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フィリップはそれを理解する?/ダブル



 フィリップは富士山について生き生きと語り続けている。対する亜樹子は、初めこそ呆然とフィリップを見上げていたが、次第にその眼光を剣呑なものへと変えていった。
 爆発も近いな、と、翔太郎は他人事のように思う。火花散る瞳が間近にあるのに、まったく気がつかないフィリップの鈍感さに、いっそ感心する。
 弾吾と千鶴からの手紙を、フィリップはくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放りこんだ。検索を終えて興味を満たしたフィリップにとっては、ゴミ以外の何ものでもなかったのだろう。だが、フィリップのそばで弾吾たちを見ていた亜樹子には大切なものだったし、翔太郎にとっても決してぞんざいに扱っていいものではなかった。
 手紙にこめられた感謝や友愛、様々な心を、フィリップは不要なものとして無造作に捨ててしまったのだ。即座に亜樹子の平手を喰らっていてもおかしくない。すぐに行動に出なかったのは、衝撃の大きさのためか。それとも、事態を認めたくなかったからか。
(やれやれ……だな)
 タイプライターを打つ手を止め、カップに口を付ける。
 人間らしさや情緒といったものから細心の注意を払って切り離されていた魔少年には、人の気持ちや心というものを理解するのがひどく難しいようだ。未発達な感情は、ときに幼児の悪意なき言葉のように、あまりに気軽に、無邪気に、鋭く心を切りつける。その言動が自覚のない刃となって振り下ろされるとき、同時に自身にも痛みが跳ね返っていることには気づけていない。
 翔太郎がいくら言って聞かせても、フィリップはわからなかった。
(もしかしたら……)
 わずかな希望に、翔太郎はすがる。
(亜樹子ならまた別かもな)
 翔太郎とフィリップは、ある意味では近すぎる。だが、翔太郎とは立ち位置の違う亜樹子の言葉ならば、感情の機微におそろしく無頓着な相棒の琴線を揺らすかも知れない。
「ちょっと待った、フィリップ君」
 亜樹子が右手を突き出した。掌がフィリップのあごを軽く打つ。
 口を塞がれて、フィリップは怪訝そうに亜樹子を見下ろした。亜樹子の感情が何色に染まっているのか、まったく気がついていない。
「今、君が捨てたのは何」
「手紙だろう? 稲本弾吾と星野千鶴から届いた手紙だ」
「なんで手紙を送ってきたか、わかってるの?」
 フィリップは首を傾げた。こめかみを軽く叩いていたが、すぐに亜樹子に視線を戻す。
「報告書」
「……はぁ?」
「あの手紙は、報告書なのかい?」
 何をどう考えたらそうなるんだと、翔太郎は心の中でツッコミを入れる。第一、依頼者が探偵に報告書を送ってくる意味がわからない。
 そういえば、フィリップが個人的な手紙をもらったことは、この事務所に来てからは1度もなかった。閉ざされていた頃は、満足なコミュケーションを得られることもなかっただろう。考えてみれば不憫な話だ。だが、同情よりも苛立ちが先に立つのは、あまりにもかわいげがないからかも知れない。
 亜樹子が腰の後ろに手を回した。魔法のように引っ張り出したのは、例のスリッパだ。プリントされているのは「ありえへん」の文字。左手にもスリッパがあった。描かれているのは「なにしてんねん」。
 亜樹子の両手が素早く動く。まずは右手の「ありえへん!」、次いで左手の「なにしてんねん!」。亜樹子の絶叫つきで一発ずつ、フィリップの側頭部を急襲した。
 小さな悲鳴を上げたフィリップは、驚いたように一歩退いた。子犬が水を払うように、頭を勢いよく振る。
「何するの、亜樹ちゃん」
「あんたこそなにしてんねん!」
「なにって……え?」
 完全に混乱しているらしく、再び振り上げられたスリッパをまともに額に食らった。
 翔太郎はため息をつく。
(あれ、意外と痛いんだよな……)
 亜樹子はスリッパをその場に投げ捨てた。額をさするフィリップの手から本を奪い、勢いよくゴミ箱に突っこむ。唖然としているフィリップの元へ戻ると、ポケットから3本のメモリをすべて抜き取り、これもまたゴミ箱へとぶちこんだ。
 そうしておいて、ものすごい剣幕でフィリップを振り返る。
「お、おい……亜樹子……?」
「翔太郎君は黙ってて!」
 押しつぶさんばかりの眼光でにらみつけられ、はい、と翔太郎は小さくなった。怒りの矛先がこちらに向けられてはたまらない。
 触らぬ神に祟りなし、だ。
 普段は甘い亜樹子に叱られるのだから、フィリップも少しは堪えるだろう。
「なにしてるの、亜樹ちゃん」
「…………」
「僕を試しているのかい」
「訊いてばかりじゃなくて、ちょっとは考えなさいよ!」
 不思議そうな面持ちではあったが、フィリップはあごに手を当て、亜樹子とゴミ箱を交互に見やりながら、何かを考えている様子だった。だが、答えを得るには至らなかったのか、小さく頭を振る。
 それを何度か繰り返し――あきらめたのか、答えを見つけたのか、亜樹子の脇をすり抜けてゴミ箱に歩み寄った。
(手紙を拾えよ……手紙だ、いいか、手紙だ!)
 翔太郎は心の中で強く念じる。正直、ダブルドライバーを装着していないことが悔やまれる。意識がつながっているわけではないが、顔色から何かを読み取ってくれるのではないかと期待し、一身に念じた。ここで答えを間違うと、さらにまずい状況になる。
 だが、フィリップは翔太郎に視線を向けもしなかった。ゴミ箱のふたを開け、まずは本を、次いで3本のメモリを引っ張り出す。
 それだけだった。
 ぱたぱたと表紙のほこりをはたくと、興味を失ったようにガレージへ向かおうとする。亜樹子は無言で駆け寄った。背後からフィリップを突き飛ばし、バランスを崩した手から本を奪い取る。
 よろめいたフィリップは、壁に思い切りつっこんだ。鈍くさい奴だなと、翔太郎は薄情な感想をつぶやく。
「亜樹ちゃん、なんなの」
 額をさすりながら、恨みがましい目で亜樹子を振り返る。
 だが、亜樹子の強く唇を引き結んだ表情に、さすがに何かまずいことをしたと気づいたらしい。救いを求めるような目を向けられ、翔太郎は苦笑を返した。自分で何とかしろよと追い払う仕草を見せると、見捨てるのかいと言わんばかりの視線が突き刺さる。翔太郎は目をそらした。
 そのように定められたのは彼のせいではないとはいえ――他者の心情を理解しようとしなかったつけを払うときが来たのだ。
「フィリップ君」
 亜樹子がひび割れたような低い声で呼ばわった。
「君、本とメモリを捨てられて、どう?」
「どうって?」
「何も感じなかったの!?」
 フィリップは指先で軽くあごを叩く。
「君がなぜそんなことをするのか、疑問に思った」
「で?」
「答えは見つからなかった。だから、あきらめた」
「あきらめてどうすんだよ」
 思わず口をはさむ。そこは頼むからねばってくれ。
 だが、フィリップは何か不可解なものでも観察する目つきで翔太郎を見やった。
 亜樹子はフィリップに詰め寄る。
「疑問に思った、それだけ?」
「他に何かあるのかい?」
「嫌な気分とか、悲しいとか、ないの、全然?」
 フィリップは虚をつかれたように目を丸くした。考えたこともなかったのだろう。黙りこんでしまったのは、必死に思案しているからか。それが検索ではなかったことに、翔太郎は安堵する。
 顔色をうかがうように――あるいは助けを求めるように一瞬だけ視線がよこされたが、すぐにフィリップは亜樹子に向き直った。観察するように、真っ正面から彼女を見つめる。
 やがて、フィリップは慎重に口を開いた。底の知れないまなざしに、いくぶんか繊細な輝きが宿っている。
「何かを捨てられると、人は悲しいと思うのかい?」
「そうよ。悲しいし、胸が苦しくなるの」
 亜樹子が自分の胸元に掌を当てた。自らの右手をまじまじと見つめ、フィリップも同じように自身の胸に手を当てる。
「僕も嫌な気分にならなきゃならないの?」
「君はどう思うの、フィリップ君」
 フィリップは再び黙りこむ。
 亜樹子は両手を伸ばした。フィリップの肩をつかみ、まっすぐにその瞳を覗きこんだ。
「それが、心をこめて書いた手紙だったりしたら……悲しくて、苦しくて、悔しいよ。すごく嫌な気分になる。あんなこと……最低だよ。絶対にやっちゃいけないことなんだよ」
 亜樹子の飾らないまっすぐな言葉は、果たしてフィリップに届くか。
 翔太郎は固唾を呑んで見守る。
 やがて、フィリップは小さくうなずいた。ゴミ箱の方を振り返る。優しく亜樹子の手を振り落とし、ゴミ箱へと歩み寄った。手を突っこみ、手紙を取り出す。どうするのかと見守るふたりの目の前で、フィリップはテーブルに手紙を載せ、しわを伸ばしはじめた。
 亜樹子の唇が震える。かろうじて弧を描いた唇をかすめ、細い一滴がこぼれ落ちた。
(たぶん……)
 翔太郎は思う。
(亜樹子が言ったこと、あいつはほとんどわかってない)
 彼を取り巻いていた環境は、感傷や感性を育てることはなかった。最低限のモラルを持っていたことが奇跡のようにも思える。あるいは、それは本能だったのだろうか。すべてを利用しつくされようとしていた彼の、最後の抵抗。
 そのかろうじて残された一滴が、からくも行動を起こさせたのだ。
 フィリップは、弾吾と千鶴を思って手紙を拾ったのではない。目の前で泣きそうな顔で詰め寄る亜樹子のために手紙を拾ったのだ。
 翔太郎の口元が緩む。カップに唇を寄せ、さりげなく隠した。
(奇跡……いや、成長、か)
 フィリップの中でも、少しずつ変化は起きている。
 スツールに座り、手紙を読みはじめたフィリップの傍らに、亜樹子が寄り添うように歩み寄る。フィリップは顔を上げ、不思議そうに亜樹子を見た。亜樹子は、顔が近い、と文句を言いながらも、テーブルに本を置く。
 顔を寄せて手紙を読むふたりの姿は微笑ましい。嵐が去ったことを悟り、翔太郎は詰めていた息を吐く。ちょっとしたご褒美だと言い訳して立ち上がり、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 ふと思う。
 ひょっとして、亜樹子も同じような目にあったことがあるのか。もっと大きな、もっと大切なものを捨てられたことがあるのではないか――。
(邪推、だな)
 手紙を送ってきたその理由がわからないらしいフィリップと、一生懸命説明している亜樹子。ふたりを見守りながら、カップを用意する。
 平穏な時間は、いつまで続くだろう。
 フィリップがあんなに懐いている亜樹子も、あのはじまりの夜の真実を知れば、離れて行くに違いない。そのとき、フィリップに残されるのは翔太郎だけだ。そして、翔太郎に残されるのも、おそらくは――。
 どれほどの時間が残されているかはわからないが、せめて、いい思い出くらいは残してやりたい。そう願うのは、翔太郎のエゴだろうか。

*  *  *

 着地地点を考えないで書いたら、何だか薄暗く……。
 フィリップは亜樹子に叱られました。あの暴挙について、ちゃんと教えてあげなくちゃね。
 私の書く亜樹子は、どんどんお母さんになっていって困ります。もうちょっと女の子らしく書いてあげたいのになあ……。