君と君とのハルモニア1/奏組 ひんやりとした風が髪を巻き上げる。人波のごった返す駅前通りを歩む源三郎は、のしかかる疲労にため息をこぼした。人混みには慣れたつもりだったが、人いきれに息が詰まりそうになる。 今日の昼公演はいつも通りの大盛況。音子の指揮にも失敗はなく、源三郎自身もまずまずの演奏ができたと思う。反省会もつつがなく終わった。 源三郎が1人で歩いているのは、なじみの菓子屋に行くためだ。菓子屋と聞いて目の色を変えた源二を止めてくれたのはルイスだった。あとでしっかりお礼をしなくては。 とはいえ、そろそろ心が折れそうな気がしてならない。 (失敗だった……着替えてくればよかった) 急ぎではなかったのだ、一度戻ってから出てきても、なんら問題はなかった。源二にまとわりつかれる煩わしさに大帝国劇場から街中へと出てきたが、これは確実に失敗だったと思う。 楽団服は、予想外に人目を引いた。他人の容赦ない好奇の視線が、ひどく神経をすり減らそうとする。悪意も善意も関係ない。ただ、ひどく疲れた。後悔が役に立つのも次回以降だ。意地だけで歩を進めながら、再び重たいため息をつく。 身なりのいい紳士とぶつかったのはそのときだった。いつもならこんな無様なことはないのに、勢いに負けてよろめく。 「失礼」 声を返そうとして異変に気づく。背を向けて歩きだす男の腕をつかむが、軽くふりほどかれた。確信とともに肘をつかまえる。 「ちょっと」 男は不愉快そうに振り返った。 「なんだね、君は? 謝ったじゃないか」 「謝られたからって、僕の財布をあげるわけないでしょ。返してよ」 男の片眉が跳ね上がった。怒鳴りつけようとする男を遮り、言葉を続ける。 「知らないなんて言わせないからね。背広の右のポケットでしょ」 「難癖はやめてくれないか、坊や」 「そっちこそ、ひとの財布を盗るの、やめてよね。大して入ってもないけど、あげないよ」 男のこめかみが波打った。まるで、本当に難癖をつけられて腹を立てているかのような反応だった。 足を止めもしない見物人はごまかせるかも知れないが、弓手の目を舐めないでほしい。ぶつかると同時に源三郎の服の内側に滑りこんだ指先が、源三郎自身に触れることなく財布を引っ張り出した光景が、瞼裏に焼きついている。 男の右腕が不穏に動く。殴る気だと他人事のように頭の片隅が告げ、衝撃に備えて奥歯をかみしめあごを引かせた。 周囲の人々は無関心だ。楽団服には興味を示しても、殴られそうな子どもには関心はないらしい。源三郎よりも頭ひとつ近く大きな男を止めに入るのは、よほど勇気が必要だろう。源三郎自身、片手で止める自信はなかった。 まさか、楽器ケースで殴りつけるわけにはいかないし。 予想外にも男の拳は下ろされた。自発的にではない。強く袖を引くものがいたのだ。 「みっともない真似はよしな。相手は子どもだろ」 言うが早いか、さっと手を滑らせて、源三郎の財布を男の内ポケットから抜き取る。芸術的とさえ言える、あざやかな手さばきだった。 男は舌打ちすると、ふたりの手をふりほどき、あっという間に人並みの中へと消えていった。 目を見はる源三郎を見上げ、彼女は艶然と微笑んだ。 「ふん、意気地のない男だったね」 「ふたり相手じゃ逃げられないと思ったんでしょ。それより返してよ、僕の財布。あんたがしまおうとしたら、大声出してやるから」 本気だったが、彼女はさもおかしそうに笑っただけだった。 「大声出すだけ?」 「女は殴るないじめるなって、兄さんがうるさいんだよ」 「あんたの兄さん、ここにゃいやしないよ」 からかうような微笑に、頬に血が上るのがわかる。胸の内がぐらぐらして、直視できずに目をそらす。 「うるさいな。本当に騒ぐよ」 「あんた、いい子だね」 財布を源三郎の服に滑りこませたのは、秋奈だった。長い黒髪は以前よりもすっきりと切られ、紅葉の揺れるかんざしでまとめている。やわらかな朱色の花が踊る和装は、以前のきつい色彩よりも彼女に似合っているように思えた。 秋奈はついておいでと目配せした。源三郎の用はとっくに済んでいたが、秋奈はなにか含むところがあるようだ。往来のど真ん中でいつまでも流れを遮っているわけにもいかない。あまり気は進まなかったが、先を歩く彼女におとなしくついて行く。 お礼も言っていないことだし。 秋奈に連れられてやってきたのは、駅前通りからほど近い神社の、広い境内だった。縁日でもないのにぽつぽつと屋台が出ていて、人々が思い思いに散策を楽しんでいる。気の早い紅葉に足を止める者もいた。
「さっきはありがと。僕ひとりでもなんとかなったけど、いちおうお礼は言っとく」 後頭部に向かって言えば、振り返った秋奈はおかしそうに口元を隠した。 「素直なのかそうじゃないのか、よくわからないねえ」 「うるさいな。それで、僕になんの用?」 「用、か……」 なぜか濁された。言いにくそうに視線を外される。横たわる沈黙が気まずくて、なんだかそわそわする。一度意識してしまうと、静寂は存在感をいや増した。これでもかとつついてくる居心地の悪さをなんとかそらそうと、周囲に目を向ける。 せかしていいのか、こちらから話題を振るべきなのか、それすらよくわからないのだ。逃げ出したくなった。 女の扱い方など、まったくわからない。 屋台が目に止まる。ちょっと待っててと言い残し、怪訝そうなまなざしを振り切って、足早に屋台へ向かった。ソーダ水をふたつ買って戻り、手巾で水気をぬぐってからひとつを差しだす。 秋奈は目を丸くし、まじまじと見つめる。 「いらないの?」 「……ありがとう」 桜貝のような爪がかちりと音を立てる。 「なんなの、その間」 座らないかい、と誘われて、並んでベンチへと向かう。座面を軽く払ってから秋奈を座らせ、少し離れて源三郎も腰を下ろした。 「これ、いくらだい?」 「今からお代わりの心配なんて、そんなに喉渇いてるの?」 壜に口をつけた秋奈がむせた。焦る源三郎を尻目に、肩を震わせ、声を上げて笑いはじめる。 むっとしながらも、自分のソーダ水に口をつける。 源三郎のソーダ水が半分になる頃、秋奈はようやく笑うのをやめた。目尻に涙が光っている。 「あんたのおごりなんだね。ありがとう、坊や」 今度は源三郎がむせた。壜を落としそうになる。 「僕、坊やじゃないし!」 「歳はいくつだい?」 「16」 「なんだ、坊やじゃないか」 「坊やじゃない、源三郎」 秋奈が目をしばたたいた。 「桐朋源三郎」 「ねえ、源三郎。あんた、いつもこうなのかい?」 意味がわからない。 「知り合った女に、ソーダ水おごってやってんのかい?」 なんだかいやらしい言い方だ。ふいと顔を背ける。 「たまたまだよ。僕が喉渇いてたから、ついでに買っただけ」 「素直じゃないねえ」 「うるさいな、ほっといてよ!」 源三郎がソーダ水を飲み干しても、秋奈はまだ話し出さなかった。空っぽの壜をもてあそぶ横顔には、いらだちにも似た感情がにじんでいる。 彼女の手から壜を受け取り、屋台に返してから戻る。 「今はなにしてるの」 膝に抱えたケースの縁に指先を滑らせ、源三郎は問うた。秋奈が身じろぎする気配がする。 「まっとうな仕事をやらせてもらってるよ。ほら、新しくフルーツパーラーができただろ。あそこさ」 秋奈があげた店の名は、兄が行きたいと大騒ぎしまくったあげく、ノリノリのジオと全力で逃げようとした源三郎を引っ張って突入した店だ。あの頃はいなかったから、入ったのは最近なのだろう。 あの店のそばは、しばらくは通りたくない。いろいろな意味で。 「僕も1回だけ行ったよ」 事実だけを話す。 「いいお店なんじゃない、おいしかったし。女ばっかりで、男が気軽に行かれるようなところじゃないけど」 「今度、音子ちゃんとでも来ておくれよ」 楽器ケースを落としそうになった。 「音子と? 僕が?」 「なかなかかわいらしいカップルだと思うけどね」 たぶん、顔どころか耳たぶも首筋も真っ赤だ。 「や、やめてよ、そういうの。別に、音子とはそんなのじゃないし」 「ふうん」 「なに、その意味深な顔。今すぐやめないなら、もう絶対に行ってやらないから」 秋奈は声を上げて笑う。屈託のない、明るく澄んだ笑い声だった。 まだつつき足りなそうな様子に、早急に話題を変える必要性を感じた。こんな話題にばかり持って行かれたら、源三郎の体力がもたない。 音子は最近はかなり頑張っているようだし、認めてもいいかなと思えるところが出てきたのは事実だが、それだけだ。ふたりきりでフルーツパーラーなんて、考えただけでも心臓が破裂しそうになる。 「なにか相談でもあったんじゃないの。ヒューゴと連絡とりたいなら、1回くらいは手紙でも伝言でも届けるけど」 財布を取り返す手伝いしてもらったし、と小声でつけ加える。なんだか妙に気恥ずかしい。 秋奈から明るさが消えた。思い悩むような気配に、やばいところを踏み抜いたかと焦る。 「あたしの気のせいかも知れないんだけどね、どうにも気にかかる奴がいるんだよ」 空気が音を立てて張りつめた。 最近、フルーツパーラーをよく訪れる客がいるそうだ。3日とあけずに通うその男は、アイスクリームひとつで3時間ほど粘り、帰って行く。来店時間はまちまちだが、いつも秋奈がいる時間帯に来るのだそうだ。 そして、じっと見ている。女給として忙しく動き回る秋奈を。絡みつくような視線で、ずっと追い回している。声をかけることもなく、近づけば目をそらして、離れればまた凝視する。 源三郎は二の腕をさすった。うそ寒い話だ。 はじめは気のせいだと思うようにしたそうだ。新人がめずらしいのだろうとか、たまたま視線の先に入りこんでいるだけだろう、とか。だが、偶然と思いこめるほど、その眼光は生ぬるくはなかった。 そうして、気がついたのだ。男が発する異常な気配が、あのときと――秋奈が降魔に襲われたときに感じた、異様な寒気にも似た圧迫感とまったく同じものだと。 「ふうん。浸食されてるかもね、そいつ」 人間にとりつく邪気というのも、意外と少なくはない。 「一度見に行くから、あんたがいる時間とそいつの特徴、教えてよ」 「いいのかい?」 「いいも悪いもないでしょ。仕事なんだから」 秋奈の目が和む。慌てて彼女の眼前に掌を突き出した。 「ちょっと、お礼とか言うのやめてよね」 「なぜだい?」 「言ったでしょ、仕事だから。できる奴ができることをやるのは当たり前……ってなにしてるの!?」 掌にふっと息を吹きかけられ、源三郎は飛び上がった。猫のような秋奈の目が、いたずらっぽく光っている。逃げようにも、手首をつかまれていた。力任せにふりほどくという選択肢は浮かびもしなかった。 「初心だねえ」 「こ、こういうのはヒューゴにでもやってよ!」 「ああ、あの色男もいいんだけどねえ。あんたみたいな初心な坊や……」 「なにをしてる」 ひどく不快な男の声がした。秋奈の表情がこわばる。 深海魚めいたまなざしと行きあった瞬間、全身の産毛が逆立った。氷のやすりで首筋を削がれるような感覚に、心臓が騒ぎ出す。 秋奈をそっとふりほどき、源三郎は立ち上がった。 「あいつさ」 少し離れたところに立つその男は、明らかに普通ではなかった。青黒く血管の浮き出た皮膚、激情にぎらつく焦点の合わない瞳、なにより、ゆらゆらと不安定に揺らぐ長身。執着というにはあまりに冷たい気配を感じた。行きすぎた妄執だろうか。 「やられてるね」 「どうするんだい?」 「まだ間に合うよ。みんなを呼んで浄化する。一緒に来てもらうよ」 がちがちにこわばった顔で、秋奈はゆっくりとうなずいた。 狙いは秋奈だろうから、離れることに意味はない。場所を変えよう。奏組が駆けつけるまでの時間を稼がねばならないし、ここは人目も人気も多すぎる。 秋奈を立ち上がらせ、そっと背を押す。戸惑ったように振り返った。 「あんたが先じゃないのかい?」 「なに言ってるの。僕が先じゃ、あんたを守れないじゃない。指示するから、先行って」 念のためにと持ってきた発煙筒を抜く。 蓋を外そうとした瞬間、手首に衝撃が走った。取り落とした発煙筒がわずかな煙を吐く。あまりに量が少ない。気づいてくれるかどうか。 痺れる手首をかばいながら、攻撃してきたものの正体を探る。 男は首を傾け、まばたきもせずに源三郎を見据えている。血の通わない作り物めいた眼球は、まるでガラス玉だ。ヤツメウナギを連想させる丸く開いた口、上の前歯の片方が欠けていた。 (歯を飛ばすのか。この距離で僕を貫けないなら、そんなに威力はなさそうだけど) 源三郎には、身を守れるだけの霊力がある。だが、秋奈では一撃を食らうだけでも危ないだろう。 男がさらに口を開いた。あごが外れそうなほど大きく開いた口は、人間のものではあり得ない。喉の奥にまでびっしりと生える歯の群れが見えた。吐き気が胸を揺さぶるが、奥歯をかみしめてこらえる。 顔面めがけて飛来した前歯を避け、源三郎も走り出す。 秋奈にはすぐに追いついた。 「本当にこっちでいいのかい?」 「他の人を巻きこみたいの? いいから走って」 ちらりと振り返ると、男の姿は遠い。走ってはいるようだが、早歩き程度の速さも出ないようだ。歯を射出するなどという特殊能力を持つせいで、身体能力はかなり削られたようだ。これで足が速かったりしたらどうしようもなかったが、なんとかなりそうだ。 そういえば。 浄化したとして、男の口もちゃんと元に戻るのだろうか。少し考えて、すぐに振り払う。思索をめぐらせる暇などない。自分自身が危険なときに、同情など寄せてはいられない。 背後の空気が勢いよく切り裂かれた。振り返らぬまま位置を変える。足下の石段が鋭い音を立てて小石を飛ばし、秋奈をかばった源三郎の背にも着弾した。息が詰まる。 目を見開いて振り返る秋奈に、目線で叫ぶ。 早く行け! * * * ・いわゆる「源三郎ルート」 ・音子ちゃんがかーなーり押せ押せ ・デレたあとなので、源三郎がやわらかい ・源三郎が「音子」呼び ・音子ちゃんも霊音を扱えます ・楽器の知識ない人が書いてます 前提をいちばん最後に書くという暴挙。 次へ→ |