声が届くとき/奏組



 食堂を飛び出す弟の後ろ姿を見送り、源二はため息をついた。周囲の同情、あるいは好奇のまなざしが痛い。
「……源三郎があんなにも怒る『縁日』とはなんなのだ?」
 あっけにとられたようなジオの言葉にも反応できないくらい、ごっそりと気力を持って行かれた。
『行かないよ、縁日なんて』
『しつこいな、行かないって言ってるでしょ』
『行きたいならひとりで行けばいいじゃない。なんで僕まで』
『行かない。絶対に行かないから!』
『馬鹿!』
 最後は食べかけの焼き魚もそのままに、箸をたたきつけるようにして飛び出していった。あんなにも怒られる理由がさっぱりわからない。
 ぽつんと残された魚の半身をほぐしながら、源二は小さく自虐の笑みを浮かべた。舌に乗せた身は、やけに苦い。味にうるさい源三郎が文句も言わずに食べていたのだ、まずいはずはないが。
「あいつ、なんであんなに怒ってんのかな……」
「他の約束をしていたということはありませんか?」
「ない……な。起こしに行ったときは機嫌よかったのに」
 幼い頃のように笑顔を浮かべて、少し舌っ足らずに「兄ちゃん」と笑った。すぐに我に返って枕を投げつけられたが。
 あんな優しい笑顔を見たのは、一体何年ぶりだろう。無邪気な笑顔は両親が生きていた頃だけ。親戚のもとで暮らしていた頃は、生々しい傷口を精一杯に覆い隠したような、屈託のなさを装った痛々しい笑顔ばかりだった。
「源三郎の漬け物をとっただろう」
「そのくらいじゃ怒らねえって。柴漬けはとんなかったし」
 そういえば、今日は横から手を伸ばしてもなにも言わなかった。いつもなら、みっともないよと手を叩いてきたり、やめてよと手をつかまえようとしたり、言葉だけでも威嚇してきたりするのに。
 心ここにあらずといった様子で、ぼんやりと味噌汁を見下ろしていた。食堂の入り口へとやたらと目を向けていた気もする。
「では、食堂に来る前になにかしたのではないか?」
「……なんで俺が怒らせた前提なんだよ!」
「勝手に怒るほどわがままでもなかろう」
 ぐっと詰まる。
 ジオの言うとおりだ。口も悪いし天の邪鬼だが、その中心はひどくまっすぐだ。むしろ、素直すぎるくらいだろう。他者とのふれあいがあまり得意ではないのは、人見知りのせいだ。幼い頃の環境が、これ以上ないほど深い傷を残した。
 とげとげしく鎧をまとうことで、自分が傷つく可能性を徹底的に排除しようとしている。
「今日は休みだし、構ってやるといい」
 ジオの助言は、とことんずれていた。
 そして、構ってやろうにも、弟の姿はどこにもなかった。かなで寮はもちろん、大帝国劇場にも。
 起き抜けの上機嫌から不機嫌の極みへと転がり落ちた、その理由はなんだろう。
(転がり落ちる、か……前もあったな、こんなこと)
 そのときはいい方へと転がったけれど。


 ぼんやりと坂を転げ落ちるだけだった源二たちの人生が変わったのは、忘れもしないあの夏。
 寝苦しい夜だった。
 手も足も首も、蚊に食われて真っ赤だった。満足に汗を落とすこともできなくて、着た切り雀で、汚らしい身なりでいつも寄り添っていた。あせもをかゆがる源三郎をなだめて、汚らしくすり切れたござに並んで寝転がる。破れた蚊帳は、ほとんど役目を果たさなかった。
 縁側からは、嫌味なくらい晴れ渡った空が見える。一筋の雲は、蚊遣りから立ち上る煙だ。
「兄ちゃん……喉、かわいた」
 奥に寝かせた源三郎がかすれた声で言う。振り返って額に手を当てれば、少し熱っぽい。暗くてよく見えないが、きっと顔も真っ赤だろう。
(どうしよう……)
 冷たい水を含ませた手ぬぐいで体をぬぐって、しっかり眠ればよくなる、と思う。
 だが、勝手に井戸を使えば殴られるし――そういうとき、家人は源三郎を殴る。悪ガキに混じって腕っ節が強くなった源二ではなく、気弱で泣いてばかりの源三郎を打つ――真夜中に向かうには、川は遠すぎる。
 冷たい水をやりたくても、しっかりした蚊帳の中で眠らせてやりたくても、子どもの源二にはなにもできない。そばにいてやることしかできない。
 苦しそうな弟の頭をなでる。
「朝になったら、川に行こうな」
 掻きくずれてじくじくと体液のにじむ手首に、幾分かきれいな手ぬぐいを巻きつけてやる。きゅっとしばった蝶結びに大切そうに触れ、源三郎ははにかむように笑った。
 胸の中で、冷たい塊が転がった。
 少しの熱だから、まだいい。でも、これが命にかかわるような病気だったら? 両親を奪い去ったような病だったら、どうなる?
 源三郎がいるから、源二は立っていられるのだ。ひとりじゃないから、絶対的な味方がいて、なにがあっても疑わず愛情を向けてくれる弟がいるから、立ち止まらずにいられるのだ。もしいなくなったら――心臓が嫌な音を立てて脈打った。
(大丈夫)
 手を伸ばせば、汗ばんだ掌にふれる。つかまえれば、嬉しそうに握りかえしてきた。
 腹の虫が鳴ったのはそのときだ。源三郎ではなく、源二の。
 びくりと肩を揺らした源三郎を安心させるように笑ってみせる。
「今、俺は成長期なんだ。いくら食べても腹減るんだよ。お前は気にすんな」
 この空腹の原因は、自分の分もほとんど源三郎に食べさせているからだ。体だけでも大きくなれば、家人も源三郎を殴らなくなるかも知れない。自分がひもじい思いをするのは構わない。でも、弟だけは。
(こいつを守れるのは俺だけなんだ……)
 眠りの世界に誘われる弟の、白いまぶたを見つめる。手の中の指は熱い。つらそうな呼吸が頬にかかった。
 もし、このまま熱が下がらなかったら――嫌な考えを振り払い、目を閉じる。
 ふたりきりで取り残されて、どれくらいの年月が経っただろう。季節を数える余裕などなかった。気がつけば源二は声変わりが始まっていたし、源三郎の身長は源二とほとんど変わらなくなっていた。数年ということはないはずだが、実感がない。
 唇をとがらせ、鳴らさぬよう細心の注意を払って息を吹きこむ。こうすると、なぜか心が落ち着いた。まわりに渦巻くたくさんの嫌なものが、少し遠ざかる気がする。
「うん、いいね」
 まぶたの裏の不安な闇を切り裂いたのは、明朗な男の声だった。
 目を開ければ、沓脱石の向こう側に背の高い男が立っていた。軍人のように広い肩、源二たちがぶら下がってもびくともしないだろうたくましい二の腕、布地越しでもわかる厚い胸板、なにより、今まで見たこともないほど大きな体躯――恐怖を覚えてもおかしくない状況だったが、なぜか、源二は安堵を感じた。
 彼のまとう空気が、あまりにも穏やかだったせいだろうか。
「君の音は滲みる。世界は広いな、こんなにも優しい音を奏でる子がいるなんて」
「おっちゃん、誰?」
 もそもそと起き上がり、尋ねる。縁側に腰を下ろした男は、冬の空のような青い瞳を細めて微笑した。胸の中がほかほかするような、あたたかな笑顔だった。
「おっちゃんは冒険家、みたいなもんだ。あっちこっち旅してる」
「ふーん。ここにも冒険に来たのか?」
「冒険というか、音楽を探しに来たんだな」
「音楽……」
 男の髪の色は、源三郎とそっくりだった。手を伸ばして触ってみると、源二よりも固い。急に触ったのに、彼は怒ったりしなかった。にこにこと頭をなでてくれる。
 そんな子どもじゃないのに、と不満に思う反面、照れくさくてあたたかな、不思議な気分になる。
「一緒に来たまえ。君たちの音楽が必要になる。近いうちに、必ずな」
 眠り続ける源三郎の手を握り直す。
「俺と源三郎が離ればなれになるなら、ダメだ」
「『君たち』と言っただろう? 必要なのはひとりじゃない、君たちだ」
「一緒?」
「ああ、一緒だ。ケンジンキカンに口を挟ませやしないさ。人は、人が守らなければな」
 言っている意味がよく理解できない。ぽかんと見上げる。
「明日の昼頃、迎えに来るよ」
「……弟は、熱があるんだ」
 下がるまで遠くには行けない、と続けようとした。
 男がゆったりと腕を伸ばす。源三郎の前髪をやわらかくかき分け、額に指先を触れた。頬にかかる髪を払い、すぐに離れる。
「大丈夫だ、朝までには引く。それではな、少年」
 男は音もなく立ち上がった。ひらひらと手を振って、振り返りもせずにぶらぶらと歩いて行く。まるで散歩の途中で立ちよったような気軽さだ。
 翌朝、源二よりも早く目覚めた源三郎の熱は、すっかり引いていた。
 ぎらつく朝陽から顔を背けるふたりの髪を、熱い風が巻き上げる。
 大きな旗が、音を立てて翻るのを感じた。目に見えるものではない。心、あるいは魂に存在する旗だ。
 自分の命に、ようやく足を踏み入れた気がした。


 なじみの弓道場を出たところで、源二は足を止めた。
「あ」
 思い出した。
「今日は、おっちゃんのとこで暮らしはじめた日……」
 お金で買ったんだよなんてあくどい顔を作って笑っていたが、あの日、源二たちは救われたのだ。
 おっちゃんは、源二のために本格的に格闘術を習える道場を探してくれた。源三郎には弓道場を見つけてくれた。ふたりにおいしいご飯と家族のぬくもりをくれて、楽器を教えてくれた。勉強もたくさんさせてくれた。残念ながら、源二にはあまり息づかなかったけれど。
 小さな熱い手と、大きな力強い手に挟まれてはしゃぎ回ったあの日が、昨日のことのようにあざやかに思い起こされた。
 一緒にいられたのは、たったの半年。こうしてまっとうにいられるのは、彼の影響も大きい。
 毎年、この日に合わせて手紙が届く。海の向こう、遙かな空の彼方、想像もつかない異国、いろいろな場所から、ふたりに宛てて。未だに彼の正体はわからない――いくら聞いてもはぐらかされたし、自分でも知らないと言っていた――が、華撃団の関係者なのだろう。
 きっと、彼にも霊力はある。源三郎の熱を下げたのは、おそらく彼の力だ。
「そっか……だから怒ったのか、あいつ」
 おっちゃんからの手紙がどうでもよくなったわけじゃない。めまぐるしい日常が、ほんの一瞬だけ思い出を隠したのだ。
 手紙が届いたその日のうちに、いつも返事を書いている。便せんの中の宛先に、いつまでもおっちゃんがいるとは限らないから。だから、すぐに手紙を書いて、宛先を記して投函する。可能な限り、早く。
(ごめん、おっちゃん)
 源三郎にも可哀相なことをした。
 蝉時雨を振り払い、かなで寮への道を全速力で走り出す。赤く染まる空の彼方には入道雲。遠雷のように太鼓が鳴る。1度車にぶつかりかけたが、それでも足を緩めない。水をまくルイスと笙の前を駆け抜け、かなで寮の階段を一気に駆け上がる。
 ノックもせずに源三郎の部屋に飛びこんだ。
「え、ちょっと、なに!?」
 窓際の源三郎が飛び上がった。慌てたように椅子ごと振り返る。指先から万年筆が転がり落ちた。目をまん丸に見開いて、あっけにとられたようにまばたきを繰り返す。険の抜け落ちた頬の丸みと、あどけない面差しに、無邪気に過ごせた時間の短さを思い知らされた。
 ライティングデスクに広げられた便せんに目が止まる。
「どうしたの?」
「おっちゃんから来たんだろ、手紙!」
 途端、いつもの源三郎に戻った。馬鹿にしたように眉を寄せ、唇をとがらせて言う。
「当たり前でしょ。おじさんは忘れたりしないよ、兄さんと違ってね」
「いつ来たんだよ?」
 朝はなかった。だから、源三郎はあんなにそわそわしていたのだ。
「お昼過ぎ。いつもとは違う人が来たよ」
 少し端のよれた封筒を差しだしてくる。万年筆を拾い、交換に差しだした。源三郎が顔をしかめる。
「うっわ、汗くさっ!」
「急いで来たんだ、仕方ねーだろ! ほんっと可愛くねーの」
 ふん、とそっぽを向く弟を放置して、源二は封筒を裏返した。コンパスローズに似た花の紋章が刻まれたスタンプ、読めたためしのない筆記体の宛名――源二と源三郎の区別がつくのは、封蝋の色が違うからだ。源二は赤、源三郎は青。タイの色と同じだ。
 本文は日本語で綴られている。文章自体は流暢だが、ひどくたどたどしい印象を受けるのは、とにかく文字がへたくそだからだろう。大きな体を縮めて、不慣れな文字を一生懸命書きこむ姿を思い浮かべると、なんだかほほえましい。
「おじさん、イタリアなんだね」
「でも、アメリカに送れって書いてあるな。紐育?」
「……元気そうだね」
 会いたいねとは言わなかった。源二も言わなかった。そんなことを言ったら、おっちゃんは困ってしまうだろう。彼は絶対に源二たちを甘やかさなかった。生きるための道、生き抜くための手段を教えこむために源二たちを引き取ってくれたのだ。
 もう2度と会えないかも知れない、と言った。会えなくても、絶対に忘れない、と。
 手紙の末尾はいつも同じだ。「愛してる」。
「……縁日」
 ぼそりと源三郎が言う。
「うん?」
 きょとんと見上げれば、源三郎は盛大にそっぽを向き、耳まで真っ赤にしながら言葉を続けた。
「兄さんがどうしてもって言うなら、行ってあげてもいいけど」
「はあ?」
「言ってたじゃない、縁日に行こうって」
「そうだけど……」
 拗ねたように背中を向けてしまう弟を見て、はっと気がついた。慌てて手紙を読み直す。結びの一文の少し前に、その言葉があった「久しぶりに縁日に行きたい」。
 思わず吹き出すと、なに笑ってるのと怒られた。真っ赤な頬で言われても、怖くも何ともない。手を伸ばして、源三郎の頭をなでる。おとなしくなでられながらも、源三郎は絶対にこちらを見ようとはしなかった。
 本当に、素直じゃない。
「さっさと手紙を書いて、行くか、縁日。たまには日本にも顔を出せって言ってやんなきゃな」
「そうだね」
 蝉の歌の中に、太鼓の音が混じる。
 今年の手紙には、縁日と仲間の話を書こう。きっと、おっちゃんも喜んでくれるに違いない。


*  *  *

 需要がないと知りつつ書いてしまった奏組第4弾。
 小さい頃の桐朋兄弟が可愛すぎたので、その頃を書きたかったのですが、成長しすぎました。モブを出したがるのは私の悪い癖ですorz
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