夜に消える/ダブル



 鳴海探偵事務所の看板が、大いに変わった。翔太郎にとっては不満きわまりないことだが、相棒は大喜びで、出不精なことが嘘のように何度となく見に行っている。
 鳴海亜樹子は、仕上がった看板に至極満足そうだった。彼女がフィリップという強力な味方を得てしまった以上、翔太郎がどれほど抗議しても、聞き入れられる確立はゼロより右には動かない。
 どちらか片方だけならば、まだ挽回のしようもあっただろうが、抗議する元気も残されていなかった。もっとも、フィリップがあんな看板を作ることを自発的に考えつけるとは、翔太郎も思ってはいないが。

 情報収集から戻った翔太郎は、ハードボイルダーを事務所へ続く扉の前に横付けし、やけにカラフルになった看板をとっくりと眺めた。
 どこをどうとってもハードボイルドには不釣り合いすぎる。
「おやっさん、すんません……」
 あまりにポップな色合いにへこんできた。重厚な木の看板が見る影もない。
 むりやり目をそらす。腰に提げていた帽子をかぶり、扉を開ける。レンガ壁の階段を登れば、事務所の扉は目の前だ。
「おう、おはよう」
 階段を数歩登ったところで足を止める。振り返ると、向かいのそば屋の夫婦が、店の前の掃除を始めたところだった。階段を下り、翔太郎はふたりの元へと向かう。
「おはようございます。今日も仲いいっすね」
「あんたがうちの事件を解決してくれたおかげだよ」
 そばまんじゅうの包みを渡してくれながら、にこにこと夫人が言った。礼を言って受け取り、軽くたたまれた袋の口を少しだけ開ける。香ばしいにおいがふんわりと立ち上った。
 そのまま、翔太郎は通りがかった近所の主婦と、そば屋夫婦の雑談につきあう。うわさ話も貴重な情報源だ。特に、ご近所さんたちは翔太郎たちに好意を持ってくれているから、有益と思える情報もそうでないものも、積極的に教えてくれる。
 フィリップを事務所に迎え入れた当時、人間離れした少年への接し方がわからず混乱し、また、おやっさんを失って途方に暮れていた翔太郎にありがたい助言をくれたのは、近所のお母さんたちだった。
 ふと、そば屋の主人が顔を傾けた。
「おや、あの子……」
 振り返ると、看板の前にフィリップの姿があった。何かを考えこんでいる様子で、こちらに背を向けてあごのあたりに触れている。真っ赤なパーカーの小脇には、いつもの本を抱えていた。
「あのフィリップって子も、だいぶ元気になったみたいだね。こっち来て、もう1年くらいになるかい?」
「この間1年になりました」
 フィリップは何か不思議なものでも眺めるような目つきで振り返った。注視されていることに物怖じする様子もなく、何かを思ったそぶりもなく、まばたきの後ことんと首を傾げてから小さく頭を下げる。
 悪魔めいた輝きのない面差しはごく普通の少年のようで、翔太郎はわずか戸惑う。
 素っ気なく看板に向き直ってしまったが、フィリップの背は嬉しそうに見えた。ご近所さんの笑顔にも、彩りが加わっている。
「よかったな」
 そば屋の店主がしわだらけの目元をさらにしわくちゃにして笑った。
「おやっさんもしばらく帰らないって言ってたし、何だか元気なかったから、うちのと心配してたけど」
「充実してるみたいでよかったよ。あたしらの笑顔を守りたいって言う本人が笑顔じゃなきゃ、意味ないからね」
「そうそう。泣いてほしくないなら、まず自分が笑顔じゃないといけませんよ」
 元教師だという老婦人の言葉には、押しつけがましくない重みがある。
「俺は充分幸せっすよ。こうやって気にも掛けてもらえるし。相棒も……そう思ってるはずです」
 聞こえているはずのフィリップは反応しない。自らの居場所を噛みしめるように、記憶するように、何度も何度も指先で看板の文字をなぞっている。難解なパズルでも解くような仕草だ。
 難解な、パズル――ガイアメモリの引き起こす事件は、とびきり厄介なものを連れてくる。
 目の奥にわずかな闇が走った。フラッシュバックするのは、おやっさんと別れたあの日。
 何度となく夢に見る。悲鳴を上げて飛び起きる。そういうとき、寄り添う影のようにフィリップが間近にいて驚くことがある。彼は悪夢にうなされる翔太郎を起こすでもなく、時には涙さえにじませているのをからかうこともなく、また、慰めることも何があったのか聞くことさえなく、ぽっかりと目を見開いてただ眺めているのだ。
 すべての感情を断ち切ったような瞳で。
 看板を見つめ、どこかそわそわしているフィリップの後ろ姿に重なるのは、あの日、あの夜、初めてあの扉をくぐる直前――まだ、フィリップという名を持たなかった頃――の、病的なほど白い衣服に身を包んだ魔少年の姿。
 ほとんど口を開くことのなかったあの夜、喪失に苦しむ翔太郎の隣で、名もなき少年が一睡もしなかったことを知っている。
 不意にフィリップが振り返った。反射的に笑顔を向けると、訝しげに首を傾げられてしまう。内心を推し量ることなどという芸当が一切できない彼らしい遠慮のなさだ。
「翔太郎、お茶でも飲もうよ。そば茶、とかいうのがあるだろう?」
 店主が差し入れたそば茶とそばまんじゅうが、フィリップの最近のお気に入りだ。
 1年たって、だいぶ人間らしくなった。だが、まだ膨大な知識量とは裏腹に、滑稽なほど感情に不器用な相棒に、翔太郎は苦笑と共にうなずきを返した。
「すぐ行く。準備しててくれ」
 子供のようにこっくりとうなずいたフィリップは、足取り軽く階段を登っていった。
 挨拶を交わし、翔太郎もあとを追う。
 出会わなければ――おやっさんと翔太郎は、今もここで鳴海探偵事務所を構えていただろうか。
 出会わなければ――フィリップはあの装置の中で、ずっと生かされ続けたのだろうか。人間らしさの何一つとして知ることなく。
 出会わなければ――フィリップの言う「悪魔」は、相乗りする相手も見つからずに眠り続けていたのだろうか。あるいは――……。
(悪魔、か……止めてやるよ)
 食われてなるものか。食わせてなるものか。
 この街に涙は似合わない。誰ひとりとして泣いていてほしくない。だから、ドーパントを止める。
 ダブルへと変身するあの力は、きっと、与えられるべくして与えられたものなのだ。

*  *  *

 左のしゃべり方がいまいちよくわからない今日この頃。あまりにダブルが大好きすぎて、夢にまでぽんぽこ出てきます。