただし、毒素の影響がないからと言って、メモリの使用をやめられるわけではない。
 反作用なら、ある。
 定期的にメモリを挿入しなければ、激烈な精神錯乱が引き起こされる。さらに、メモリが砕ければ、有紗自身の命も――。
 その、あまりにも理不尽な事実を知って、目の前が真っ暗になった。
 メカニズムはわかっていない。研究データによれば、一度暴走が引き起こされれば、理性も尊厳もなにもかもが破壊されるという。無限に増幅された毒素で命を落とすその瞬間まで、憑かれたように子供たちの記憶を奪い続けるだろうことは、簡単に予測できた。
 メモリに手を出した罰だ。
 命を諦めることならできる。だが、自死を選ぶことは、どうしてもできなかった。
 人間としての理性が働いた状態での、メモリの使用。自身の所業が、どれほど罪深いものかわかっている。理解しているのに、立ち止まることはできなかった。有紗の進んだうしろには、すでに道はない。脇道のない脆い崖の上を進むしかなかった。
 あるいは、崩壊を待ってその場に留まるか。
(そろそろかな)
 有紗の手が離れても、少年はぴくりともしなかった。気を失ってなお、哀れなほど強ばっている首筋から肩甲骨にかけてをそっとなでさすった。伝わる熱に、なぜか涙がこぼれそうになる。
 そんな権利は、ない。徹底的に希望を壊してこの場につないだのは、他ならぬ有紗自身だ。
 ため息がもれる。
 洗脳はほとんど進んでいなかった。少年自身が意識をつなぐ扉を完全に封鎖している。彼の相棒の声はすでに届かないはずなのに。
 それでも、記憶を削り取るヤスリははじかれ、折られた。3回目で諦めた。何かが有紗の放つ波動を阻害して、少年の奥底まで届かないようだった。その「何か」を特定することは簡単だったが、あえて放っておいた。
 簡単な暗示と強固な暗示をひとつずつ残して立ち上がる。
 少年の背に脱いだコートを掛けた。背を向け、歩き出す。謝りはしなかった。自己満足などしたくない。
 そんなものに、意味なんてない。
 かつん、と虚ろな足音が跳ね返る。そびえ立つコンテナはほとんど空のようで、半ば壊れているものも少なくなかった。廃棄物の一時置き場にされているようだという報告は、どうやら本当らしい。
 こんな無機質な墓標は願い下げだけれど、炎に沈んでいった子供たちを思えば――。
 排気音が止んでいることに気づく。仮面ライダーは、すぐにも少年の居場所を探し当てるだろう。ひとりで来たのか、ふたりで来たのか、それはわからない。どちらにせよ、やることはひとつだ。結果も、おそらくはひとつ。
 広い倉庫を横切り、隣の倉庫へと滑りこむ。いちおう鍵はかけた。
 じゃり、と砂を噛む音。有紗のものではない足音に、背筋が小さく震えた。
 足音の主が誰かなど、考えなくてもわかる。仮面ライダーが、来たのだ。あの少年を取り返すために。
 あえて背筋を伸ばし、ゆっくりと歩を進めた。足の震えを隠していることがわかりませんように。不遜な女と映っていますように。憎むべきドーパントと認識されますように。救いなき咎人と、裁断してくれますように――。
「お前がドーパントか」
 その声は不意に響いた。
 ほとんど抑揚のない声なのに、不思議と冷たい印象はない。
 有紗はゆっくりと振り返る。コンテナの谷の合間、蛍光灯の光も満足に届かないほの暗い一角に、深紅の色彩がたたずんでいた。
 胸の内がざわつく。それが期待と悟って、小さく苦笑した。
 赤い肢体を視界に納めれば、その圧倒的な存在感に気圧されそうになる。気づく前は、風よりも空気になじんで、そこにいることをつゆほども感じさせなかったのに。
 有紗とは格が違う。
「来たね、仮面ライダー」
 赤い戦士は無言だった。右手の剣を静かに構える。輝く青のフェイスフラッシャー。
 静から動へと移り変わる一瞬の皮膚を切り裂くような緊張感に、待ちかねた瞬間が近いことを確信する。
 有紗は笑んだ。
 赤き仮面ライダーは、真意を測りかねたかのようにわずかにあごを引いた。
「なにがおかしい」
「なにも」
 リプレイスメモリを取り出す。描かれた文字は、魂をそぎ落とすR。子供たちの魂を都合のいいように作り替えるたび、自身の魂も損なわれていく気がした。そのつけを、払うときが来たのだ。
 望んだ瞬間は、近い。
『リプレイス』
 左の袖口をたくし上げ、手首のコネクタにメモリをあてがう。
 死を負わせてしまうのは心苦しいけれど、強烈な揺り戻しによる暴走は、未曾有の記憶汚染を引き起こすから。こいねがわくは、有紗の死をガイアメモリの侵蝕による事故だと信じてくれますように。
 あながち、間違いではないのだから。
「私をメモリブレイクすれば、子供たちは元に戻る。奥にいる少年も、ね」
「……なぜ教える。いや。なぜ、お前がここにいる」
 嘆きの雨のような薄青い輝きが飛散した。
 有紗の肉体は、忘れ去られた廃墟の聖母像を思わせる肢体へと変化を遂げる。ヴェールのように長く大きく広がる繊細な鎖を背に払い、有紗――リプレイスドーパントは、微笑に固定された唇の両端を、わずかにつり上げて見せた。
「そうしなきゃフェアじゃないでしょう。ねえ、仮面ライダーアクセル」
 ふたつめの質問は、あえて無視した。
 掌に数珠のごとくつらなる光弾を生みだす。烈光が指を離れた瞬間、戦いの幕が開いた。

*    *    *

 地面を揺るがす轟音に、翔太郎はその場に転がった。床を転がり、ほこりまみれになりながら起きあがる。
「あーもう! 照井の奴、派手にやりやがって……!」
 こちとらけが人だ。踏ん張ろうとしても勝手にころころ転げてしまう。
 コンテナにすがって立ち上がった。軽くほこりをはたくと、もうもうと白い煙が上がる。耐えきれずに咳きこんだ。
(こんなのはハードボイルドじゃないぜ……)
 暗がりで薄ぼんやりと浮かび上がる白色に、ため息が落ちる。全身真っ白なほこりまみれだ。せっかく着替えてきたというのに。
 すでに廃倉庫に近い扱いであることを考えれば、この荒れようにも納得できるが、いくら何でも掃除をさぼりすぎた。まったく、亜樹子を貸し出してやりたいものだ。ものの2日で、整理整頓仕分けを完璧にやってのけるだろう。
 翔太郎の頭上を、バットが心配そうに飛び回っている。気にするなと手を振ってみせると、遙か頭上へと戻っていった。翔太郎にはその姿はよく見えないが、打ち合わせ通り、天井の鉄骨にぶら下がって周囲を探っているだろう。
 翔太郎の足下でぴくりともしないが、デンデンも周囲の警戒に当たっている――はずだ。あまりに動かないので、少し自信がない。
 探索機能のないフロッグは足下でおとなしくしているし、スパイダーはダブルドライバーにしがみついている。
「まだか……?」
 コンテナに背を預け、顔を出して周囲をうかがう。だが、積み上げられたコンテナが、そこかしこで複雑に視界を塞ぐばかりで、何も見えなかった。スタッグが戻る気配もない。
 じりじりと時が過ぎるのを待つ。
 再び、背後で爆発音が響いた。断続的な轟音に、アクセルの排気音が混じる。少しずつ遠ざかっているようだ。照井が、ドーパントをうまく引きつけてくれている。ビートルが戻ってくる様子もない。
 正直、田原有紗に、アクセルとまともに戦えるほどの戦闘力があるとは思っていなかった。リプレイスメモリは、どちらかと言えば精神面に作用する。そういった特殊能力を持つドーパントの場合、トリッキーで厄介な部分は大きいものの、戦闘力はさほどでもないことが多い。
 ライアードーパントがいい例だ。
(元副工場長の肩書きは、伊達じゃねえってことか)
 田原有紗は、元はガイアメモリ製造工場の副工場長をしていたらしい。フィリップの検索結果の隅に、走り書きがあった。現在35歳。年齢を考えれば、異常とも思える人事だ。その有能さがどこにあるのかは、翔太郎たちにはもちろんわからない。
 だが、組織が、彼女の異常なまでのメモリとの適合性、あるいは、メモリの性質を見抜き、最大限活用するその能力に目をとめていたのは間違いない。
 ふと、空気が変わる。戦いが近づいているのかと耳を澄ませるが、翔太郎の聴覚が捕らえたのは、うなるような小さな羽音だった。コンテナから恐る恐る顔をのぞかせると、一直線に飛来するスタッグの姿が視界に飛びこんできた。
 振り返ってみるが、ビートルが駆けつけてくる様子はない。
「よし……行くぜ」
 帽子に指を滑らせる。ガッテン承知、と言わんばかりに、バットが頭のまわりを飛び回った。
 何か言いたげにスタッグが目を瞬かせるが、翔太郎には、彼が何を伝えようとしているのか、さっぱりわからなかった。そろそろ、脳波で会話するなんて芸当は誰でもできることではないということを、彼らにしっかり言い聞かせるべきだろうか。言い聞かせたところで聞き分けてくれるかはわからないが。
 翔太郎が軽く手を振ってみせると、スタッグは身を翻して先導を始めた。
 コンテナの影を伝うように進んでいく。ここまで来る間はむずかるように歩みの遅かったフロッグとデンデンも、さくさくと歩を進めていた。待機に費やした20分ほどの間に、何やら心境の変化があったらしい。
 胸の奥で、ごとごとと心臓が鳴っている。粘る掌を腿のあたりにこすりつけた。喉が無性に渇く。ネクタイの首元をゆるめた。
 コンテナの向こうに扉が見えた。プレハブの事務所によくあるような、味も素っ気もない薄汚れたベージュの扉だ。ドアノブの周囲が激しく破損している。
 慎重に歩み寄った翔太郎は、裂け目にそっと指を這わせた。おそろしく鋭利な切り口だ。間違いなくスタッグの仕業だろう。見上げると、スタッグは警告するような音をたて、しきりに扉の前を行き来した。
「……ここだな?」
 小声で問いかけると、スタッグは器用にもうなずくような仕草を見せた。
 デンデンが扉に這い寄る。小首を傾げるようにしながら、高感度センサーの光を放った。異常なし、と電子音が鳴る。それを聞いたフロッグが、扉に体当たりした。
 ――フィリップ
 ダブルドライバーの向こうにそっと呼びかける。返答はなかった。意識の揺らぎも感じられない。
(すぐに助けてやるからな……)
 かろうじてくっついているドアノブに手をかける。ゆっくりとひねり、慎重に押し開けた――つもりが、派手な音をたてて扉が倒れた。もうもうとほこりが立ちこめ、翔太郎は手に残ったノブを唖然と見下ろす。
 よく見てみると、蝶番のあたりもめちゃくちゃに壊されていた。
「なんっじゃこりゃー!?」
 ぶんぶん飛び回るスタッグに目をやると、彼はごまかすように8の字を描き、隣の倉庫へと飛びこんでいった。嬉々としてバットが続き、デンデンがのんびりと追う。
 田原有紗は気づいただろうか。アクセルを振り切って、こちらに来るかも知れない。
 もう、なるようになれ、だ。ドアノブを投げ捨て、倒れた扉を踏み越えた。
 第32倉庫へと足を踏み入れる。立ちこめるほこりっぽい空気に、喉のあたりがちくちくと痛んだ。第31倉庫も雑然としていたが、こちらはさらにひどい。訪れるものなどほとんどいないことが一目でわかるほど荒れ果てている。
 スタッグとバットの姿は、あっという間に見えなくなった。先頭を任せたスタッグはともかく、翔太郎の頭上を頼んだはずのバットまで飛んでいってしまうとは、これいかに。隣をデンデンが歩いているし、スパイダーもいるから、全くの無防備というわけではないが。
 フロッグがぴょこぴょことうしろをくっついてくる。しんがりを務めているつもりなのかも知れない。
 負荷を逃がしきれない右足が、熱を帯びたように痛む。
 照井の忠告通り、グローブをはめておいてよかった。素手でコンテナにすがっていたら、錆やらほこりやらで、今頃大変なことになっていたに違いない。
「ああ……長い、長いぜ……」
 足下も悪い。情けないことに、息も切れてきた。頑張れと応援しているつもりなのか、ときどき、フロッグがふくらはぎにぶつかる。
 先行していたスタッグが戻ってきた。翔太郎の目の前で、しきりに宙返りを繰り返す。
 何を言いたいのかさっぱりわからないが、翔太郎の歩みを止めようとしないところから判断するに、フィリップの居場所が近いのだろう。
「見つけたのか?」
 問いかけると、器用にうなずいた。
 翔太郎は足を止める。コンテナに背を預け、小さく息をついた。
 スタッグが、のそのそと進もうとするデンデンの殻を捕まえた。なおも歩みを止めないデンデンにフロッグが体当たりし、ようやく動きが止まる。デンデンは不満そうに殻を揺らし、翔太郎のつま先に這い上がった。
 彼らの間で、どんな言葉がやりとりされたのかはわからない。だが、あまりにも人間じみた様子に胸を衝かれた。
 ガジェットたちも、はやくフィリップを助け出したくて仕方ないのだ。
 帽子のふちを払い、かぶりなおす。
「安心しな。ここまで来りゃもうすぐだ。相棒は、すぐに助ける」
 ガジェットの反応を待たずに、コンテナの影から歩み出る。足下で砂が鳴る。不安定な足音を曳き、翔太郎はゆっくりと歩を進めた。油断なく視線をめぐらせる。
 ふと、何かが引っかかった。積み上げられたコンテナの影、傾いだ業務用デスクのそばに目を向ける。
「……相棒!」
 古びたマットレスに横たわるっていたのはフィリップだった。背には見覚えのない黒いコートが掛けられている。石油ストーブの炎があやしく揺れ、見通しの利かない視界に不穏な翳りを作り出していた。
 何かにすがるように強く折りたたまれた指を見て、胸が締めつけられた。
 頑固な相棒のことだ、助けなど求めなかっただろう。自分の言葉に忠実である自覚などないまま、記憶を削り取られる衝撃にずっと耐えていたに違いない。
 ガジェットたちが散開する音を聞きながら、さらに歩を進める。
 マットレスに乗り上げても、フィリップは意識を取り戻す様子はなかった。傍らに膝をつき、肩をそっと揺すぶる。
「おい、相棒」
 目覚める様子はない。
 ドライバーの奥へと意識を集中させる。魂の境界を強く思い描き、同時に呼びかけた。
「フィリップ」
 ――起きろよ、相棒
 意識の境界に、ほのかな光の粒が走った。光輝はゆるやかにしみわたり、意識の境界をごくわずかに揺らがせる。その表面に、ひとしずくの水滴を落としたように細い波紋が広がった。ひとつ、またひとつ――。波紋がこぼれるたびに少しずつ熱を帯びていく。
 ことん、と小さな鼓動が耳朶に触れた。限界まで集中しなければ聞こえなかった命の音が、息を吹き返すように脈打つ。
 今なら、集中しなくてもその存在を感じられる。隣り合う魂の熱を。
 フィリップのまつげが震えた。ふっと深く息をつき、ゆっくりと目が開かれる。苦しげに仰向いた。意識と体がうまく一致しないのか、動作が鈍い。ちらつく光がしみるのか、しきりとまばたきを繰り返す。目尻から涙がすべり落ち、髪に吸われて消えていった。
 ずいぶんと冷たそうな涙だ――確たる理由もなく、そんなことを思う。
 フィリップの唇が開く。何事かをつぶやいたが、翔太郎の耳にはその声は届かなかった。起きあがろうとするフィリップに左手を差し出す。
「心配させやがって」
 フィリップの目が翔太郎の手に据えられた。指先を伝い、手首を下り、肘を駆け上がり――そうして、視線がかみあう。
 がちん、と。
 分厚い金属が触れあうような重い音が脳裏に響く。まるで、重たい鉄のふたを落としたような――何かを塞ぐような、嫌な音。
 拍動が鈍い音をたてた。何か、とんでもない間違いを犯したような気分になる。
 冷たい指先が掌に触れた。
 その瞬間、翔太郎は反射的に後ろに下がっていた。目の前を薙ぐ風――それが、振り抜かれたフィリップの手刀と知って愕然とする。
 体重をかけた右足がきしみ、その場に転がった。第2撃をそれでかわせたのだから、何が幸いするかわからない。2転し、距離をおいて飛び起きる。フィリップが揺らぐような足取りで立ち上がった。
 虚ろに澄んだ眼光が、まっすぐに翔太郎の姿を捉える。
「……忘れてたぜ」
 帽子のふちに息を吹きかけ、ほこりをはたいてかぶりなおした。
 ぶん、と羽音をたて、スタッグが頭の周囲を飛び回る。隙を狙うようにフィリップの背後に回ろうとするバットに、小さく首を振った。
「まだ手ぇ出すな」
 ガジェットたちに釘を刺すのは忘れない。いかんせん、彼らは頑丈すぎる。うっかり不要なケガを負わせでもしたら、後が面倒だ。
 フィリップが地を蹴る。ほこりを蹴立て、まっすぐに飛びこんできた。迷いのない、きれいな蹴撃。左足を軸に、体を開いてかわす。顔面を襲う肘をかわせたのは、まぐれのようなものだ。かろうじて手首を捕まえ、払うように地面に転がす。
 すぐに下がったのは、足を取られないためだ。跳ね起きたフィリップの腕を払い、コンテナの方へさりげなく突き飛ばす。翔太郎自身、その場に転げそうになったが、背筋を駆使して何とか耐えた。
 やはり、右手足が自由に使えないのは不便だ。
 それにしても。
(意外っつーか……なんつーか。予想外、だな)
 フィリップは本気で攻撃してくると思っていた。リプレイスドーパントの洗脳を受けたのだ、翔太郎を敵と認識しているはず。死に物狂いで攻撃されることを想定していたのに――だから、ガジェットを待機させているのに――手を抜いているような感触さえ受けた。
 攻撃意志が空回りして、うまく力が乗っていないようにも思える。
 ゆっくりと振り返ったフィリップを、真っ向から見据える。少年の瞳の奥で揺らいだのは、一瞬の理性。
 頭の奥の歯車が、不穏な音をたてた。
(……なんっか嫌な感じすんな)
 フィリップが右手を挙げた。振り下ろされる手をわざと肩で受ける。打たれた肩口がじんと熱を帯びるが、それだけだ。素早く右手を捕まえる。ネクタイに伸ばされた左手を肘で押しのけ、力任せにコンテナに押しつけた。
 背を思い切り打ちつけ、フィリップはうめく。獣のような眼光が悔しげに燃えるが、抵抗は弱い。自我を壊された眼光の向こうで、残された理性の激しい抵抗が見える気がした。蹴り上げてくる膝を苦労して抑える。ここで急所に喰らっては堪ったものではない。
 ろくに右手足が使えないのは厄介だったが、年中かけずり回っている体力が役に立ってくれた。フィリップは青瓢箪というわけではないが、純粋な体力勝負ならば翔太郎に軍配が上がる。だてに、ハードボイルド探偵を名乗っているわけではない。
 それに、このまま押さえつけておくことが目的ではないのだ。
「よーし、行け!」
 心得た、とばかりに飛び出してきたのは、翔太郎の腰の後ろ――ドライバーのベルト部分――にしがみついていたスパイダーだ。器用に前足4本だけでジャケットを這い上がり、後足4本でヒートメモリを抱えこんでいる。
 翔太郎の腕を伝い、フィリップの肩に飛び移る瞬間に、器用にスイッチを押しこんだ。
『ヒート』
 フィリップの手がはじかれたように離れた。逃げようとする肩をつかまえ、翔太郎はヒートメモリを受け取る。
「洗脳なんてな、無意味なんだよ」
 とんとん、と指先でヒートメモリを軽く叩く。
「そうだろ、相棒?」
 フィリップ側のライトスロットにヒートメモリを押しこむ。体を入れ替えるようにして、マットレスの方に相棒を押しやった。よろめき、あっけなく転がるフィリップ。彼が立ち上がるよりはやく、転送されたヒートメモリとジョーカーメモリをインサートする。
「――変身」
 起きあがろうとした肘がくずれる。同時に、翔太郎の意識の境界に何かが触れた。
 確認するまでもない――それは、フィリップの魂だ。ゆるやかに震動しながら、そこが定位置であるかのように、翔太郎の魂の隣に収まる。
 ダブルドライバーを中心に弾けたガイアフォースが、体の隅々に行き渡った。翔太郎の肉体が、見る間にガイアーマーに変換されていく。鋭い輝きを跳ね返す赤き右半身と、やわらかな光を宿す黒い左半身――ヒートジョーカー。
 とたんに重量を増した体に、右半身が悲鳴を上げた。ゆっくりとコンテナに背を預け、一息つく。
「サイクロンにしときゃよかったか……?」
 よいこらせ、と座りこむ。
 変身したらすぐにもリプレイスドーパントと戦う気満々だっただけに、スパイダーに持たせていたのがヒートメモリだけだった。このあとは、ヒートメタルにハーフチェンジする予定だったのだが――。
「おーい、フィリップー?」
 そこにいるのは確かなのに、反応が薄い。気絶しているのだろうか。魂だけなのに。もっとも、むりやり体から引きはがされたような状態だ、ある程度はダメージもあるだろう。
 だが、それだけではない気がした。ふたつの魂を隔てる水面の温度がいやに低い。いつもならば隙間なく隣り合う感覚があるのに、ともすれば取り落としてしまいそうなほどつながりが弱いように感じられる。
 正気は取り戻したはずだが――。
 意識を集中し、フィリップの魂を軽く揺さぶる。だが、むずかるような揺らぎがわずかに返っただけだった。
 ――どうしちまったんだよ、相棒?
 翔太郎は途方に暮れた。手持ちぶさたに頭を抱える。
 デンデンとフロッグが膝に登ってきた。スパイダーは肩に飛び乗る。戸惑うように周囲を飛び交っていたスタッグとバットも、すぐそばに舞い降りる。ホバリングしながら一生懸命ホークファインダーを覗きこんでくるが、だからといって何が見えるはずもない。
 可哀想だが、そっと押しのける。視界いっぱいにスタッグとバットの顔が映りこんでいては、集中できない。
 離れたスタッグが電子音を鳴らした。バットが呼応するように高く舞い上がる。デンデンはだだをこねるように膝にしがみついていたが、フロッグに体当たりされてしぶしぶ降りていった。
 他のガジェットたちが警戒に当たる中、スパイダーだけがその場に残る。
「少し乱暴にしすぎたか……?」
 あごのあたりに小さな衝撃が弾けた。スパイダーが憤慨したように肩の上で跳ねている。わかったから、と掌を見せると、不本意そうにこちらに尻を向けた。
 ――ほら、こいつらも、お前のことこんなに心配してんだぞ
 相棒の意識に目をこらす。燃え立つ炎の殻を破り、幾重にも魂をくるむ紗布をかきわけ、ゆりかごにも似た深奥に滑りこむ。そこに見えた光景に、息を呑んだ。
 美しい構造色に包まれた淡い翡翠色を帯びた魂は、気まぐれな風のように揺らいでいたのが嘘のようにそよともしない。淡く光を宿す微細な氷の結晶に隙間なく覆われている。よく見れば、蜘蛛の糸よりも淡く繊細な霞のような網に編みこまれているのがわかる。
 どうやら、その目の細かな網が、洗脳の投網のようだ。
 しかし、洗脳と呼ぶにはあまりにも儚い。せいぜいが軽い暗示といったところだ。
 網の中央を走る大きな裂け目は、翔太郎がフィリップの魂を引き寄せた際にできたほころびだろう。
 混沌を内包する奔放な魂は、ほとんど損なわれてはいなかった。わずかに傷が散らばっているが、どれも、想像以上に浅い。
 翔太郎は目を細める。
「どういう……ことだ……?」
 胸の内がざわつく。それは、雪の夜の雷鳴を喚起させた。
 翔太郎は海をイメージする。遙か南の、波の穏やかな、あたたかい海。刹那、足下に碧い海面が広がった。見渡す限りさえぎるものなど何一つとしてない、茫漠の海。
 ゆっくりと両手を伸ばす。冷え切った相棒の魂を抱え、足下に落とした。淡い緑の魂は、ちいさな飛沫をあげて海面に吸いこまれる。少し沈んで浮き上がってきたときには、魂はフィリップの姿をしていた。膝を抱えこむように丸くなって――凍てつく冬を乗り切るリスのように、固く目を閉ざしている。
 やわらかな熱をたたえる波間に、冷え切って縮こまる体を浮かべた。軽く背を叩いてやると、安堵したように指が開く。
 ふ、と息がもれた。
 集中力を解放すると、薄暗い視界が戻ってくる。うろうろと肩の上を歩き回るスパイダーを見やり、蛍光灯のちらつく天井を見上げた。
 不安と警戒が、胸の底を炙る。
「さて、と……」
 フィリップの魂の状態を見たのが決定打だ。田原有紗の行動には不審な点が多すぎる。
 ファングジョーカーを捕らえ、翔太郎を呼び出すまでは妙に用意周到だった。
 だが、その後が異常なまでに手ぬるい。罠のひとつもないのは、あまりに不自然だった。翔太郎が負傷していることは、フィリップの意識を通して知っていたはずだ。本当に翔太郎の命を奪う気があるのなら、何か手を打っていたはず。
 フィリップにしても、メモリを使用することもなく、暗示というのも憚られるような洗脳をおざなりに施しただけ。まるで、ここに誘いこむことだけが目的だったかのように。
 あまりに手薄だった。
 とてつもなく嫌な予感がする。何か見落としていることがあるとわかっているのに、それを見つけられない。ほんのわずかな齟齬。だが、それをすくい上げることさえできれば、一足飛びで答えにたどり着ける。
 田原有紗の目的は、何だ?
「あーもう! 思い出せ、俺……絶対なんか見落としてんだ……」
 頭をかきむしるが、もちろん、答えが出てくるはずもない。頭を軽く殴ってみる。軽くぶつけたつもりが、目もくらむような衝撃がガイアシェルを貫いた。思わず頭を抱える。半身がヒートだということをすっかり忘れていた。
 ことん、と。
 胸の奥で小さな音がした。翔太郎の内側にある、もうひとつの魂――フィリップの魂の鼓動が、少しずつ強くなっていく。
「フィリップ?」
 深い呼吸――目覚める気配。海面を破り、フィリップが目を覚ます。
 魂の境界が激しく震えた。フィリップの意識が思い切りぶつかってきたのだとわかったときには、視界いっぱいに天井が広がっていた。打ちつけた背中が痛い。ガイアーマーに変換された肉体は確かに頑丈にはなるが、痛みを感じないわけではない。
「お前……いきなり何すんだ……」
 腹筋を使って体を起こす。
 なすすべもなく吹っ飛んでいったスパイダーが、慌てて戻ってきた。他のガジェットたちも大騒ぎしながら集合する。
 ――言ったよね、翔太郎。君が来たら僕は死ぬよって
 フィリップの切迫した声が響く。
「ああ、言ったな。でも、無理だってわかったろ」
 今更死ぬと言い張ることに何の意味もない。フィリップは黙りこんだ。ためらうような空白の後、一言ずつ、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
 ――死ぬのは田原有紗だ
 何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。なぜ、フィリップを助け出したことで田原有紗が死ぬのか。
 メモリブレイクで命を落とすことなど、まずありえない。
 ――僕は死ぬつもりだった。君が来たら
「あのなあ、相棒。そんなこと言うなって……」
 ――でも……言ったら、君が止まらなくなるから。言うつもりはなかった
 胸の底を何かが叩く。
 そうだ。あの時、すでにフィリップの意識の中に、田原有紗の意識も混ざっていた。魂に直接影響を与えられるような能力の持ち主が、ただ黙って話を聞いているはずがない。フィリップの心をほんの少し押したのだとしても、翔太郎は驚かない。
 驚かない、が――。
 フィリップが秘そうとした言葉を、あえて言わせた。その理由は?
 ――彼女は、リリィ白銀と同じ……過剰適合者だ。それもU型
「U型?」
 ――メモリブレイクは命に関わる
 瞼裏を過ぎるビジョンは、紙の小箱を抱えた女性の絶望の涙。夜の虹――。
 まばらな雨音が聴覚を席巻した。
 つまり、田原有紗は最初から――。
(死ぬ、つもりで……事件を起こした?)
 思えば、最初から手がかりはあったのだ。リプレイスドーパントが集めた子供は、例外なく虐待の形跡があった。彼らから悲惨な記憶を奪い、我が子として愛した――方法は間違っているが、田原有紗は彼女なりに子供を愛したのだ。
 絶対に許されない行為だと、わかっていながら。
 それでも止まらなかった。
 子供たちが田原有紗を母と呼び、その姿を求めたのは、強制的に植えつけられた記憶が命じたからだけではなく――。
「くそ!」
 ダブルは勢いよく立ち上がった。
「まずいぜ、フィリップ。照井の奴が戦ってる」
 ――なんだって!? アクセルはU型だと知っているのか
「知ってるわけねえだろ! 俺だって今知ったんだ」
 はやく止めなければ手遅れになる。アクセルはメモリブレイクを躊躇しないだろうし、リプレイスドーパントは抵抗せず受け入れるはずだ。
 抜け殻となったフィリップの体を、マットレスの中央に寝かせる。傍らにはねのけられたコートを手にして――不意に気づいた。このコートは女物だ。田原有紗のものだろう。
 ストーブをつけていったのも、コートをかけていったのも、フィリップに風邪を引かせないためか。
「最悪だ……!」
 ダブルは身を翻す。フィリップの体の護衛をバットたちに任せ、スタッグだけをつれて歩き出した。右足首がおそろしく痛むが、構ってなどいられない。
 ガジェットモードに戻してビートルに電話をかけるが、呼び出し音が鳴るばかりでつながる気配は全くなかった。
 本当に、最悪だ。
(はやまんなよ照井……!)
 鈍く伝わる轟音に、否が応でも鼓動が早まった。

*  *  *

 私は純然たる悪役を書くのが苦手らしいです。なにがしか理由をつけてしまう……井坂とか書くのは難しいんだろうなと思います。書く機会があるかどうかはわかりませんが。
 そういうわけで、田原有紗は予想以上に複雑なキャラクターになりました。当初の予定から90度以上ずれてくれた人です。
 いろんな場所に矛盾が落っこちてそうで怖いですorz