シュレーディンガーの仮面/ダブル



 はがきを出したい、と相棒は言った。やめておけ、と翔太郎は告げた。
「それがケンカの原因?」
 話を聞いた亜樹子は呆れたように腕を組み、はしごに寄りかかった。視線が動き、ちらりとガレージの扉を一瞥する。気にくわないと感じるのは、亜樹子が何かとフィリップを構うからだろう、と分析してみる。
 手のかかる弟――息子とは思いたくない――を横取りされたような気分だ。
「もー、そんなことで言い合いになったの?」
 帽子のほこりをはたき落とすふりをしながら、翔太郎は座面をくるりと回して足を組んだ。
「……ほっとけ」
「ほっとけないわ。あたし、所長だもん」
 せっかく背を向けたのに、背もたれをつかんで向き合わされる。
「あのな、亜樹子……」
「なんではがき出すのダメなのよ。悪いことするんじゃないんでしょ?」
「あいつが悪事なんて面倒なことするかよ……」
 むしろ、鼻で笑って相手にもしないだろう。そのあたりは都合がいいほど合理的にできている。
「じゃあいいじゃない、はがきくらい。園咲若菜に出したがってるんでしょ?」
「まあな……」
 そういえば、翔太郎が園咲若菜と会ったという話をしても、特にうらやましがるようすはなかった。サイン入りブロマイドはあれほど喜んだのに――考えると不思議だったが、翔太郎には計れない何かがあるのだろうと、勝手に結論づける。
 フィリップが、翔太郎と亜樹子を疑似家族とカテゴライズしたのは数日前。以来、亜樹子のフィリップへの接し方が、姉を通り越して母親のようになっている。
 微笑ましいというには、にぎやかすぎたが。
 あまりに構われて、さすがに嫌になったのだろう。昨夜など翔太郎のところに逃げこんできた。フィリップも、亜樹子に対して「急に母親風を吹かせられても困惑するだけだ」とは言えないようだ。
 ヒエラルキーが完全に確立している。
(……あれ、もしかして一番下が俺か?)
 一番有能なのに――たぶん。
「まあ、フィリップ君だって、そういうの興味持つ年頃だし」
 ため息を量産しながら、すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付ける。
「年頃ってなんだよ……思春期か、あいつは」
「そんなもんじゃないの? 今いくつ?」
「俺か? 24だ」
「翔太郎君じゃなくて、フィリップ君!」
 振りかぶられるスリッパを必死に押しとどめ、翔太郎は慌てて言い直す。
「歳は知らねえ! たぶん……1年と少しだ」
「はぁ?」
 亜樹子の手からぽろりとスリッパが落ちる。頭大丈夫か、と言わんばかりの反応に、翔太郎は頭をかきむしりたくなった。
 ガレージに戻る直前、フィリップも同じような表情をしたのだ。君の正気を疑うよ、というような。
(少し……言い過ぎたか)
 後悔が胸の底をかすめる。
 はがきを出すこと自体には、本当は問題はないのだ。ラジオネームならば、フィリップという名前にも不都合はないだろう。
 だが、そこに「痕跡」が落とされることだけは、絶対に避けたかった。
 外界に興味を持ち始めたのは、喜ばしいことだ。
 1年前は、それこそ日光が足りないのではないかと心配になるほど、外に出ようとしなかった。かつての鳥籠のような薄暗いガレージにばかり閉じこもっていた。この頃はひとりで出かけるようにもなったし、ふらりと銘菓を買って帰ることもある。それは、本当に喜ばしい変化なのだ。
(だけどな……)
 フィリップは大きな口を叩くわりに警戒心が薄いし、護身術のひとつも使えない。トラブルに巻きこまれたときのことを考えると、亜樹子以上に不安だった。いや、人間ならば問題はない。あの独特のペースで煙に巻くことも不可能ではないだろう。
 一番おそろしいのは――あの赤いドーパントに見つかること、だ。
(この平和もいつまでもつか)
 普段は思考の外に締め出している懸念。
 狩り出される気配がないことを考えれば、あきらめたという結論に歩み寄ることはできる。あるいは、他に優先すべきことが彼らにはあるのかも知れない。
 安穏とした推測に寄りかかろうとしないのは、神経にわずかに引っかかる危機感があるからだ。言葉で言い表すことはできない、ほんのわずかな小波。その奥に、見落としている危険が潜んでいる――そんな気がする。
 探偵としての勘、戦うものとしての本能が、微かな不協和音を探り当てようとしている。
 気のせいで片づけるにはあまりにも重い引っかかりが、フィリップの願いを頑なにたたき落とした。
「……んなわけあるかっ!」
 気づくと、スリッパが眼前に迫っていた。ぱこんっと小気味よい音をたて、右のこめかみあたりに炸裂する。ずり落ちる帽子を慌てて捕まえた。
「お前、なにすんだ……」
「あんなでっかい1歳児がいるわけないでしょ!? どんだけ成長はやいのよ!」
「見た目は16かそこらだけどな、あいつの中身は子供みたいなもんなんだよ! 見ててわかるだろ」
「子供だってはがきくらいだすわよー!」
「いや、そうじゃなくて……」
 1年と少し発言はあっさり放り投げられた。
 ごにょごにょと口の中で言い訳をつぶやいた翔太郎は、にらみつけてくる亜樹子の視線を受けてひとつだけ大きなため息をついた。さらに目をつり上げる亜樹子を制するように、カップを傾ける。
「俺も、あいつのことはよくわかんねーんだよ」
「わかんないって……一緒に暮らしてるんでしょ!?」
 思い切りむせた。
「誤解を招くような言い方すんな! 俺は保護者、あいつは被保護者!」
「あたしは大家様で所長よ! わかるように説明しなさい、ちゃんとわかるように!」
 鼻先にびしっと人差し指を突きつけられる。きれいなアーチを描く爪が鼻の頭をかすめ、翔太郎は慌てて背を反らした。
 いつもの知りたがりの虫がうずき出したのだろう。息を整え、翔太郎は顔を上げた。
 思いの外真摯なまなざしに、息を呑む。
 脳裏を疾駆する、1年前の喪失。銃声、倒れ伏すおやっさん、流血、翔太郎にかぶせられた帽子、絶命、隣に立ちすくむ少年――あの夜に確実に何かが終わり、何かが始まった。
 頭を振り、映像を振り払う。
 亜樹子には話せない。少なくとも、今はまだ。
「……記憶喪失なんだよ、あいつ」
「記憶……喪失……。フィリップ君が?」
 肩をすくめてみせる。正確な表現ではないが、嘘でもない。
 亜樹子は腑に落ちない様子で首を傾げていたが、やがて、ひとつ大きくうなずいた。
「だから、家族って言われてパニックになっちゃったんだ」
「そんなとこだな」
 ヒーリングプリンセスの放送が終わり、無機質なニュースが流れ出す。興味ない検索対象を読み上げる声の響きに似ている気がして、胸が痛んだ。
 地球の本棚のあまりに膨大な知識に、フィリップの心は置いてきぼりにされている。安定した自意識があるように見えてその実不均衡な精神は、時に寒気がするほど振れ幅が大きい。未発達な情緒と発達しすぎた論理的な思考が、哀れなほど感情にセーブをかける。感情のまま疾走するのはほんのわずかな時間。怒りに駆られることがあっても、すぐに何事もなかったように鎮静する。
 それが、奪われた時間に起因していることは確実だ。
 自我を奪われ、自由をもぎ取られた命は、窮屈な檻の中でその有り様を歪めてしまった。
「ま、日常にはあまり支障はないんだけどな」
「地球の本棚は、記憶の手がかりってこと? 過去を探して……降りるの……?」
 喉の奥に小さな氷が落ちこんだような気がした。
 翔太郎だって、フィリップの説明を鵜呑みにしているだけだ。地球の本棚の本質なんてわからない。その知識を、フィリップがどのように使おうとしているのかも。探し求めるものがあるのかどうかさえ。
 翔太郎には、知識の一端をかいま見ることしかできないのだ。意識が重なったそのときにかすめるビジョン。あれは、膨大な知識が納められた図書館に相違ない。
 最後の一口を飲み干す。テーブルに戻したカップが、意外に大きな音をたてた。
 さあな、と気のない答えを返す。亜樹子はそれ以上訊かなかった。ラジオに歩み寄り、スイッチを切る。風車のまわる乾いた音が室内に満ちた。
「ふうん……まあ、記憶喪失なら、過保護なのも納得ねー」
 亜樹子のにんまりとした笑みに、思わず立ち上がった。
「なっ……誰が過保護だ!」
「翔太郎のは、過保護とは少し違う」
 その声に、ふたりは同時に振り返った。
 ガレージの扉が開く。姿を現したフィリップはラジオの方へちらりと視線を向けた。後ろ手に扉を閉め、平時と何一つ変わらない様子で歩み寄ってくる。
 亜樹子があっけにとられたように名を呼んだ。
「フィリップ君……」
 何ひとつとしてわだかまりのない笑顔で、彼は翔太郎と亜樹子を交互に見やる。
「僕を守っているつもりなんだ。そうだね、翔太郎」
 言葉こそ確認の形を取っているが、フィリップは事実を口にしているつもりだろう。先ほどのいざこざなど、フィリップにとっては過去のできごとに過ぎないのだ。どこか適当な本の1ページに分類済みだろう。
 翔太郎に残っていた微かなわだかまりも、その笑顔に霧散した。
 フィリップに対して怒りを持ち続けるのは、意外と難しい。こちらがいくら腹を立てたところで、フィリップはそのほとんどを理解できないからだ。
「ケンカ……してたよね。もういいの?」
「君は僕たちにケンカしていてほしいのかい」
「そうじゃないけどー。なーんかあっさりしてない? 男の子ってこんなもん?」
「もう片づいた問題さ。興味もわかない」
 答えは実にあっさりしたものだ。亜樹子は意外そうに視線をよこしたが、翔太郎は苦笑をひとつ返しただけだった。
 フィリップに感情をあわせていても、疲れるだけだ。
「翔太郎は心配で仕方ないんだ。この平和がいつまで続くかわからないから」
「え、なに? 何の話?」
 その話はやめろと目配せするが、軽く肩をすくめ、フィリップは言葉を続ける。
「追っ手がいるかも知れない、見つかればただではすまない……翔太郎の懸念もわかるけどね、それはあくまで可能性。確立の問題さ。気にすることはないよ」
「……あんなとんでもないのと戦えるかよ」
 おやっさんだっていないのに、という言葉は、喉の奥に押しこめた。
 あれは、普通のドーパントとは明らかに格が違う。
 フィリップは微笑した。翔太郎に背を向け、講義するように言う。
「僕たちは見つかっているかも知れない。でも、見つかっていないかも知れないね。半年後に生きているか死んでいるか、それもわからない。1時間後には、引き離されている可能性だってある。でも、何事もなく一緒にいるかも知れない。考えても無駄さ」
 さらりと言い放つ。
 あまりと言えばあまりな言い様に、亜樹子は目を白黒させていた。
 この瞬間にも囲いは完成し、翔太郎たちは閉じこめられているのかも知れない。だが、彼らは翔太郎たちの存在に気づいていないかも知れない――この先どうなるかなんて、誰にもわからないのだ。知識だけなら誰にも負けないフィリップにも、行動力にあふれすぎている亜樹子にも、もちろん、ハードボイルド探偵・左翔太郎にも。
 わかっているのは、近いうちに、大きな困難が巨大な顎を開いて待ちかまえている、ということだけだ。ひとりならなすすべもなく飲まれるしかないだろう。
 だが、翔太郎の傍らには、常に相棒がいる。決して裏切らない存在、守るべきもの、支えるべき相手として。
「……そうだな。閉じこめられても、穴開けて出りゃあいいんだ」
「君たちがそうしたようにね」
「もー、何の話よー」
 小走りに歩み寄った亜樹子が、フィリップの腕を捕まえる。彼はほどくでもなく気を使うでもなく、当然のようにベッドに腰を下ろした。引っ張られる形になった亜樹子も、隣にちょこんとおさまる。
「で、なんでいきなり戻ってきたんだ?」
「ラジオを消し忘れたんだ。でも、消えてるね」
「…………」
「なんで黙るの」
「いや。あいかわらず読めねえ奴だよ、お前は」
 何を言っているんだと言わんばかりに、フィリップは首を傾げた。亜樹子は微笑ましそうにそんなフィリップを見守っている。
 こみあげる笑いをかみ殺し、コーヒーカップに手を伸ばす。口を付けたところで、からになっていることを思い出した。
 意識を共有しても理解できない相手だからこそ、相棒にふさわしいのか。
 フィリップを守って戦い続けると、決めた。おやっさんから託された大事な相棒で――あの現場にいた共犯者でもあるから。
「コーヒー、飲むか?」
「あーっ飲む飲む! 風香堂のケーキ食べよう!」
「いつの間に買ってきたんだよ! っつーか、あそこ高いだろ!」
 亜樹子はいい笑顔でサムズアップを決めた。
「ちょっと食費を切りつめれば大丈夫よ!」
「全然大丈夫じゃねえ! メシくらい普通に食わせろ! 切りつめんならケーキだろ!?」
 ただでさえ、翔太郎のような探偵は体力を使うのだ。聞きこみで町中をかけずり回ることもあるし、なにより、ダブルへの変身とドーパントとの戦闘は、体力・気力ともに大きく消耗する。
 糖分もいいが、とりあえず動物性タンパク質がほしい。
「なによー! 女の子の燃料の半分はケーキよ、ケーキ!」
「燃料って……ロボットか!」
 にらみ合いを始める翔太郎と亜樹子をよそに、フィリップがのんびりとコーヒーの準備を始める。
 この1年は一緒だった。次の1年は、果たして――。

*  *  *

 こんなに長くなる予定は……なかったのに……。
 タイトルからはじめた作品なので、何がしたかったのかよくわからないシロモノになってしまいました……ある程度流れを考えてから書くべきでしたorz