君と君とのハルモニア2/奏組



 背がずきずきと痛む。呼吸のたびに脂汗がにじむのは気のせいではない。身動きするたびに、引きつれるような激痛が走る。
 それでも、源三郎は表情を変えなかった。秋奈に心配されたくない。
 振り返っても男の姿は見えなかったが、追跡されている確信があった。強烈な視線が、どこまでもついてくる。唾液にでも追跡機能がついているのだろうか。こちらを見失うことだけはなさそうだ。
「あんたの仲間はすぐに来るんだろうね?」
 群れる木立のそば、人気のない奥まった場所で足を止める。ここならふたりきりだ。他者を巻きこむ心配も、目撃されるおそれもない。
 手巾で汗をぬぐうふりをして、こっそり血を吐いたのは気づかれなかっただろうか。
「来ないかもね」
 秋奈が目をむいた。背を冷たい汗が伝う。まさか、気がつかれたのか。
「来ないかもってどういうことだい!?」
 そっちか。内心で安堵のため息をつく。女の泣き顔は苦手だ。
 マウスピースを取り出し、掌で温めながら息を吹きこんだ。その合間に答える。
「発煙筒をやられたからね。気づいてくれるといいんだけど」
「じゃあ……」
「とりあえず、僕がなんとかするしかないんじゃないの」
 少し温度が上がったところで、取り出したフリューゲルホルンに回し入れる。公演後に、メンテを念入りにしておいてよかった。ピストンも違和感なく動く。
 彼方に男の姿が見えた。のろのろと駆け寄ってくる姿は、米粒のように小さい。
(事件は前奏曲のうちに……か。もう第2楽章に突入してる気もするけど)
 これ以上、事態を大きくさせる気はない。
 秋奈に空の楽器ケースを押しつけ、木立の方へと押しやる。
「いい、あんたはそこに隠れてて。いざとなったらそれ盾にしていいから。絶対に出てこないでよ」
 手早くチューニングを済ませる。フリューゲルホルンは温まりきっていないし、音も完璧とは言いがたいが、これならなんとかいけるだろう。泣き出す肺をなだめて大きく息を吸いこみ――霊音を奏でる。
 足下の芝生がはじけた。男との距離はみるみる縮んでいく。当然だ。鈍足ではあっても男は駆け寄ってきているし、源三郎は秋奈と距離を取り始めた。
 男の目がどんよりとまばたきをするのが見えた。薄汚れた敵意が、完全に源三郎に固定される。まずは邪魔者を排除しようと決めたのだろう。秋奈から照準が外れたのは好都合だ。その方が、源三郎もやりやすい。
 守らずとも、攻撃に集中できる。射線から外す位置へ、じりじりと移動をはじめた。
 左腕を衝撃がかすめる。背後へ突き進む弾丸を、高い音色で遮った。狙いの甘さにいらいらする。
(僕を狙ってるくせに、なんでそんなずれるんだよ、へたくそ!)
 鋭い旋律で牽制し、響く低音で戦意を絡め取る。音を縒り集めて抑止力とし、弧を描く調べで男の弱点を探る。音子のように音が見えるわけではないから、攻撃は手当たり次第だ。とりあえずは腹部を狙う。急所のわからない敵は、源三郎にとってひどく手を焼く相手だ。1対1の状況では、体力勝負になる。
 男の狙撃は緩まない。火柱のごとく敵意を走らせ、虚ろな眼窩がぎらついた。
(腹じゃない……目でもない……どこだ?)
 喉の奥か。口を開いた隙に霊音を叩きこむが、反応は鈍かった。緩慢に頭を振るだけだ。音色が削り取った歯を足下に吐き出し、再び口を開く。
(サメの歯じゃあるまいし)
 荊の棘のように喉一面が立ち上がる。
 目をすがめ、撃ち出された軌跡を必死に計算した。ひとつは霊力ではじき、もうひとつはステップを踏んでかわす。だが、次の攻撃はかわしきれなかった。鈍い音を立て、左腿に突き刺さる。
 吸気が逃げる。悲鳴をかみ殺し、高らかな調べで立て続けの弾丸を迎撃した――勢いを殺しきれず、左足に次々と炸裂する。動脈は守ったはずだが、力が入らない。震える膝を意気地だけで支える。
 目がよく見えない。傷口は燃えるように熱いのに、寒くて寒くて仕方なかった。
(……くそ!)
 可能な限り威力を削いで、体で受ける方がダメージは少なそうだ。
 夕暮れに傾く大気に、くぐもった輝きがはじける。光点は3つ、わずかな弧を描いている。ひとつはかわしたが、あとのふたつはあえて受けた。左脇腹と左胸への着弾に呼吸が詰まる。とっさに身をひねって心臓から逸らしたが、あばらのきしむ音が聞こえた。
 次いで、額にはじける痛み。生暖かい感触が流れ落ちた。こめかみを通り、頬を、あごを伝い、真っ赤な鮮血が滴り落ちる。これで、左目は自由が利かなくなった。
 止めたくないのに演奏が止まる。黒ずんだ視野が狭まり、頭がひどくぐらつく。その場に膝をついた。
 秋奈の声が聞こえる。避けなかったことを怒っているような気がする。
(無茶言わないでよ。よけたらあんたに当たってたのに)
 跳弾とて大けがは免れないはずだ。
 片膝をついたままフリューゲルホルンを構え直す。ここで手を休めたら、受けた傷も無駄になる。
 面倒でも、なにがあっても、やるしかない。
 溶け落ちる視界に光が差した。その訪れはあまりに唐突で、なにが起きたのか理解するのにひどく時間がかかった。
 濁りよどんだ暗がりが、不明瞭な視界の端にわだかまっている。おそらく、邪気に魅入られた男のものだ。背後から伝わる華やかで悲痛な輝きは、きっと秋奈のものだろう。
 ならば、視界の右奥から近づいて来る、跳ねるような明るい光は?
「源三郎君!」
 その声に、冷えた全身に熱が戻る。
 息を切らせて駆けてきたのは音子だった。
「音子、なんで!?」
「嫌な音が見えたんです! それに、一生懸命でまっすぐな、源三郎君の音も見えたから」
 だからといって、ひとりで来る必要なんかなかった。音子は奏組の隊長だ。源三郎と違って代替はきかない。音を見るという希有な能力だけではなく、彼女の存在そのものが、奏組の光なのだから。
 こんな危ない真似をする必要なんて、ない。
 暗い気配が増大した。とっさに音子を押しのけ、右肩で弾丸を受ける。骨は無事だが、たぶん、筋を少し痛めた。耳元で血流がうなる。
「源三郎君、大丈夫!?」
「僕はいいよ」
 息を吹きこむ。手を休めれば、ささやかな防衛線を割られる。
「それより、弱点は?」
「こんなにけがしてるのに!」
 音子の手が肩に触れた。激痛に顔がゆがむ。音色が乱れ、霊音が散った。全身を苛む苦痛が、源三郎の気力を容赦なく突き崩す。
 もう、あまり余裕がない。男にも、源三郎にも。
「待って、今、皆さんを呼ぶから……」
「そんな時間ないよ」
 演奏の合間に言葉を挟むのがつらい。呼吸が続かなくなってきた。
 それに、発煙筒を抜けば標的は音子に移る。それだけは絶対にさせない。
「見て。今すぐ」
 その能力を持つものが、見合うことを成すのは当然だ。音子は弱点が見える、源三郎は弱点をピンポイントで狙える。ここで浄化を果たさなければ、男は確実に手遅れとなるのだ。浄化のために傷つくことの、いったいなにがいけないのだろう。
 彼にだって家族がいる。待っている人が、いる。
 痛いのは嫌いだが、これが最善なのだから仕方がない。ひとりなら苦しい相手でも、ふたりならきっと大丈夫。
 男が口を開く。狙いはホルンだ。風を裂く弾丸を左手を伸ばしてはじく。夕暮れにしぶく鮮血はやけに色鮮やかだ。演奏はひどく乱れたが、男は一歩進んだだけだった。
 音子が息を呑んだ。大きな瞳に涙が光る。その目を見つめ返す。覚悟と、懇願と、ありったけの信頼をこめて。
 唇を震わせ、音子はぐいと目元をぬぐった。大きくうなずく。
 源三郎も首肯を返した。牽制の旋律を奏でながら、身をもって音子を守る。邪悪な音の源を探して目を凝らす音子を、背にかばう。
「左目」
 ぽつりと言った。
 再びホルンを狙う一撃を、二の腕で受けることで守る。
「左目の奥に、邪気の塊が見えます!」
(奥か……届かないわけだ)
 マウスピースから口を離し、大きく息を吸う。全身の空気を入れ換えるように、大きく、深く。そうして構えた。
 鋭く駆け上がる旋律を吹き鳴らす。息が続く限りの馥郁たるロングトーン、そして、可能な限り研ぎ澄ませた蒼穹のハイトーン――高らかに奏でる、浄化の霊音。
 収束する霊力を、男の左目へと一直線に叩きこんだ。
 周囲の空気がゆがむ。逃げ場を探すように邪気が渦巻き、苦しげに波打った。源三郎の息が尽きるのが先か、邪気を浄化しきるのが先か。
 前者なら、すぐにふたりを逃がさなければ。
 頭ががんがんする。肺が空気を求めて内側から胸を叩く。心臓がきしみを上げ、鼓動に合わせて全身が痺れる。血が煮えたぎるような感覚に、視界が揺らいだ。
(まだ……まだか……)
 霊音の浸透が予測より遅い。最奥部に至るまでの防御が厚いのだ。嫌な均衡がじわりと冷や汗をにじませる。
 基礎体力の低さを呪う。あと少し、もう少しなのに、息が――体力が続きそうにない。喉が震える。最後の最後、わずかな空気をかき集め、渾身の高音を吹き鳴らした。
 腕が落ちる。マウスピースが口から離れた。咳きこむように空気を貪る。温かい手が伸びて、座りこむ源三郎を支えてくれた。
「汚れるよ、音子」
 かろうじて押し出した声は、ひどくかすれていた。頭を抱きしめるぬくもりが、やさしく髪をなでる。
「あいつは……?」
「心配ないよ」
 こんなに血にまみれているのに。音子は袂で額をぬぐってくれた。まつげにまつわる血が重たい。音子の面差しは、やわらかな光に縁取られているように見えた。
「少し、貸してくれる?」
 え、なにを?
 音子が離れた。源三郎の右手からフリューゲルホルンがもぎ取られる。ベルが向けられた先を見て、心臓が冷えた。
 天を仰いで倒れ伏した男の左目から、邪気の塊がどろりとこぼれ落ちる。次の宿主を探す瀕死の虫のようにうごめきながら、少しずつこちらに近づこうとしていた。
 音子はためらいもなくマウスピースを唇に当てた。
(えええー!? うそ、なんで!?)
 あまりのことに、声すら出ない。こめかみがかっと熱くなった。
(僕の……僕が吹いてた……ホルン、なのに……ええー!?)
 密かにパニックに陥る――呼吸困難寸前だ――源三郎を気にする様子もなく、高い霊音が鳴らされた。よく見れば、ピストンには手を触れないままだ。唇だけで高音を鳴らしている。初めて吹くはずなのに、その音色は包みこむように穏やかで、ゆりかごのように優しい。
 ほんの数秒の独奏が、邪気を完全に吹き散らす。
「やった! 邪気を浄化しました!」
 マウスピースから口が離れる。唇の端が一瞬だけマウスピースにくっついたのを見て、もう耐えられなかった。
「無理……」
 本当にもう、いろいろと。きっと、顔も真っ赤だろう。
 跳ねるような足取りで音子が戻ってきたが、ホルンを受け取る気力すらない。その場にごろりと仰向けになった。
「源三郎君!? 大丈夫!?」
「これが大丈夫に見えるの……? 少し休ませてくれない」
 泣き出しそうな音子が大写しになる。直視できなくて目を閉じた。ついでに腕を上げて顔を隠す。どんな表情をしているのかなんて自分じゃわからないが、なにがなんでも見られたくない。
 息を整えながら、ことさらゆっくりと口を開く。喉から胸郭にかけて、滲みるような違和感があった。
「けがは?」
「大丈夫。源三郎君が守ってくれたから」
「そう……よかった」
 吐息が口元に跳ね返ったのは、まさか、音子が耳を寄せているからか。血に麻痺した嗅覚が、いい匂いをより分けた、気もする。
 絶対に目をあけられない。あけたくない。
「あっち、保護対象……けがはないと、思うけど……」
「えっ」
「僕はもう無理」
 言い切って、大きく息をつく。頬をくすぐったのは、源三郎のものよりも硬質な髪だ。腹の上にホルンが載せられる。
(どんな体勢だよ……絶対からかわれる……)
 秋奈の顔も直視できない。
 芝生を踏む音がして、音子と秋奈が互いを呼び合う声が耳朶をくすぐる。花のような歓声がした。ふたりは手を取り合って跳ねているようだ。そんなに親しい間柄とは知らなかった。
 溶けそうになる意識をぎりぎりに踏みとどまらせて、何度目とも知れないため息をついた。
 金平糖を買いたかっただけなのに、とんだ回り道だ。あちらこちら打ち身と傷だらけ、服はぼろぼろ――こんな状態では、今日は買いにも行かれない。店を訪れたところで、通報されるのがおちだろう。


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 がしがし動き回る戦闘も大好きですが、あまり動かずに戦うのも好き。
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